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もしも『源氏物語』の姫君たちが、幸せを選べたなら  作者: くるみ


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1/1

花葵

夜半を過ぎてから、風が出た。


細い雨が蔀の外を斜めに走り、軒から落ちる雫が、暗い庭のどこかで絶え間なく音を立てていた。

吹き込んだ風に御簾が揺れる。

燈台の火が細長く傾き、几帳の帷に映った女房たちの影が、伸びては縮んだ。


葵の上は帳台の内で目を閉じていた。


眠っているわけではない。

眠りはすぐ近くにあるはずなのに、胸の奥に重いものが沈んでいて、そこから先へ入ってこない。


腹の子が動いた。

内側から、かすかに袖を引かれたような気がした。


葵の上は夜着の上から腹へ手を置いた。

この子が生まれれば、皆が喜ぶだろう。

父も母も、家司も女房たちも。

そして夫も。


けれど、夫が喜ぶのは、葵の上が母となるからではない。

左大臣家の姫君である正妻が、ようやく嫡男を産むかもしれないからだ。

そう考えると、腹の内にある小さな命まで、家と家をつなぐための印のように思えた。


「殿は、今宵もお越しにならぬのでしょうか」


若い女房が、隣の者へ小声で尋ねた。

尋ねられた年長の女房は、葵の上が起きていることに気づいたのだろう。慌てて口元へ指を当てた。


葵の上は目を開けた。


「構いません。続きを話しなさい」


女房たちが凍りついたように伏した。


「何を聞いたのです」


「何も、申し上げてはおりません」


「そのように怯えるほどのことなら、なおさら聞いておきたいものです」


年長の女房が、ためらいながら顔を上げた。


「二条院に、たいそう美しい姫君がお住まいだと」


葵の上は黙っていた。

驚きはしなかった。

光源氏のもとに女がいるという話なら、これまでにも幾度となく聞いた。


六条の高貴な御方。

名も知らぬ女。

亡くなったという夕顔の君。

そのほかにも、葵の上の耳へ届かぬ者が、何人いるのか分からない。


「どのような姫君です」


「まだお若い御方だと」


「どれほど」


「そこまでは」


「殿が、人目を忍んでお住まわせになっているのですね」


女房は答えなかった。

答えないことが、答えだった。


葵の上は、腹の上に置いた手をわずかに握った。

この子が生まれても、夫は二条院へ帰るのだろう。

若く美しい姫君のもとへ。


自分はここで、夫の子を育てる。

正妻として。

左大臣家の娘として。


決して、愛される女としてではなく。


「今夜、殿がお越しになるとの知らせがございました」


別の女房が告げた。


葵の上は、御簾の向こうに広がる暗がりを見つめた。

風が庭を渡り、湿った土と草の匂いを運んでくる。


「体調が優れないと、お断りして」


「ですが、せっかく」


「会いたくありません」


言葉は思いのほか強く、夜の室内に響いた。

女房たちは一斉に頭を下げた。


その背後で、風に煽られた蔀が低く鳴った。



光源氏は、断りを聞いても帰らなかった。

牛車を降りた頃には、雨脚が強くなっていた。

衣の裾には細かな泥が跳ね、濡れた髪からは水の匂いがした。


「お具合が悪いと聞いた」


御簾の外から、穏やかな声がする。

葵の上は背を向けたまま答えた。


「大したことではございません」


「ならば、なぜ会えぬ」


「大したことではないからこそ、お見舞いは不要です」


「顔を見るだけだ」


「私の顔など、御覧にならずともお困りにはならないでしょう」


しばし、返事がなかった。

雨音だけが、妙に大きく聞こえた。

やがて光源氏が、低い声で女房へ何かを命じた。


女房たちは顔を見合わせたものの、御簾を巻き上げ、几帳をずらして彼を母屋へ通した。

人払いを命じられた女房たちが下がる。


葵の上と光源氏の間には、一つの燈台だけが残った。


その火に照らされ、夫の顔が見えた。

濡れた髪が頬にかかり、いつもの華やかな笑みはなかった。


「今日は、ひどく機嫌が悪いようだ」


「いつもこのような女でございます」


「そうだったな」


葵の上の胸の奥が冷えた。

夫は、彼女の冷たさに慣れている。


いや、とうに呆れているのだろう。


「二条院へお戻りになればよろしいでしょう」


光源氏の表情が動いた。


「二条院が、どうした」


「お待ちの姫君がおられるとか」


彼はすぐには答えなかった。


葵の上は唇をかんだ。

その沈黙が、何より確かな証のように思えた。


「誰から聞いた」


「都で殿のことを知らぬ者がおりましょうか」


「その姫君について、何と聞いた」


「お若く、美しく、殿が大切に隠しておられると」


「隠してはいない」


「では、なぜ私には何も仰らないのです」


「あなたが興味を持つとは思わなかった」


その言葉は、刃よりも深く刺さった。

葵の上は夫を見つめた。


「私が、何にも心を動かさぬ女に見えておいでなのですね」


「そう見せてきたのは、あなたではないか」


光源氏の声は静かだった。

けれど、その奥には、長く積もったものがあった。


「私が訪ねても、あなたは目を合わせない。話しかけても、必要な言葉しか返さない。何を贈っても、喜んだ顔一つしない」


「それは」


「私は、あなたに望まれたことが一度もない」


葵の上の指先が冷たくなった。

自分が抱いてきた思いを、そのまま返されたようだった。


「私こそ、殿に妻として望まれたことなどございません」


「あなたは父君が決めた妻だ。私との結婚など、不本意であったのだろう」


「私がそう申しましたか」


「申さぬから分からなかった」


光源氏の声に、初めて苛立ちが滲んだ。


「何も言わず、何も求めず、ただ私を遠ざける。私が何を考えているか知ろうともせず、勝手に諦めているのは、あなたも同じではないか」


「殿に、そのようなことを言われたくはございません」


葵の上は上体を起こした。

胸の中に押し込めていたものが、堰を切ったように溢れた。


「私がどれほどお待ちしていたか、御存じなのですか」


光源氏は動かなかった。


「今夜はお越しになるのか。明日は。次の月には。一度も尋ねず、平気な顔をしていたのは、尋ねて来られなかったときに惨めになるのが怖かったからです」


声が震えた。

葵の上は、こんなふうに心を晒したことを、すぐに後悔した。


けれど、もう言葉を戻すことはできない。


「殿がほかの御方のもとへお通いになるたび、私は自分が妻として足りぬのだと思いました。それでも嫉妬を見せれば、見苦しい女だとお思いになるでしょう」


「そのようなことは」


「では、どうして一度も、私に何もお聞きにならなかったのです」


光源氏は答えなかった。

燈台の火が揺れ、その顔を一瞬、影の中へ沈めた。


「私は、あなたに嫌われていると思っていた」


ようやく、光源氏が言った。


「だから、ほかの場所に心を求めた」


「それを私のせいになさるのですか」


「いや」


返事は早かった。


「私がしたことは、私の責任だ」


葵の上は目を上げた。

光源氏は取り繕うことも、甘い言葉で逃げることもせず、ただ葵の上を見ていた。


「あなたが冷たかったことは、私がほかの女を傷つけてよい理由にはならない。あなたを傷つけてよい理由にもならぬ」


葵の上の胸の奥で、長いあいだ凍りついていたものが、わずかに軋んだ。


「二条院の姫君は」


「まだ幼い」


「幼い?」


「北山の尼君の孫だ。母を亡くし、父にも引き取られず、頼る者が少ない」


「殿がお引き取りになったのですか」


「ああ」


「なぜ」


光源氏は視線を伏せた。


「懐かしい面影を宿した方に、よく似ていた」


「どなたです」


「名を申し上げることはできない」


葵の上の顔が硬くなる。

光源氏は続けた。


「幼い頃から慕ってきた方だ。姫君自身を見ながら、その方の面影を追っていたのだと思う」


「それで、おそばへ置きたいと?」


「ああ」


「姫君のためではなく、御自分のために」


光源氏は否定しなかった。


「そうだ」


雨は少し弱まり、軒から落ちる雫が、一定の間を刻んでいた。


「美しく育て、私の望むような女君にしたいと、どこかで考えていたのかもしれない」


葵の上は、しばらく夫を見つめた。


「幼い姫君を、御自分の好みに育てるおつもりだったのですか」


「そう言われれば、ひどい話だ」


「言われなくとも、気づくべきです」


「そのとおりだ」


言い返さない夫が、かえって不思議だった。


「その姫君を、お連れください」


「ここへ?」


「私が会います」


「なぜ」


「殿お一人に育てさせるほうが不安だからです」


光源氏の口元が、わずかに緩んだ。


「何がおかしいのです」


「ようやく、あなたらしい言葉を聞いたと思って」


「私はいつも私でございます」


「私の知らぬあなたが、随分いたらしい」


葵の上は扇を手に取った。


「今夜はお帰りください」


「また追い返すのか」


「これ以上お話しすると、さらに腹が立ちます」


「では、明日また来る」


「姫君をお連れになるのでしたら」


光源氏が立ち上がる。

その姿が几帳の外へ消える前に、葵の上は呼び止めた。


「殿」


「何だ」


「六条の御方にも、誠実にお話しください」


光源氏は足を止めた。


「あなたは、あの方を知っているのか」


「都で殿のことを知らぬ者はおりません」


「耳が痛いな」


「私に謝れば済むことではございません」


光源氏は、今度は笑わなかった。


「分かった」


その夜、葵の上は夫が雨の中へ去っていく音を、最後まで聞いていた。


腹の子は静かになっていた。

まるで、先ほどまでの言葉をすべて聞いていたかのようだった。



翌日の空は、雨に洗われて青かった。

庭の木々は濡れ、葉の一枚一枚が朝の光を弾いている。


光源氏が連れてきた姫君は、葵の上が想像していたよりも、ずっと幼かった。

女房が御簾を巻き上げ、少女を母屋へ導いた。

艶やかな髪は長く、顔立ちは驚くほど美しい。


けれど、手には小さな人形を抱き、光源氏の袖を離そうとしない。

葵の上を見る目には、幼い警戒と不安があった。


「こちらが、若紫だ」


光源氏が言った。

少女は小さく頭を下げた。


「姉君は、わたくしをご存じなのですか」


葵の上は、光源氏を見た。


「姉君と教えたのですか」


「いや。私が、美しく気高い御方だと話しただけだ」


「兄君よりお若く見えましたから」


若紫は無邪気に答えた。

葵の上は、少し迷ってから手招きした。


「こちらへいらっしゃい」


若紫は光源氏を見上げた。

彼が頷くと、そっと葵の上のそばへ来た。

近くで見れば、まだ頬にも幼さが残っている。


恋の相手などではない。

守られなければならぬ子どもだった。


「何を持っているのです」


「お人形です」


若紫は大切そうに人形を差し出した。


「兄君が、衣を着せてくださいました」


葵の上は人形を受け取った。

帯は左右の高さが違い、紐の結び方もおかしい。


「これは、どなたが結んだのです」


「兄君です」


葵の上は光源氏を見た。


「女房に任せればよいものを」


「姫君が、私にしてほしいと言ったのだ」


「それでも、もう少しましにできるでしょう」


「初めてだった」


「初めてでも、これはあまりに」


葵の上が帯を解いて結び直すと、若紫は目を輝かせた。


「姉君はお上手なのですね」


「これくらいは、誰でもできます」


「兄君にはできませんでした」


光源氏が不満そうに眉を上げた。


「私を笑うために連れてきたのではないぞ」


若紫が声を上げて笑った。

その笑い声は明るく、葵の上の胸に残っていた疑いを、跡形もなく崩していった。


「今度、新しい衣を作らせましょう」


「本当ですか」


「ええ。それから、琴は習っていますか」


「少しだけ」


「和歌は?」


「難しくて、よく分かりません」


「では、少しずつ覚えましょう」


光源氏が口を挟んだ。


「随分と話が早いな」


「この姫君には、女性の後見が必要です」


「私なりに大切に育てている」


「大切にすることと、正しく導くことは違います」


葵の上は、若紫の髪をそっと撫でた。


「姫君がお嫌でなければ、私がお手伝いしましょう」


若紫は葵の上の袖を、小さな手でつかんだ。


「また、お会いしてもよいのですか」


「もちろんです」


「兄君と一緒でなくても?」


「むしろ、殿がおられないほうが、ゆっくりお話しできます」


「私は邪魔なのか」


「女同士の話に、殿は必要ありません」


若紫が、また楽しそうに笑った。

光源氏は困ったような顔をしながらも、その目は安堵していた。


葵の上は、若紫を預かっていることを、その日のうちに実父である兵部卿宮へ知らせた。

光源氏が少女を二条院へ連れていった経緯については、葵の上自身も、すべてをよしとはしなかった。

兵部卿宮から届いた返事には、突然娘の居所を知らされた驚きと怒りが滲んでいた。

それでも、左大臣家の姫君である葵の上が女性の後見となり、礼法や学問を教えるというのであれば、しばらく二条院で育てることを認めると記されていた。


葵の上は、その文を光源氏にも読ませた。


「殿がなさったことは、姫君を思うあまりであっても、褒められたことではございません」


「分かっている」


「父宮へは、殿御自身からもお詫びください」


「分かった」


「返事が早くなりましたね」


「あなたに逆らっても、よいことがないと学んだ」


「たいそう結構なことでございます」


若紫は、二人のやり取りを聞きながら、声を立てずに笑っていた。



光源氏は、六条御息所のもとへも赴いた。


空は晴れていたが、六条の邸には夕暮れ前のような暗さが溜まっていた。

庭の萩は風もないのに揺れ、渡殿の奥には濃い影が沈んでいる。

御簾を隔てているため、御息所の姿は見えない。

ただ、薫きしめた香の匂いと、わずかな衣擦れだけが、その存在を伝えていた。


「今さら、何をお話しになることがございましょう」


御簾の奥から、静かな声がした。


「謝りに参りました」


「どなたに言われたのです」


「妻に」


衣擦れが止まった。


「正直でいらっしゃるのですね」


「これまで、正直でなかったからです」


光源氏は頭を下げた。

御簾の向こうからは見えないとしても、そうせずにはいられなかった。


「私は、あなたを愛しているように振る舞いながら、未来を差し上げる覚悟を持ちませんでした」


「ええ」


「お引き止めする言葉ばかりを口にして、その実、何も選ばなかった」


「ええ」


一つ一つの返事が、鋭く胸へ刺さった。

それでも光源氏は逃げなかった。


「娘君とともに伊勢へ下られる御支度を始めたと聞きました」


「そのつもりです」


「お引き止めはいたしません」


御簾の向こうで、かすかな音がした。

扇を握る手に、力が入ったのかもしれない。


「これまでの私なら、引き止めるふりをしながら、結局は何も差し上げなかったでしょう」


「ようやく、お分かりになりましたか」


「はい」


「遅すぎましたね」


「はい」


長い沈黙があった。

庭の萩が揺れた。


「あなたを許すとは申しません」


六条御息所が言った。


「当然です」


「それでも、別れを惜しむ言葉一つないのは、あまりに残酷です」


光源氏は息をのんだ。

責める言葉ではなかった。

静かな声だった。


だからこそ、その奥にある痛みが伝わってきた。


「惜しくないわけではありません」


「では、なぜ」


「惜しむと言えば、私はまたあなたを縛ります。けれど、妻のもとへ戻ると申せば、あなたを捨てることになる」


「結局、御自分が悪者になることを恐れておいでなのですね」


光源氏は、すぐには答えられなかった。


「そうかもしれません」


「最後まで、狡い御方」


御簾の奥から、かすかな笑い声が聞こえた。

それは喜びの笑いではなかった。

泣く代わりに漏れたような、かすかな音だった。


「あなたを愛したことまで、間違いだったとは思いたくありません」


六条御息所が言った。


「けれど、このままでは、私はいつか、あなたの大切なものを憎んでしまう」


その声はわずかに震えていた。


「すでに、正妻の御方の懐妊を聞くたび、胸の内に黒いものが湧くのです。あの方に罪がないと分かっていても」


光源氏は顔を上げた。


「御息所」


「恐ろしいのは、あの方ではありません。あなたでもない」


御簾の向こうから、押し殺した息が聞こえた。


「あなたを失うことを受け入れられず、誰かを恨まずにはいられない、この心です」


光源氏は言葉を失った。


「だから、伊勢へ参ります」


御息所は静かに続けた。


「娘とともに都を離れます。あなたを忘れるためではありません。これ以上、あなたを愛した自分を嫌いにならぬために」


光源氏は、深く頭を下げた。


「あなたの御心を傷つけたことを、お詫びします」


「お詫びを受ければ、傷が消えるわけではありません」


「はい」


「それでも」


六条御息所の声が、わずかに柔らいだ。


「最後に真実をお聞きできたことだけは、よかったと思います」


光源氏が帰ったあとも、六条御息所は御簾の内に座り続けていた。

庭の萩が揺れている。

心の底では、葵の上への嫉妬が、まだ消えずに燃えていた。


愛される妻。

子を宿した女。

自分が得られなかったものを、すべて持つ女。


けれど、その嫉妬と同じほど強く、御息所は自らの心を恐れていた。


誰も傷つけたくない。

葵の上を憎みたくない。

光源氏を、永遠に憎み続けたくもない。


御息所は胸元へ手を当てた。


心臓は静かに打っている。

それなのに、自分の中の何かが、暗い庭へ抜け出していこうとしているような気がした。


「行ってはなりません」


御息所は、自分自身へ言い聞かせた。


萩の葉が、一斉に裏返った。



その年、六条御息所は賀茂祭の見物を取りやめた。


娘君とともに伊勢へ下るため、静かに支度を始めたからである。

葵の上の車と、御息所の車が争うことはなかった。

それでも、人の心は一度言葉を交わしただけで、すべて澄み渡るものではない。


光源氏が正妻のもとへ通うようになったという噂。

葵の上の腹が日ごとに大きくなっているという知らせ。

生まれる子は、左大臣家と光源氏を結ぶ、誰より祝福された若君となるだろうという話。


六条御息所は、そのたびに心を鎮めた。


都を去ればよい。

もう少しで、すべて遠くなる。

そう思っていた。


秋の初め。

葵の上の産気づいた夜、六条の邸では、誰も触れていない燈台の火が大きく揺れた。

御息所は帳台の内で目を覚ました。


ひどく胸が苦しい。

呼吸をするたび、身体が内側から裂けていくようだった。

遠くで、女のうめき声が聞こえる。

この邸にいるはずのない女の声だった。


続いて、赤子の産声が響いた。


「違う」


御息所は胸を押さえた。


「私は望んでいない」


けれど身体は動かなかった。

意識だけが、暗い水へ引きずり込まれていく。

自分の内にある、黒く重いものが、葵の上のもとへ向かっていく。


止めなければならない。


御息所は、闇の中で必死に手を伸ばした。



夜明け前、葵の上は男の子を産んだ。


長く続いた雨は、産声とともに上がった。

雲の切れ間から朝の光が差し、濡れた庭を白く照らした。

左大臣邸は、大きな喜びに包まれた。


光源氏は、生まれたばかりの若君を抱き、何も言わず、その小さな顔を見つめていた。


「私にも見せてください」


床に伏した葵の上が言った。


「もう少し休んでからだ」


「私の子です」


「分かっている」


「殿の子である前に、私の子です」


「元気になれば、いくらでも抱ける」


光源氏はそう言った。


けれど、その夜から葵の上の熱が上がった。

息は浅く、指先は冷え、呼びかけても目を開けない。

女房たちは泣き、僧たちは夜通し祈祷を続けた。


部屋には香の煙が満ちていた。

風はない。

それなのに、御簾がゆっくりと揺れた。


燈台の火が青白く細まり、几帳の帷に、誰のものとも知れぬ影が映った。

髪の長い女の影だった。


女房の一人が悲鳴を上げた。

影は何も言わない。


ただ、葵の上の枕元へ近づいてくる。

光源氏は、葵の上の手を握った。


「聞こえますか」


返事はない。

影が几帳を越えた。


その瞬間、燈台の火が消えた。



葵の上は、暗い水辺に立っていた。

足元には水があるはずなのに、衣は濡れていない。

空も地もなく、ただ薄い靄だけが漂っている。


対岸に、一人の女がいた。

長い髪が、風もないのに揺れている。

その顔は、六条御息所のものだった。


けれど、その目には、葵の上への憎しみだけではない。

深い悲しみと恐れがあった。


「あなたが、いらしたのですね」


葵の上が言うと、女の唇が動いた。


『来たかったのではありません』


声は、水の底から響くようだった。


『あなたを苦しめたいと願ったことはあります。消えてしまえばよいと思ったことも』


葵の上は黙って聞いた。


『けれど、命を奪いたいとは思わなかった』


女の身体から、黒い靄が立ち上っている。

その靄は生き物のように葵の上へ伸びてきた。

六条御息所は、自らの腕でそれを押さえていた。


『これは私の心です。けれど、もはや私の言うことを聞かない』


「殿を、愛しておられるのですね」


六条御息所の顔が歪んだ。


『愛したくありませんでした』


「私もです」


葵の上は答えた。


『あなたが?』


「待つことも、疑うことも、傷つくことも、もう嫌でした。それでも、嫌いにはなれなかった」


六条御息所は、葵の上を見つめた。


『あなたは、あの方に選ばれた』


「いいえ」


葵の上は首を振った。


「私は家によって妻と定められました。殿は長いあいだ、私を選んではくださいませんでした」


『けれど、今はあなたのもとにいる』


「今は、互いに選び直そうとしているのです」


六条御息所の背後で、黒い水が波立った。


『それが羨ましい』


その言葉は小さく、幼子の呟きのようだった。


『私にも、そうすることができたでしょうか』


葵の上は答えられなかった。


光源氏がもっと早く誠実であったなら。

御息所がもっと早く別れを選べたなら。

自分が夫に向き合うことを、もっと早く決めていたなら。


いくつもの道があったのかもしれない。

けれど、選ばれなかった道を、今さら歩くことはできない。


「私には分かりません」


葵の上は正直に言った。


「けれど、これから選べる道は、まだございます」


六条御息所は目を伏せた。

黒い靄が、その腕へ絡みつく。


『私は伊勢へ参ります』


「はい」


『都を離れれば、この心も静まると思っていました』


「きっと静まります」


『なぜ、そう言えるのです』


「私も、生きることを選ぶからです」


葵の上は腹へ手を置いた。

そこに子はもういない。

遠くから、赤子の泣き声が聞こえている。

自分を呼ぶ光源氏の声も。

若紫の泣き声も聞こえるような気がした。


「私は、この子を育てたい」


葵の上は言った。


「若紫の裳着を見届けたい。あの姫君が、誰にも決められず、自分の未来を選ぶところを見たい」


六条御息所の顔から、わずかに力が抜けた。


「あなたにも、娘君がいらっしゃるのでしょう」


『ええ』


「その方の未来を、見届けて差し上げてください」


黒い靄が、激しく蠢いた。


六条御息所は目を閉じた。

その両腕で、自らの心から生まれた闇を抱き締める。


『憎しみに任せてしまえば、楽なのです』


「ええ」


『あなたを奪えば、あの方も苦しむ』


「けれど、あなたも苦しみ続けます」


六条御息所は、長いあいだ黙っていた。


やがて、葵の上のほうへ一歩進んだ。

黒い靄が、その足を引き止める。

それでも御息所は進んだ。


葵の上の前へ立つと、白い手を伸ばした。

その手が、葵の上の胸元へ触れる。


冷たいと思った。

けれど次の瞬間、柔らかな温かさが胸の奥へ広がった。


『若君が、私たちの悲しみを背負いませんように』


六条御息所は言った。


『あなたが、この先も生きられますように』


「御息所」


『私も、私の娘のために生きましょう』


黒い靄が、御息所の背後で大きく膨れ上がった。

彼女は振り返り、その闇へ手を伸ばした。


『これは私のものです』


凛とした声が響いた。


『あなたの命を奪うものではない』


闇が音もなく崩れた。

黒い靄は水面へ沈み、やがて何も見えなくなった。

六条御息所の姿も、次第に薄れていく。


「お待ちください」


葵の上は呼び止めた。


「どうか、御心安らかに」


御息所は、初めて穏やかに微笑んだ。


『あなたも』


その姿は朝靄のように消えた。

水辺の向こうから、赤子の泣き声が近づいてくる。

続いて、誰かが何度も葵の上を呼んでいた。


葵の上は、光のあるほうへ歩き出した。



葵の上が目を開けると、消えたはずの燈台に、再び火が灯っていた。


光源氏が枕元にいた。

髪は乱れ、衣も整っていない。

都一の美しい公達とは思えぬほど、疲れ切った姿だった。


「聞こえますか」


声が震えている。

葵の上は乾いた唇を動かした。


「二条院へ、お戻りにならなくてよいのですか」


光源氏は目を見開いた。


「今、そのようなことを言うのか」


「若紫が、待っておりますでしょう」


「あの姫君には、あなたが元気になるまで待てと言ってある」


「かわいそうに」


「あなたが倒れたと聞いて、泣いていた」


葵の上は目を閉じた。


「まだ、教えて差し上げたいことが、たくさんございます」


「ならばどうか生きてほしい」


光源氏は葵の上の手を握った。


「若君もいる。若紫もいる。私もいる」


「最後は、余計ではございませんか」


「そのような憎まれ口を言えるなら、大丈夫だ」


葵の上は、かすかに笑った。


「私が死ねば、殿はまた、別の御方のもとへお通いになるのでしょうね」


「疑われても仕方のない夫だった」


光源氏は、葵の上の手を額へ押し当てた。


「これから、信じてもらうしかない」


「随分と時間がかかりそうです」


「一生かける」


かつての光源氏なら、何人もの女へ同じ言葉を告げただろう。

けれど葵の上は、今、その言葉ではなく、自分の手を握る夫の震えを信じようと思った。


夜が明ける頃、葵の上の熱は少しずつ下がり始めた。

御簾の向こうには、もう誰の影もなかった。

部屋には、かすかに清らかな香りが残っていた。



同じ頃、六条の邸で御息所も目を覚ました。

枕元には女房たちが集まり、泣いていた。


「御息所様、どのような恐ろしい夢を御覧になったのです」


六条御息所は、しばらく天井を見つめていた。

胸の奥に長く沈んでいた重いものが、消えている。

悲しみは残っていた。

光源氏を愛した記憶も、傷つけられた痛みも消えてはいない。


けれど、それらはもう、自分をどこかへ連れ去ろうとはしていなかった。


「夢ではありません」


御息所は静かに言った。


「けれど、もう終わりました」


やがて、葵の上が一命を取り留めたという知らせが届いた。

六条御息所は返事を書かなかった。

代わりに、白い絹で若君のための小さな衣を縫わせた。

差出人の名は記さず、左大臣邸へ届けさせた。

衣には、魔除けの意味を持つ藤の文様が織り込まれていた。


葵の上は、その贈り物を誰からのものか尋ねなかった。

ただ、若君の枕元へ大切に置いた。


六条御息所は、その後、娘君とともに野宮へ入り、潔斎の日々を過ごした。

伊勢へ下る朝、都を振り返ることはなかった。

その横顔は、以前よりも静かだった。



葵の上が床を離れられるようになった頃、若紫が見舞いにやって来た。


「姉君」


若紫は葵の上のそばへ駆け寄ると、泣きながら袖へ顔を埋めた。


「お亡くなりになるかと思いました」


「勝手に亡くしてはいけません」


葵の上は、若紫の髪を撫でた。


「あなたの裳着も、まだ見ておりませんのに」


「姉君が見てくださるのですか」


「ええ」


「兄君も?」


葵の上は、少し離れた場所に座る光源氏を見た。


「殿は、遠くから御覧になればよろしいでしょう」


「なぜ私だけ遠くなのだ」


「若い姫君の儀式に、嬉しそうに近づかれては困ります」


「まだ疑っているのか」


「信じていただきたければ、行いでお示しください」


若紫が二人の顔を交互に見た。


「喧嘩をなさっているの?」


「していません」


二人の声が重なった。

若紫は楽しそうに笑った。

隣の部屋で眠っていた若君が、その声に驚いたように泣き始めた。


光源氏が立ち上がる。


「私が見てこよう」


「殿にあやせますか」


「できる」


「人形の帯も結べなかった方が?」


「子を抱くことと、帯を結ぶことは違う」


「泣かせたら、すぐにお戻しください」


「分かっている」


光源氏が隣室へ消えると、若紫が葵の上へ顔を寄せた。


「姉君は、兄君がお好きなのですね」


葵の上は言葉に詰まった。


「なぜ、そう思うのです」


「たくさんお話しするから」


「小言ばかりです」


「嫌いな方には、小言もおっしゃらないのでしょう?」


葵の上は、幼い少女の顔を見つめた。


「あなたは、時々とても鋭いことを言いますね」


「兄君もそうおっしゃいます」


「殿の言葉を、何でも信じてはいけませんよ」


「では、姉君の言葉を信じます」


若紫は無邪気に答えた。

葵の上は微笑んだ。


「それでよろしいでしょう」



葵の上が十分に回復した翌春、光源氏は二条院の西の対を整え、妻と若君を迎えた。

若紫はこれまでどおり東の対に住み、二つの対は渡殿で結ばれた。


葵の上は、若紫の女房や教師を選び直し、琴や和歌だけではなく、家を預かること、人の言葉を見極めること、自分の望みを口にすることを教えた。


光源氏も、以前のように若紫を自分の理想へ近づけようとはしなくなった。

若紫が選んだ衣を尊び、彼女が嫌だと言ったことを無理にさせず、父とも兄ともつかぬ距離から、その成長を見守った。


若君は、のちに夕霧と呼ばれることになる。

丈夫な子で、朝から庭を駆け回り、転んでは泣き、泣いた次の瞬間には虫を追って笑った。


若紫は、その小さな手を引くことを好んだ。

葵の上は、二人が庭を走る姿を、廂から見守った。

光源氏は、以前ほどほかの女のもとへ通わなくなった。

それは一夜にして心を入れ替えたからではない。


葵の上が疑えば言葉を尽くした。

帰りが遅くなれば、理由を告げた。

昔の縁を完全に消すことができなくとも、期待を持たせるような曖昧な言葉はやめた。

そして、どれほど遅くなっても、二条院へ帰った。

信頼とは、一度の誓いで得られるものではなかった。

毎日の小さな選択を積み重ねて、ようやく形になるものだった。



幾年かが過ぎた春の日。


庭の桜は満開だった。

空は淡く霞み、風が吹くたび、花びらが雪のように落ちてくる。

夕霧は庭の端で、木の枝を剣に見立てて振り回していた。

若紫は廂に座り、その様子を笑って見ている。

葵の上は、若紫のために仕立てさせた新しい衣の袖を整えていた。


「父宮から、いずれはお戻りになるようにとの文が届いています」


若紫は目を伏せた。


「姉君は、わたくしに戻れとお思いですか」


「いいえ」


葵の上は答えた。


「戻りたいのなら、お戻りなさい。ここにいたいのなら、ここにいればよいのです」


「わたくしが決めてもよいの?」


「あなたの人生ですもの」


若紫は、しばらく桜を見つめていた。

やがて葵の上の肩へ、そっと寄りかかった。


「もう少し、姉君のおそばにいたいです」


「では、そうなさい」


「私の意見は聞かないのか」


いつの間にか、光源氏が渡殿に立っていた。


「殿は、いつからお聞きになっていたのです」


「父宮からの文のあたりから」


「盗み聞きではございませんか」


「ここは私の邸だ」


「だからといって、女同士の話を聞いてよい理由にはなりません」


若紫は光源氏を見て笑った。


「兄君」


「何だ」


「でも、わたくしの夫を、兄君が勝手にお決めにならないでくださいね」


光源氏の顔が固まった。


「夫?」


「いつかのお話です」


「まだ早い」


「いつか、と申し上げました」


「どのような男かも分からぬ」


「まだ誰も決めておりません」


「ならば、決めなくてよい」


葵の上は扇で口元を隠した。


「殿」


「何だ」


「今のお顔は、娘を嫁に出したくない父親のようでございますね」


「娘ではない」


光源氏は反射的に言った。

それから、庭の若紫を見た。


夕霧が駆け寄り、若紫の袖を引いている。

若紫は笑いながら立ち上がり、夕霧の手を取った。

二人は、桜の花びらの中を走り出した。


「いや」


光源氏は、小さく息を吐いた。


「娘のようなものかもしれない」


若紫は足を止めた。

その顔に、春の花が開くような笑みが浮かんだ。


「では、父君とお呼びしましょうか」


「それは少し困る」


「なぜです」


「急に年を取ったような気がする」


葵の上は、とうとう声を上げて笑った。


「殿は、いつまでも御自分がお若いとお思いなのですね」


「あなたと大して変わらない」


「私は殿より年上でございますから、十分承知しております」


「その話をすると、昔のように冷たい顔をするな」


「昔のことを持ち出すのは、どなたです」


二人が言い合っていると、若紫が間へ戻ってきた。


「また喧嘩をなさっているの?」


「していません」


また二人の声が重なった。

若紫が笑い、夕霧も意味も分からぬまま一緒に笑った。


桜の花びらが、四人の上に降り注いだ。



その日の夕暮れ。


庭には、昼の名残の花びらが薄く積もっていた。

燈台の火はまだ灯されず、室内には夕日の赤い光が差し込んでいる。


夕霧は遊び疲れ、若紫の膝を枕に眠っていた。

若紫も、その髪を撫でながら、今にも眠りそうな顔をしている。

葵の上は二人へ衣をかけた。


「まだ起きていたのですか」


光源氏が、葵の上へ声をかけた。


「この二人を寝所へ移そうと思っていたところです」


「夕霧は私が運ぼう」


「落とさないでくださいね」


「いつまで信用しないつもりだ」


「今朝も、袴の紐を左右違えて結んでおられました」


「それと、子を運ぶことに何の関係がある」


光源氏は眠っている夕霧を抱き上げた。

夕霧は目を覚まさず、父の胸へ頬を寄せた。

その姿を見て、葵の上の目元が柔らかくなった。


「今夜はこちらに泊まってもよいだろうか」


光源氏が尋ねた。

葵の上は眉を上げた。


「御自分の邸なのでは?」


「そうだが、あなたに聞いておきたい」


「夕霧が、朝まで何度も起きますよ」


「構わない」


「若紫の琴の稽古もございます」


「聞こう」


「明日は、私の父上がお越しになります」


「ご挨拶する」


葵の上は、しばらく夫の顔を見つめた。

かつての光源氏なら、一つでも面倒なことがあれば、別の場所へ逃げていただろう。

けれど今は、ここにいる。


幼子の泣き声も。

若紫の稽古も。

左大臣との長い話も。

すべて含めて、ここにいようとしている。


「では、お好きになさいませ」


葵の上が答えると、光源氏は微笑んだ。


「ありがとう」


「お礼を言われることではございません。夫が妻のもとに泊まるだけでしょう」


「そうだな」


「今ごろお気づきになったのですか」


「随分と時間がかかった」


「本当に」


呆れたように言いながら、葵の上は笑っていた。

光源氏は、その笑みを見つめた。


かつては、どこか遠くに理想の女を探し続けていた。

自分を拒まず、傷つけず、いつでも優しく迎えてくれる女を。

けれど、そのような者はどこにもいなかった。


人は皆、傷つき、怒り、迷い、自分とは違う心を持っている。

だからこそ、言葉を尽くさなければならない。


一度選んだつもりになるだけではなく、何度でも選び直さなければならない。


光源氏は夕霧を女房へ託すと、葵の上のそばへ座った。

その手を取る。

葵の上は、今度は振り払わなかった。


庭の向こうで、春の風が吹いた。

残っていた花びらが舞い上がり、夕暮れの空へ溶けていく。

若紫が眠りながら小さく身じろぎした。

遠い伊勢では、六条御息所も娘とともに、新しい季節を迎えていることだろう。


葵の上は生きている。

夕霧は、母の腕に抱かれて育つ。

若紫は、誰かの理想として作られるのではなく、愛されながら自分の未来を選んでいく。

六条御息所もまた、憎しみに飲まれることなく、自らの娘の未来を見守っていく。

そして光源氏は、遠い花を求めてさまようことをやめ、目の前にある温かな場所へ帰ってきた。


女房が燈台に火を灯した。

柔らかな光が、家族の影を一つの部屋へ映した。

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