月待
【原作では】
六条御息所は、亡き前東宮の妃で、光源氏との関係に悩み、斎宮となった娘とともに伊勢へ下ることを考えていました。
賀茂祭に先立つ御禊の日、源氏の姿を見ようと忍んで出かけますが、葵の上一行との車争いで大きな屈辱を受けます。
その後、本人も知らぬうちに生霊となって葵の上を苦しめ、やがて娘とともに伊勢へ下ります。
庭の萩が、暗がりの中で絶え間なく揺れている。
御簾の隙間から吹き込んだ風に、燈台の火が細長く傾いた。
六条御息所は、文机の前に座っていた。
机の上には、一通の文がある。
夕刻、光源氏から届いたものだった。
明日の賀茂祭には、自分も見物へ出る。
人目が多いため、言葉を交わすことはできないが、同じものを眺められるだけでも嬉しい。
美しい文字で、そう書かれていた。
御息所は、文を畳んだ。
同じものを見る。
同じ月。
同じ花。
同じ祭。
隣にいることができなくとも、彼と同じものを眺めていると思えば、寂しさに耐えられた。
長いあいだ、そう信じてきた。
「明日の御車は、一条大路へお出ししてよろしいでしょうか」
女房が尋ねた。
「早く出れば、よい場所を取れるかと」
御息所が答える前に、妻戸の外から声がした。
「母上。まだ起きておいでですか」
娘の姫宮だった。
御息所が招き入れると、姫宮は寝支度を終えた姿で、母の前へ座った。
机の上の文へ目を向ける。
差出人を尋ねることはしなかった。
香りだけで分かったのだろう。
「明日、賀茂祭へお出かけになるのですか」
「そのつもりです」
「わたくしも御一緒してよろしいでしょうか」
御息所は目を伏せた。
娘を連れていくことは考えていなかった。
祭を見るためではない。
光源氏を見るために出かけるのだと、自分でも分かっていたからだ。
「人が多く、騒がしいでしょう」
「では、母上もおやめになればよいのに」
姫宮はあっさりと言った。
御息所は、思わず娘を見た。
「私は楽しみにしているのですよ」
「賀茂祭をですか」
姫宮の目は静かだった。
「それとも、源氏の君を御覧になることをですか」
室内の空気が止まった。
女房たちは一斉に顔を伏せた。
「どこで、そのようなことを」
「皆、知っております」
姫宮の声に、責める響きはなかった。
「源氏の君がお越しになる夜は、母上が朝までお眠りにならないことも。お越しにならない夜も、朝までお待ちになっていることも」
御息所は扇を握った。
「母上は、あの方をお好きなのですね」
認めることは容易だった。
けれど、その先にある問いへ答えることができなかった。
ならば、なぜ隠れるのか。
なぜ、いつ訪れるかも分からない人を待ち続けるのか。
「母上は、幸せでいらっしゃいますか」
姫宮の声は小さかった。
御息所は机の上の文を見た。
優しい言葉。
美しい文字。
次はいつ訪れるとも書かれていない文。
「分かりません」
初めて、そう口にした。
姫宮が驚いたように目を見開いた。
御息所自身も驚いていた。
愛されているのか。
忘れられていないのか。
ほかの女より大切にされているのか。
考えるのは、いつもそのようなことばかりだった。
自分が幸せであるかどうかは、いつも後回しにしていた。
「伊勢へ御一緒してくださいますか」
斎宮に選ばれた姫宮は、いずれ伊勢へ下る。
御息所は、同行するかを決められずにいた。
都を離れれば、光源氏との縁も遠くなる。
「あなたは、私に来てほしいのですか」
「はい」
返事に迷いはなかった。
「わたくしには、母上が必要です」
その言葉は、御息所の胸の奥へ静かに落ちた。
前東宮の妃としてではない。
高貴な姫君としてでもない。
ただ、母として。
「明日の祭は、取りやめにしましょう」
御息所が言うと、女房たちが一斉に顔を上げた。
「よろしいのでございますか」
「ええ。車の支度も不要です」
姫宮が、ほっとしたように笑った。
その笑顔を見て、御息所は何かを失ったのではなく、取り戻したのだと思った。
◇
翌日、六条の邸はいつになく静かだった。
都の人々は皆、賀茂祭へ出かけている。
御息所は廂に座り、姫宮と琴を合わせていた。
姫宮が一音、弾き損ねる。
「あ」
「急ぎすぎです」
「母上が速いのです」
「私のせいにするのですか」
姫宮が笑った。
御息所も、わずかに口元を緩めた。
そのとき、門の辺りが騒がしくなった。
女房が慌てて入ってくる。
「源氏の君がお越しでございます」
琴の音が止まった。
「祭へお出ましではなかったのですか」
「御息所様のお車が見当たらなかったため、こちらへ」
以前なら、その言葉だけで胸が高鳴っただろう。
自分の姿を探してくれた。
祭を抜けて、訪ねてきてくれた。
けれど今は、別のことを考えた。
自分が姿を見せなければ、彼は来る。
自分が待っているあいだは、来ないのに。
「お会いになりますか」
姫宮が尋ねた。
御息所は立ち上がった。
「ええ」
逃げるためではない。
終わらせるためだった。
◇
光源氏は御簾の外に座っていた。
祭のために整えられた華やかな装束のままだった。
「なぜ、お越しにならなかったのです」
挨拶を終えると、彼はすぐに尋ねた。
「気が変わりました」
「体調でも悪いのかと」
「いいえ。姫宮と琴を弾いておりました」
光源氏は黙った。
御息所が彼よりも別のものを選んだことが、意外なのだろう。
「私の文は、御覧になりましたか」
「拝見しました」
「では、なぜ」
「源氏の君」
御息所は、彼の言葉を遮った。
「私たちは、もうお会いしないほうがよいのでしょう」
御簾の向こうで、衣擦れが止まった。
「突然、何を」
「突然ではございません」
御息所は、自分の声が震えていないことに驚いた。
「私は長いあいだ、あなたをお待ちしておりました」
「分かっています」
「いいえ。分かってはおられません」
光源氏は何も言わなかった。
「今夜お越しになるのか。次はいつなのか。それを尋ねることもできず、ただ待っておりました」
「尋ねてくだされば」
「尋ねれば、お越しになりましたか」
返事はなかった。
「お越しになったかもしれません。けれど、それは私を選んだからではなく、私が悲しんでいると知ったからでしょう」
「何が違うのです」
「違います」
御息所は静かに言った。
「私は、憐れまれたかったのではありません」
庭を風が渡った。
萩の葉が一斉に揺れた。
「あなたを愛しておりました」
御息所は続けた。
「今も、お慕いしております」
御簾の向こうで、光源氏が息をのんだ。
「ならば」
「だからこそ、終わりにいたします」
「分かりません」
光源氏の声に、苛立ちが滲んだ。
「愛しているのなら、なぜ離れるのです」
「あなたを愛するたびに、自分を嫌いになるからです」
御息所は扇を握り締めた。
正妻より優先されたいと願ったこと。
光源氏に愛される女たちが、いなくなればよいと思ったこと。
そのような心を抱くたび、自分が自分でなくなっていった。
「私は、あなたを愛したことまで、醜い思い出にしたくありません」
光源氏は長いあいだ黙っていた。
「伊勢へ下るのですか」
「姫宮とともに参ります」
「私から逃げるために?」
「いいえ」
御息所は答えた。
「私自身へ戻るために」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥にあった重いものが、少しだけ軽くなった。
「お引き止めにならないでください」
「引き止めれば、残ってくださるのですか」
以前なら、残っただろう。
その一言を、何年も待っていた。
「いいえ」
御息所は答えた。
「もう、あなたの言葉で、自分の行く先を決めたくはございません」
光源氏は何も言わなかった。
やがて立ち上がる気配がした。
「あなたを失うとは、思っていませんでした」
その声は、ひどく静かだった。
「私も、自分を失っているとは思っておりませんでした」
御息所は答えた。
「どうぞ、お健やかに」
「あなたも」
光源氏は、それ以上何も言わずに帰っていった。
牛車の音が遠ざかるまで、御息所は御簾の内に座っていた。
胸には大きな空白が残った。
けれど、その空白は恐ろしいものではなかった。
これから、自分で満たしてよい場所だった。
◇
伊勢の風は、都よりも強かった。
海から運ばれる塩の匂いが、斎宮の御所の庭まで届く。
初めのうち、御息所は夜になると何度も目を覚ました。
牛車の音が聞こえた気がした。
文が届いた気がした。
けれど、妻戸の外にいるのは風だけだった。
誰も来ないことに慣れるまで、時間がかかった。
やがて御息所は、姫宮とともに土地の歌を集めるようになった。
伊勢の女たちが歌う、海や森の歌。
都では聞いたことのない節回し。
御息所はそれを書き留め、琴へ移した。
歌を教えに来たのは、橘季明という男だった。
かつて前東宮に仕えたことがあり、御息所の亡き夫を知る者だった。
年は御息所より少し上だった。
華やかな男ではない。
美しい歌を幾つも並べ、女の心を惑わせるような人でもなかった。
来ると約束した日には、必ず来た。
遅れるときには、先に文を寄越した。
来られない日には、理由を隠さなかった。
「昔の御息所様は、あまりお笑いにならなかった」
ある日、季明が言った。
御息所は琴から顔を上げた。
「失礼な方ですね」
「申し訳ございません」
「今は笑っていると?」
「以前よりは」
季明は真面目な顔で答えた。
「それでも、まだ足りません」
「笑わせるおつもりですか」
「できれば」
光源氏なら、ここで美しい歌を詠んだだろう。
季明は代わりに、漁師から聞いたという愚かな男の話を始めた。
あまりにくだらない話で、御息所は途中で扇を上げた。
「それは、本当にあった話ですか」
「半分ほどは」
「残りの半分は?」
「御息所様に笑っていただくため、私が足しました」
御息所は、とうとう声を立てて笑った。
季明も笑った。
その目には、哀れみも、畏れもなかった。
前東宮の妃でも。
光源氏に捨てられた女でもない。
ただ、六条御息所を見ていた。
「明日も、いらっしゃいますか」
御息所は、自分から尋ねていた。
季明は少し驚いたあと、頷いた。
「お許しいただけるなら」
「許さなければ、お越しにならないのですか」
「はい」
「随分と素直なのですね」
「待たせることも、勝手に訪れることも、好みませんので」
御息所は、しばらく季明を見つめた。
「では、明日もいらしてください」
「はい」
短い返事だった。
けれど、その約束は守られた。
次の日も。
その次の日も。
季明は、御息所が一人でいたいときには無理に訪れなかった。
会いたいと言えば、来た。
寂しいと告げても、弱い女だと笑わなかった。
御息所も、少しずつ言葉を隠さなくなった。
怒っているときには、怒っていると。
一人でいたいときには、一人でいたいと。
会いたいときには、会いたいと。
言葉にしても、誇りが失われることはなかった。
◇
伊勢へ下って三度目の春。
姫宮の斎宮としての務めが終わり、都へ戻る日が近づいた。
「母上も、都へお戻りになりますか」
御息所は庭を見た。
伊勢の桜は、都のものより花が小さい。
海から来る風に吹かれ、咲いたそばから散っていく。
それでも、御息所はこの花が好きだった。
「あなたは、都へ戻りたいのですか」
「はい」
姫宮は少し寂しそうに答えた。
「けれど、母上まで戻る必要はないと思います」
「私を置いていくのですか」
「置いていくのではありません」
姫宮は笑った。
「母上はもう、お一人ではございませんから」
御息所は娘の視線を追った。
渡殿の向こうに、季明が立っていた。
目が合うと、こちらへ来ることも、声をかけることもせず、静かに頭を下げた。
いつものように、御息所の許しを待っている。
「本当に、よいのですか」
御息所が尋ねた。
「母上が幸せでいてくださるなら、わたくしも嬉しゅうございます」
姫宮は、御息所の手を取った。
「わたくしのためだけに生きてくださらなくてもよいのです」
その日の夕暮れ。
御息所は季明とともに海を眺めていた。
水平線の上に、細い月が浮かんでいる。
「都へお戻りにならないと伺いました」
季明が言った。
「ええ」
「私のためでしょうか」
「私が、ここにいたいからです」
御息所は彼を見た。
「あなたがおられることも、その理由の一つです」
季明は、すぐには笑わなかった。
「一つだけですか」
御息所は眉を上げた。
「欲深い方ですね」
「長く待ちましたので」
「待たせることは、お嫌いなのでは?」
「自分が待つことは、嫌いではありません」
季明は御息所の前へ膝をついた。
「あなたに、私を選んでいただけるのであれば」
かつて、美しい言葉を幾度も聞いた。
月よりも。
花よりも。
誰よりも愛しいと。
けれど、御息所が欲しかったのは、永遠を飾る言葉ではなかった。
明日も来るという約束。
その次の日も。
何年が過ぎても、同じ場所へ帰ってくるという約束だった。
「これから先も、あなたのおそばにいたいのです」
季明が言った。
御息所は手を差し出した。
「では、いらしてください」
「明日も?」
「明日も、その先も」
季明は、その手を両手で包んだ。
「決して、お待たせいたしません」
◇
その春、六条御息所は季明を正式に夫として迎えた。
盛大な宴は開かなかった。
都から戻ってきた姫宮と、親しい女房たちだけが集まった。
庭には伊勢の花が飾られ、夜が更けるまで琴の音が続いた。
姫宮は、誰よりも嬉しそうに笑っていた。
「母上は、お美しいですね」
「今日だけですか」
「今日は、特に」
御息所は娘の頬へ手を添えた。
「あなたがいてくれたから、ここまで来られました」
姫宮は首を振った。
「母上が御自分で選ばれたのです」
季明は約束どおり、御息所を待たせなかった。
遅くなる日には文を寄越し、帰ればその日の出来事を話した。
御息所も、寂しさを隠さなかった。
会いたいときには、会いたいと告げた。
二人は時に言い争い、それでも言葉を尽くし、同じ部屋へ戻った。
月の明るい夜には、ともに海を眺めた。
ある夜、季明が御息所へ尋ねた。
「何を御覧になっているのです」
「月を」
「都の月を思い出しますか」
御息所は少し考え、首を振った。
「いいえ」
かつて月は、来ない人を待つ夜のものだった。
今は違う。
隣には季明がいる。
少し離れた部屋からは、姫宮と女房たちの笑い声が聞こえていた。
御息所は、もう誰かに選ばれるのを待つ女ではなかった。
自ら愛する人を選び、その人からも選ばれた。
「そろそろ戻りましょう」
季明が立ち上がり、手を差し出した。
御息所は、ためらわずにその手を取った。
二人が帰る部屋には、温かな灯がともっている。
月の光は、来ない人を待つ庭ではなく、二人が並んで帰る道を明るく照らしていた。




