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もしも『源氏物語』の姫君たちが、幸せを選べたなら  作者: くるみ


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2/19

月待

【原作では】

六条御息所は、亡き前東宮の妃で、光源氏との関係に悩み、斎宮となった娘とともに伊勢へ下ることを考えていました。

賀茂祭に先立つ御禊の日、源氏の姿を見ようと忍んで出かけますが、葵の上一行との車争いで大きな屈辱を受けます。

その後、本人も知らぬうちに生霊となって葵の上を苦しめ、やがて娘とともに伊勢へ下ります。

庭の萩が、暗がりの中で絶え間なく揺れている。

御簾の隙間から吹き込んだ風に、燈台の火が細長く傾いた。


六条御息所は、文机の前に座っていた。

机の上には、一通の文がある。

夕刻、光源氏から届いたものだった。


明日の賀茂祭には、自分も見物へ出る。

人目が多いため、言葉を交わすことはできないが、同じものを眺められるだけでも嬉しい。


美しい文字で、そう書かれていた。

御息所は、文を畳んだ。


同じものを見る。

同じ月。

同じ花。

同じ祭。


隣にいることができなくとも、彼と同じものを眺めていると思えば、寂しさに耐えられた。

長いあいだ、そう信じてきた。


「明日の御車は、一条大路へお出ししてよろしいでしょうか」


女房が尋ねた。


「早く出れば、よい場所を取れるかと」


御息所が答える前に、妻戸の外から声がした。


「母上。まだ起きておいでですか」


娘の姫宮だった。

御息所が招き入れると、姫宮は寝支度を終えた姿で、母の前へ座った。


机の上の文へ目を向ける。

差出人を尋ねることはしなかった。

香りだけで分かったのだろう。


「明日、賀茂祭へお出かけになるのですか」


「そのつもりです」


「わたくしも御一緒してよろしいでしょうか」


御息所は目を伏せた。

娘を連れていくことは考えていなかった。

祭を見るためではない。

光源氏を見るために出かけるのだと、自分でも分かっていたからだ。


「人が多く、騒がしいでしょう」


「では、母上もおやめになればよいのに」


姫宮はあっさりと言った。

御息所は、思わず娘を見た。


「私は楽しみにしているのですよ」


「賀茂祭をですか」


姫宮の目は静かだった。


「それとも、源氏の君を御覧になることをですか」


室内の空気が止まった。

女房たちは一斉に顔を伏せた。


「どこで、そのようなことを」


「皆、知っております」


姫宮の声に、責める響きはなかった。


「源氏の君がお越しになる夜は、母上が朝までお眠りにならないことも。お越しにならない夜も、朝までお待ちになっていることも」


御息所は扇を握った。


「母上は、あの方をお好きなのですね」


認めることは容易だった。

けれど、その先にある問いへ答えることができなかった。


ならば、なぜ隠れるのか。

なぜ、いつ訪れるかも分からない人を待ち続けるのか。


「母上は、幸せでいらっしゃいますか」


姫宮の声は小さかった。

御息所は机の上の文を見た。


優しい言葉。

美しい文字。

次はいつ訪れるとも書かれていない文。


「分かりません」


初めて、そう口にした。


姫宮が驚いたように目を見開いた。

御息所自身も驚いていた。


愛されているのか。

忘れられていないのか。

ほかの女より大切にされているのか。


考えるのは、いつもそのようなことばかりだった。

自分が幸せであるかどうかは、いつも後回しにしていた。


「伊勢へ御一緒してくださいますか」


斎宮に選ばれた姫宮は、いずれ伊勢へ下る。

御息所は、同行するかを決められずにいた。

都を離れれば、光源氏との縁も遠くなる。


「あなたは、私に来てほしいのですか」


「はい」


返事に迷いはなかった。


「わたくしには、母上が必要です」


その言葉は、御息所の胸の奥へ静かに落ちた。


前東宮の妃としてではない。

高貴な姫君としてでもない。


ただ、母として。


「明日の祭は、取りやめにしましょう」


御息所が言うと、女房たちが一斉に顔を上げた。


「よろしいのでございますか」


「ええ。車の支度も不要です」


姫宮が、ほっとしたように笑った。

その笑顔を見て、御息所は何かを失ったのではなく、取り戻したのだと思った。


◇


翌日、六条の邸はいつになく静かだった。


都の人々は皆、賀茂祭へ出かけている。

御息所は廂に座り、姫宮と琴を合わせていた。


姫宮が一音、弾き損ねる。


「あ」


「急ぎすぎです」


「母上が速いのです」


「私のせいにするのですか」


姫宮が笑った。

御息所も、わずかに口元を緩めた。


そのとき、門の辺りが騒がしくなった。

女房が慌てて入ってくる。


「源氏の君がお越しでございます」


琴の音が止まった。


「祭へお出ましではなかったのですか」


「御息所様のお車が見当たらなかったため、こちらへ」


以前なら、その言葉だけで胸が高鳴っただろう。


自分の姿を探してくれた。

祭を抜けて、訪ねてきてくれた。

けれど今は、別のことを考えた。


自分が姿を見せなければ、彼は来る。

自分が待っているあいだは、来ないのに。


「お会いになりますか」


姫宮が尋ねた。

御息所は立ち上がった。


「ええ」


逃げるためではない。

終わらせるためだった。


◇


光源氏は御簾の外に座っていた。

祭のために整えられた華やかな装束のままだった。


「なぜ、お越しにならなかったのです」


挨拶を終えると、彼はすぐに尋ねた。


「気が変わりました」


「体調でも悪いのかと」


「いいえ。姫宮と琴を弾いておりました」


光源氏は黙った。

御息所が彼よりも別のものを選んだことが、意外なのだろう。


「私の文は、御覧になりましたか」


「拝見しました」


「では、なぜ」


「源氏の君」


御息所は、彼の言葉を遮った。


「私たちは、もうお会いしないほうがよいのでしょう」


御簾の向こうで、衣擦れが止まった。


「突然、何を」


「突然ではございません」


御息所は、自分の声が震えていないことに驚いた。


「私は長いあいだ、あなたをお待ちしておりました」


「分かっています」


「いいえ。分かってはおられません」


光源氏は何も言わなかった。


「今夜お越しになるのか。次はいつなのか。それを尋ねることもできず、ただ待っておりました」


「尋ねてくだされば」


「尋ねれば、お越しになりましたか」


返事はなかった。


「お越しになったかもしれません。けれど、それは私を選んだからではなく、私が悲しんでいると知ったからでしょう」


「何が違うのです」


「違います」


御息所は静かに言った。


「私は、憐れまれたかったのではありません」


庭を風が渡った。

萩の葉が一斉に揺れた。


「あなたを愛しておりました」


御息所は続けた。


「今も、お慕いしております」


御簾の向こうで、光源氏が息をのんだ。


「ならば」


「だからこそ、終わりにいたします」


「分かりません」


光源氏の声に、苛立ちが滲んだ。


「愛しているのなら、なぜ離れるのです」


「あなたを愛するたびに、自分を嫌いになるからです」


御息所は扇を握り締めた。


正妻より優先されたいと願ったこと。

光源氏に愛される女たちが、いなくなればよいと思ったこと。

そのような心を抱くたび、自分が自分でなくなっていった。


「私は、あなたを愛したことまで、醜い思い出にしたくありません」


光源氏は長いあいだ黙っていた。


「伊勢へ下るのですか」


「姫宮とともに参ります」


「私から逃げるために?」


「いいえ」


御息所は答えた。


「私自身へ戻るために」


その言葉を口にした瞬間、胸の奥にあった重いものが、少しだけ軽くなった。


「お引き止めにならないでください」


「引き止めれば、残ってくださるのですか」


以前なら、残っただろう。

その一言を、何年も待っていた。


「いいえ」


御息所は答えた。


「もう、あなたの言葉で、自分の行く先を決めたくはございません」


光源氏は何も言わなかった。

やがて立ち上がる気配がした。


「あなたを失うとは、思っていませんでした」


その声は、ひどく静かだった。


「私も、自分を失っているとは思っておりませんでした」


御息所は答えた。


「どうぞ、お健やかに」


「あなたも」


光源氏は、それ以上何も言わずに帰っていった。


牛車の音が遠ざかるまで、御息所は御簾の内に座っていた。

胸には大きな空白が残った。

けれど、その空白は恐ろしいものではなかった。

これから、自分で満たしてよい場所だった。


◇


伊勢の風は、都よりも強かった。

海から運ばれる塩の匂いが、斎宮の御所の庭まで届く。


初めのうち、御息所は夜になると何度も目を覚ました。

牛車の音が聞こえた気がした。

文が届いた気がした。

けれど、妻戸の外にいるのは風だけだった。


誰も来ないことに慣れるまで、時間がかかった。

やがて御息所は、姫宮とともに土地の歌を集めるようになった。


伊勢の女たちが歌う、海や森の歌。

都では聞いたことのない節回し。

御息所はそれを書き留め、琴へ移した。


歌を教えに来たのは、橘季明という男だった。

かつて前東宮に仕えたことがあり、御息所の亡き夫を知る者だった。

年は御息所より少し上だった。

華やかな男ではない。

美しい歌を幾つも並べ、女の心を惑わせるような人でもなかった。


来ると約束した日には、必ず来た。

遅れるときには、先に文を寄越した。

来られない日には、理由を隠さなかった。


「昔の御息所様は、あまりお笑いにならなかった」


ある日、季明が言った。

御息所は琴から顔を上げた。


「失礼な方ですね」


「申し訳ございません」


「今は笑っていると?」


「以前よりは」


季明は真面目な顔で答えた。


「それでも、まだ足りません」


「笑わせるおつもりですか」


「できれば」


光源氏なら、ここで美しい歌を詠んだだろう。

季明は代わりに、漁師から聞いたという愚かな男の話を始めた。

あまりにくだらない話で、御息所は途中で扇を上げた。


「それは、本当にあった話ですか」


「半分ほどは」


「残りの半分は?」


「御息所様に笑っていただくため、私が足しました」


御息所は、とうとう声を立てて笑った。

季明も笑った。


その目には、哀れみも、畏れもなかった。

前東宮の妃でも。

光源氏に捨てられた女でもない。


ただ、六条御息所を見ていた。


「明日も、いらっしゃいますか」


御息所は、自分から尋ねていた。

季明は少し驚いたあと、頷いた。


「お許しいただけるなら」


「許さなければ、お越しにならないのですか」


「はい」


「随分と素直なのですね」


「待たせることも、勝手に訪れることも、好みませんので」


御息所は、しばらく季明を見つめた。


「では、明日もいらしてください」


「はい」


短い返事だった。


けれど、その約束は守られた。

次の日も。

その次の日も。

季明は、御息所が一人でいたいときには無理に訪れなかった。


会いたいと言えば、来た。

寂しいと告げても、弱い女だと笑わなかった。

御息所も、少しずつ言葉を隠さなくなった。


怒っているときには、怒っていると。

一人でいたいときには、一人でいたいと。

会いたいときには、会いたいと。

言葉にしても、誇りが失われることはなかった。


◇


伊勢へ下って三度目の春。

姫宮の斎宮としての務めが終わり、都へ戻る日が近づいた。


「母上も、都へお戻りになりますか」


御息所は庭を見た。

伊勢の桜は、都のものより花が小さい。

海から来る風に吹かれ、咲いたそばから散っていく。

それでも、御息所はこの花が好きだった。


「あなたは、都へ戻りたいのですか」


「はい」


姫宮は少し寂しそうに答えた。


「けれど、母上まで戻る必要はないと思います」


「私を置いていくのですか」


「置いていくのではありません」


姫宮は笑った。


「母上はもう、お一人ではございませんから」


御息所は娘の視線を追った。

渡殿の向こうに、季明が立っていた。

目が合うと、こちらへ来ることも、声をかけることもせず、静かに頭を下げた。

いつものように、御息所の許しを待っている。


「本当に、よいのですか」


御息所が尋ねた。


「母上が幸せでいてくださるなら、わたくしも嬉しゅうございます」


姫宮は、御息所の手を取った。


「わたくしのためだけに生きてくださらなくてもよいのです」


その日の夕暮れ。

御息所は季明とともに海を眺めていた。

水平線の上に、細い月が浮かんでいる。


「都へお戻りにならないと伺いました」


季明が言った。


「ええ」


「私のためでしょうか」


「私が、ここにいたいからです」


御息所は彼を見た。


「あなたがおられることも、その理由の一つです」


季明は、すぐには笑わなかった。


「一つだけですか」


御息所は眉を上げた。


「欲深い方ですね」


「長く待ちましたので」


「待たせることは、お嫌いなのでは?」


「自分が待つことは、嫌いではありません」


季明は御息所の前へ膝をついた。


「あなたに、私を選んでいただけるのであれば」


かつて、美しい言葉を幾度も聞いた。


月よりも。

花よりも。

誰よりも愛しいと。

けれど、御息所が欲しかったのは、永遠を飾る言葉ではなかった。


明日も来るという約束。

その次の日も。

何年が過ぎても、同じ場所へ帰ってくるという約束だった。


「これから先も、あなたのおそばにいたいのです」


季明が言った。

御息所は手を差し出した。


「では、いらしてください」


「明日も?」


「明日も、その先も」


季明は、その手を両手で包んだ。


「決して、お待たせいたしません」


◇


その春、六条御息所は季明を正式に夫として迎えた。


盛大な宴は開かなかった。

都から戻ってきた姫宮と、親しい女房たちだけが集まった。

庭には伊勢の花が飾られ、夜が更けるまで琴の音が続いた。

姫宮は、誰よりも嬉しそうに笑っていた。


「母上は、お美しいですね」


「今日だけですか」


「今日は、特に」


御息所は娘の頬へ手を添えた。


「あなたがいてくれたから、ここまで来られました」


姫宮は首を振った。


「母上が御自分で選ばれたのです」


季明は約束どおり、御息所を待たせなかった。

遅くなる日には文を寄越し、帰ればその日の出来事を話した。


御息所も、寂しさを隠さなかった。

会いたいときには、会いたいと告げた。

二人は時に言い争い、それでも言葉を尽くし、同じ部屋へ戻った。

月の明るい夜には、ともに海を眺めた。


ある夜、季明が御息所へ尋ねた。


「何を御覧になっているのです」


「月を」


「都の月を思い出しますか」


御息所は少し考え、首を振った。


「いいえ」


かつて月は、来ない人を待つ夜のものだった。


今は違う。

隣には季明がいる。

少し離れた部屋からは、姫宮と女房たちの笑い声が聞こえていた。

御息所は、もう誰かに選ばれるのを待つ女ではなかった。

自ら愛する人を選び、その人からも選ばれた。


「そろそろ戻りましょう」


季明が立ち上がり、手を差し出した。

御息所は、ためらわずにその手を取った。


二人が帰る部屋には、温かな灯がともっている。

月の光は、来ない人を待つ庭ではなく、二人が並んで帰る道を明るく照らしていた。

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― 新着の感想 ―
若いときはそうでもないけど30越えるとなんかわかる…ってなるのが六条御息所だと思っているので、彼女が京都に戻らずに伊勢で夫見つけたの嬉しいなぁ…! 先に死にそうではあるけれども…でもそれでもそのほうが…
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