花葵
夜半を過ぎてから、風が出た。
細い雨が蔀の外を斜めに走り、軒から落ちる雫が、暗い庭のどこかで絶え間なく音を立てていた。
吹き込んだ風に御簾が揺れる。
燈台の火が細長く傾き、几帳の帷に映った女房たちの影が、伸びては縮んだ。
葵の上は帳台の内で目を閉じていた。
眠っているわけではない。
眠りはすぐ近くにあるはずなのに、胸の奥に重いものが沈んでいて、そこから先へ入ってこない。
腹の子が動いた。
内側から、かすかに袖を引かれたような気がした。
葵の上は夜着の上から腹へ手を置いた。
この子が生まれれば、皆が喜ぶだろう。
父も母も、家司も女房たちも。
そして夫も。
けれど、夫が喜ぶのは、葵の上が母となるからではない。
左大臣家の姫君である正妻が、ようやく嫡男を産むかもしれないからだ。
そう考えると、腹の内にある小さな命まで、家と家をつなぐための印のように思えた。
「殿は、今宵もお越しにならぬのでしょうか」
若い女房が、隣の者へ小声で尋ねた。
尋ねられた年長の女房は、葵の上が起きていることに気づいたのだろう。慌てて口元へ指を当てた。
葵の上は目を開けた。
「構いません。続きを話しなさい」
女房たちが凍りついたように伏した。
「何を聞いたのです」
「何も、申し上げてはおりません」
「そのように怯えるほどのことなら、なおさら聞いておきたいものです」
年長の女房が、ためらいながら顔を上げた。
「二条院に、たいそう美しい姫君がお住まいだと」
葵の上は黙っていた。
驚きはしなかった。
光源氏のもとに女がいるという話なら、これまでにも幾度となく聞いた。
六条の高貴な御方。
名も知らぬ女。
亡くなったという夕顔の君。
そのほかにも、葵の上の耳へ届かぬ者が、何人いるのか分からない。
「どのような姫君です」
「まだお若い御方だと」
「どれほど」
「そこまでは」
「殿が、人目を忍んでお住まわせになっているのですね」
女房は答えなかった。
答えないことが、答えだった。
葵の上は、腹の上に置いた手をわずかに握った。
この子が生まれても、夫は二条院へ帰るのだろう。
若く美しい姫君のもとへ。
自分はここで、夫の子を育てる。
正妻として。
左大臣家の娘として。
決して、愛される女としてではなく。
「今夜、殿がお越しになるとの知らせがございました」
別の女房が告げた。
葵の上は、御簾の向こうに広がる暗がりを見つめた。
風が庭を渡り、湿った土と草の匂いを運んでくる。
「体調が優れないと、お断りして」
「ですが、せっかく」
「会いたくありません」
言葉は思いのほか強く、夜の室内に響いた。
女房たちは一斉に頭を下げた。
その背後で、風に煽られた蔀が低く鳴った。
◇
光源氏は、断りを聞いても帰らなかった。
牛車を降りた頃には、雨脚が強くなっていた。
衣の裾には細かな泥が跳ね、濡れた髪からは水の匂いがした。
「お具合が悪いと聞いた」
御簾の外から、穏やかな声がする。
葵の上は背を向けたまま答えた。
「大したことではございません」
「ならば、なぜ会えぬ」
「大したことではないからこそ、お見舞いは不要です」
「顔を見るだけだ」
「私の顔など、御覧にならずともお困りにはならないでしょう」
しばし、返事がなかった。
雨音だけが、妙に大きく聞こえた。
やがて光源氏が、低い声で女房へ何かを命じた。
女房たちは顔を見合わせたものの、御簾を巻き上げ、几帳をずらして彼を母屋へ通した。
人払いを命じられた女房たちが下がる。
葵の上と光源氏の間には、一つの燈台だけが残った。
その火に照らされ、夫の顔が見えた。
濡れた髪が頬にかかり、いつもの華やかな笑みはなかった。
「今日は、ひどく機嫌が悪いようだ」
「いつもこのような女でございます」
「そうだったな」
葵の上の胸の奥が冷えた。
夫は、彼女の冷たさに慣れている。
いや、とうに呆れているのだろう。
「二条院へお戻りになればよろしいでしょう」
光源氏の表情が動いた。
「二条院が、どうした」
「お待ちの姫君がおられるとか」
彼はすぐには答えなかった。
葵の上は唇をかんだ。
その沈黙が、何より確かな証のように思えた。
「誰から聞いた」
「都で殿のことを知らぬ者がおりましょうか」
「その姫君について、何と聞いた」
「お若く、美しく、殿が大切に隠しておられると」
「隠してはいない」
「では、なぜ私には何も仰らないのです」
「あなたが興味を持つとは思わなかった」
その言葉は、刃よりも深く刺さった。
葵の上は夫を見つめた。
「私が、何にも心を動かさぬ女に見えておいでなのですね」
「そう見せてきたのは、あなたではないか」
光源氏の声は静かだった。
けれど、その奥には、長く積もったものがあった。
「私が訪ねても、あなたは目を合わせない。話しかけても、必要な言葉しか返さない。何を贈っても、喜んだ顔一つしない」
「それは」
「私は、あなたに望まれたことが一度もない」
葵の上の指先が冷たくなった。
自分が抱いてきた思いを、そのまま返されたようだった。
「私こそ、殿に妻として望まれたことなどございません」
「あなたは父君が決めた妻だ。私との結婚など、不本意であったのだろう」
「私がそう申しましたか」
「申さぬから分からなかった」
光源氏の声に、初めて苛立ちが滲んだ。
「何も言わず、何も求めず、ただ私を遠ざける。私が何を考えているか知ろうともせず、勝手に諦めているのは、あなたも同じではないか」
「殿に、そのようなことを言われたくはございません」
葵の上は上体を起こした。
胸の中に押し込めていたものが、堰を切ったように溢れた。
「私がどれほどお待ちしていたか、御存じなのですか」
光源氏は動かなかった。
「今夜はお越しになるのか。明日は。次の月には。一度も尋ねず、平気な顔をしていたのは、尋ねて来られなかったときに惨めになるのが怖かったからです」
声が震えた。
葵の上は、こんなふうに心を晒したことを、すぐに後悔した。
けれど、もう言葉を戻すことはできない。
「殿がほかの御方のもとへお通いになるたび、私は自分が妻として足りぬのだと思いました。それでも嫉妬を見せれば、見苦しい女だとお思いになるでしょう」
「そのようなことは」
「では、どうして一度も、私に何もお聞きにならなかったのです」
光源氏は答えなかった。
燈台の火が揺れ、その顔を一瞬、影の中へ沈めた。
「私は、あなたに嫌われていると思っていた」
ようやく、光源氏が言った。
「だから、ほかの場所に心を求めた」
「それを私のせいになさるのですか」
「いや」
返事は早かった。
「私がしたことは、私の責任だ」
葵の上は目を上げた。
光源氏は取り繕うことも、甘い言葉で逃げることもせず、ただ葵の上を見ていた。
「あなたが冷たかったことは、私がほかの女を傷つけてよい理由にはならない。あなたを傷つけてよい理由にもならぬ」
葵の上の胸の奥で、長いあいだ凍りついていたものが、わずかに軋んだ。
「二条院の姫君は」
「まだ幼い」
「幼い?」
「北山の尼君の孫だ。母を亡くし、父にも引き取られず、頼る者が少ない」
「殿がお引き取りになったのですか」
「ああ」
「なぜ」
光源氏は視線を伏せた。
「懐かしい面影を宿した方に、よく似ていた」
「どなたです」
「名を申し上げることはできない」
葵の上の顔が硬くなる。
光源氏は続けた。
「幼い頃から慕ってきた方だ。姫君自身を見ながら、その方の面影を追っていたのだと思う」
「それで、おそばへ置きたいと?」
「ああ」
「姫君のためではなく、御自分のために」
光源氏は否定しなかった。
「そうだ」
雨は少し弱まり、軒から落ちる雫が、一定の間を刻んでいた。
「美しく育て、私の望むような女君にしたいと、どこかで考えていたのかもしれない」
葵の上は、しばらく夫を見つめた。
「幼い姫君を、御自分の好みに育てるおつもりだったのですか」
「そう言われれば、ひどい話だ」
「言われなくとも、気づくべきです」
「そのとおりだ」
言い返さない夫が、かえって不思議だった。
「その姫君を、お連れください」
「ここへ?」
「私が会います」
「なぜ」
「殿お一人に育てさせるほうが不安だからです」
光源氏の口元が、わずかに緩んだ。
「何がおかしいのです」
「ようやく、あなたらしい言葉を聞いたと思って」
「私はいつも私でございます」
「私の知らぬあなたが、随分いたらしい」
葵の上は扇を手に取った。
「今夜はお帰りください」
「また追い返すのか」
「これ以上お話しすると、さらに腹が立ちます」
「では、明日また来る」
「姫君をお連れになるのでしたら」
光源氏が立ち上がる。
その姿が几帳の外へ消える前に、葵の上は呼び止めた。
「殿」
「何だ」
「六条の御方にも、誠実にお話しください」
光源氏は足を止めた。
「あなたは、あの方を知っているのか」
「都で殿のことを知らぬ者はおりません」
「耳が痛いな」
「私に謝れば済むことではございません」
光源氏は、今度は笑わなかった。
「分かった」
その夜、葵の上は夫が雨の中へ去っていく音を、最後まで聞いていた。
腹の子は静かになっていた。
まるで、先ほどまでの言葉をすべて聞いていたかのようだった。
◇
翌日の空は、雨に洗われて青かった。
庭の木々は濡れ、葉の一枚一枚が朝の光を弾いている。
光源氏が連れてきた姫君は、葵の上が想像していたよりも、ずっと幼かった。
女房が御簾を巻き上げ、少女を母屋へ導いた。
艶やかな髪は長く、顔立ちは驚くほど美しい。
けれど、手には小さな人形を抱き、光源氏の袖を離そうとしない。
葵の上を見る目には、幼い警戒と不安があった。
「こちらが、若紫だ」
光源氏が言った。
少女は小さく頭を下げた。
「姉君は、わたくしをご存じなのですか」
葵の上は、光源氏を見た。
「姉君と教えたのですか」
「いや。私が、美しく気高い御方だと話しただけだ」
「兄君よりお若く見えましたから」
若紫は無邪気に答えた。
葵の上は、少し迷ってから手招きした。
「こちらへいらっしゃい」
若紫は光源氏を見上げた。
彼が頷くと、そっと葵の上のそばへ来た。
近くで見れば、まだ頬にも幼さが残っている。
恋の相手などではない。
守られなければならぬ子どもだった。
「何を持っているのです」
「お人形です」
若紫は大切そうに人形を差し出した。
「兄君が、衣を着せてくださいました」
葵の上は人形を受け取った。
帯は左右の高さが違い、紐の結び方もおかしい。
「これは、どなたが結んだのです」
「兄君です」
葵の上は光源氏を見た。
「女房に任せればよいものを」
「姫君が、私にしてほしいと言ったのだ」
「それでも、もう少しましにできるでしょう」
「初めてだった」
「初めてでも、これはあまりに」
葵の上が帯を解いて結び直すと、若紫は目を輝かせた。
「姉君はお上手なのですね」
「これくらいは、誰でもできます」
「兄君にはできませんでした」
光源氏が不満そうに眉を上げた。
「私を笑うために連れてきたのではないぞ」
若紫が声を上げて笑った。
その笑い声は明るく、葵の上の胸に残っていた疑いを、跡形もなく崩していった。
「今度、新しい衣を作らせましょう」
「本当ですか」
「ええ。それから、琴は習っていますか」
「少しだけ」
「和歌は?」
「難しくて、よく分かりません」
「では、少しずつ覚えましょう」
光源氏が口を挟んだ。
「随分と話が早いな」
「この姫君には、女性の後見が必要です」
「私なりに大切に育てている」
「大切にすることと、正しく導くことは違います」
葵の上は、若紫の髪をそっと撫でた。
「姫君がお嫌でなければ、私がお手伝いしましょう」
若紫は葵の上の袖を、小さな手でつかんだ。
「また、お会いしてもよいのですか」
「もちろんです」
「兄君と一緒でなくても?」
「むしろ、殿がおられないほうが、ゆっくりお話しできます」
「私は邪魔なのか」
「女同士の話に、殿は必要ありません」
若紫が、また楽しそうに笑った。
光源氏は困ったような顔をしながらも、その目は安堵していた。
葵の上は、若紫を預かっていることを、その日のうちに実父である兵部卿宮へ知らせた。
光源氏が少女を二条院へ連れていった経緯については、葵の上自身も、すべてをよしとはしなかった。
兵部卿宮から届いた返事には、突然娘の居所を知らされた驚きと怒りが滲んでいた。
それでも、左大臣家の姫君である葵の上が女性の後見となり、礼法や学問を教えるというのであれば、しばらく二条院で育てることを認めると記されていた。
葵の上は、その文を光源氏にも読ませた。
「殿がなさったことは、姫君を思うあまりであっても、褒められたことではございません」
「分かっている」
「父宮へは、殿御自身からもお詫びください」
「分かった」
「返事が早くなりましたね」
「あなたに逆らっても、よいことがないと学んだ」
「たいそう結構なことでございます」
若紫は、二人のやり取りを聞きながら、声を立てずに笑っていた。
◇
光源氏は、六条御息所のもとへも赴いた。
空は晴れていたが、六条の邸には夕暮れ前のような暗さが溜まっていた。
庭の萩は風もないのに揺れ、渡殿の奥には濃い影が沈んでいる。
御簾を隔てているため、御息所の姿は見えない。
ただ、薫きしめた香の匂いと、わずかな衣擦れだけが、その存在を伝えていた。
「今さら、何をお話しになることがございましょう」
御簾の奥から、静かな声がした。
「謝りに参りました」
「どなたに言われたのです」
「妻に」
衣擦れが止まった。
「正直でいらっしゃるのですね」
「これまで、正直でなかったからです」
光源氏は頭を下げた。
御簾の向こうからは見えないとしても、そうせずにはいられなかった。
「私は、あなたを愛しているように振る舞いながら、未来を差し上げる覚悟を持ちませんでした」
「ええ」
「お引き止めする言葉ばかりを口にして、その実、何も選ばなかった」
「ええ」
一つ一つの返事が、鋭く胸へ刺さった。
それでも光源氏は逃げなかった。
「娘君とともに伊勢へ下られる御支度を始めたと聞きました」
「そのつもりです」
「お引き止めはいたしません」
御簾の向こうで、かすかな音がした。
扇を握る手に、力が入ったのかもしれない。
「これまでの私なら、引き止めるふりをしながら、結局は何も差し上げなかったでしょう」
「ようやく、お分かりになりましたか」
「はい」
「遅すぎましたね」
「はい」
長い沈黙があった。
庭の萩が揺れた。
「あなたを許すとは申しません」
六条御息所が言った。
「当然です」
「それでも、別れを惜しむ言葉一つないのは、あまりに残酷です」
光源氏は息をのんだ。
責める言葉ではなかった。
静かな声だった。
だからこそ、その奥にある痛みが伝わってきた。
「惜しくないわけではありません」
「では、なぜ」
「惜しむと言えば、私はまたあなたを縛ります。けれど、妻のもとへ戻ると申せば、あなたを捨てることになる」
「結局、御自分が悪者になることを恐れておいでなのですね」
光源氏は、すぐには答えられなかった。
「そうかもしれません」
「最後まで、狡い御方」
御簾の奥から、かすかな笑い声が聞こえた。
それは喜びの笑いではなかった。
泣く代わりに漏れたような、かすかな音だった。
「あなたを愛したことまで、間違いだったとは思いたくありません」
六条御息所が言った。
「けれど、このままでは、私はいつか、あなたの大切なものを憎んでしまう」
その声はわずかに震えていた。
「すでに、正妻の御方の懐妊を聞くたび、胸の内に黒いものが湧くのです。あの方に罪がないと分かっていても」
光源氏は顔を上げた。
「御息所」
「恐ろしいのは、あの方ではありません。あなたでもない」
御簾の向こうから、押し殺した息が聞こえた。
「あなたを失うことを受け入れられず、誰かを恨まずにはいられない、この心です」
光源氏は言葉を失った。
「だから、伊勢へ参ります」
御息所は静かに続けた。
「娘とともに都を離れます。あなたを忘れるためではありません。これ以上、あなたを愛した自分を嫌いにならぬために」
光源氏は、深く頭を下げた。
「あなたの御心を傷つけたことを、お詫びします」
「お詫びを受ければ、傷が消えるわけではありません」
「はい」
「それでも」
六条御息所の声が、わずかに柔らいだ。
「最後に真実をお聞きできたことだけは、よかったと思います」
光源氏が帰ったあとも、六条御息所は御簾の内に座り続けていた。
庭の萩が揺れている。
心の底では、葵の上への嫉妬が、まだ消えずに燃えていた。
愛される妻。
子を宿した女。
自分が得られなかったものを、すべて持つ女。
けれど、その嫉妬と同じほど強く、御息所は自らの心を恐れていた。
誰も傷つけたくない。
葵の上を憎みたくない。
光源氏を、永遠に憎み続けたくもない。
御息所は胸元へ手を当てた。
心臓は静かに打っている。
それなのに、自分の中の何かが、暗い庭へ抜け出していこうとしているような気がした。
「行ってはなりません」
御息所は、自分自身へ言い聞かせた。
萩の葉が、一斉に裏返った。
◇
その年、六条御息所は賀茂祭の見物を取りやめた。
娘君とともに伊勢へ下るため、静かに支度を始めたからである。
葵の上の車と、御息所の車が争うことはなかった。
それでも、人の心は一度言葉を交わしただけで、すべて澄み渡るものではない。
光源氏が正妻のもとへ通うようになったという噂。
葵の上の腹が日ごとに大きくなっているという知らせ。
生まれる子は、左大臣家と光源氏を結ぶ、誰より祝福された若君となるだろうという話。
六条御息所は、そのたびに心を鎮めた。
都を去ればよい。
もう少しで、すべて遠くなる。
そう思っていた。
秋の初め。
葵の上の産気づいた夜、六条の邸では、誰も触れていない燈台の火が大きく揺れた。
御息所は帳台の内で目を覚ました。
ひどく胸が苦しい。
呼吸をするたび、身体が内側から裂けていくようだった。
遠くで、女のうめき声が聞こえる。
この邸にいるはずのない女の声だった。
続いて、赤子の産声が響いた。
「違う」
御息所は胸を押さえた。
「私は望んでいない」
けれど身体は動かなかった。
意識だけが、暗い水へ引きずり込まれていく。
自分の内にある、黒く重いものが、葵の上のもとへ向かっていく。
止めなければならない。
御息所は、闇の中で必死に手を伸ばした。
◇
夜明け前、葵の上は男の子を産んだ。
長く続いた雨は、産声とともに上がった。
雲の切れ間から朝の光が差し、濡れた庭を白く照らした。
左大臣邸は、大きな喜びに包まれた。
光源氏は、生まれたばかりの若君を抱き、何も言わず、その小さな顔を見つめていた。
「私にも見せてください」
床に伏した葵の上が言った。
「もう少し休んでからだ」
「私の子です」
「分かっている」
「殿の子である前に、私の子です」
「元気になれば、いくらでも抱ける」
光源氏はそう言った。
けれど、その夜から葵の上の熱が上がった。
息は浅く、指先は冷え、呼びかけても目を開けない。
女房たちは泣き、僧たちは夜通し祈祷を続けた。
部屋には香の煙が満ちていた。
風はない。
それなのに、御簾がゆっくりと揺れた。
燈台の火が青白く細まり、几帳の帷に、誰のものとも知れぬ影が映った。
髪の長い女の影だった。
女房の一人が悲鳴を上げた。
影は何も言わない。
ただ、葵の上の枕元へ近づいてくる。
光源氏は、葵の上の手を握った。
「聞こえますか」
返事はない。
影が几帳を越えた。
その瞬間、燈台の火が消えた。
◇
葵の上は、暗い水辺に立っていた。
足元には水があるはずなのに、衣は濡れていない。
空も地もなく、ただ薄い靄だけが漂っている。
対岸に、一人の女がいた。
長い髪が、風もないのに揺れている。
その顔は、六条御息所のものだった。
けれど、その目には、葵の上への憎しみだけではない。
深い悲しみと恐れがあった。
「あなたが、いらしたのですね」
葵の上が言うと、女の唇が動いた。
『来たかったのではありません』
声は、水の底から響くようだった。
『あなたを苦しめたいと願ったことはあります。消えてしまえばよいと思ったことも』
葵の上は黙って聞いた。
『けれど、命を奪いたいとは思わなかった』
女の身体から、黒い靄が立ち上っている。
その靄は生き物のように葵の上へ伸びてきた。
六条御息所は、自らの腕でそれを押さえていた。
『これは私の心です。けれど、もはや私の言うことを聞かない』
「殿を、愛しておられるのですね」
六条御息所の顔が歪んだ。
『愛したくありませんでした』
「私もです」
葵の上は答えた。
『あなたが?』
「待つことも、疑うことも、傷つくことも、もう嫌でした。それでも、嫌いにはなれなかった」
六条御息所は、葵の上を見つめた。
『あなたは、あの方に選ばれた』
「いいえ」
葵の上は首を振った。
「私は家によって妻と定められました。殿は長いあいだ、私を選んではくださいませんでした」
『けれど、今はあなたのもとにいる』
「今は、互いに選び直そうとしているのです」
六条御息所の背後で、黒い水が波立った。
『それが羨ましい』
その言葉は小さく、幼子の呟きのようだった。
『私にも、そうすることができたでしょうか』
葵の上は答えられなかった。
光源氏がもっと早く誠実であったなら。
御息所がもっと早く別れを選べたなら。
自分が夫に向き合うことを、もっと早く決めていたなら。
いくつもの道があったのかもしれない。
けれど、選ばれなかった道を、今さら歩くことはできない。
「私には分かりません」
葵の上は正直に言った。
「けれど、これから選べる道は、まだございます」
六条御息所は目を伏せた。
黒い靄が、その腕へ絡みつく。
『私は伊勢へ参ります』
「はい」
『都を離れれば、この心も静まると思っていました』
「きっと静まります」
『なぜ、そう言えるのです』
「私も、生きることを選ぶからです」
葵の上は腹へ手を置いた。
そこに子はもういない。
遠くから、赤子の泣き声が聞こえている。
自分を呼ぶ光源氏の声も。
若紫の泣き声も聞こえるような気がした。
「私は、この子を育てたい」
葵の上は言った。
「若紫の裳着を見届けたい。あの姫君が、誰にも決められず、自分の未来を選ぶところを見たい」
六条御息所の顔から、わずかに力が抜けた。
「あなたにも、娘君がいらっしゃるのでしょう」
『ええ』
「その方の未来を、見届けて差し上げてください」
黒い靄が、激しく蠢いた。
六条御息所は目を閉じた。
その両腕で、自らの心から生まれた闇を抱き締める。
『憎しみに任せてしまえば、楽なのです』
「ええ」
『あなたを奪えば、あの方も苦しむ』
「けれど、あなたも苦しみ続けます」
六条御息所は、長いあいだ黙っていた。
やがて、葵の上のほうへ一歩進んだ。
黒い靄が、その足を引き止める。
それでも御息所は進んだ。
葵の上の前へ立つと、白い手を伸ばした。
その手が、葵の上の胸元へ触れる。
冷たいと思った。
けれど次の瞬間、柔らかな温かさが胸の奥へ広がった。
『若君が、私たちの悲しみを背負いませんように』
六条御息所は言った。
『あなたが、この先も生きられますように』
「御息所」
『私も、私の娘のために生きましょう』
黒い靄が、御息所の背後で大きく膨れ上がった。
彼女は振り返り、その闇へ手を伸ばした。
『これは私のものです』
凛とした声が響いた。
『あなたの命を奪うものではない』
闇が音もなく崩れた。
黒い靄は水面へ沈み、やがて何も見えなくなった。
六条御息所の姿も、次第に薄れていく。
「お待ちください」
葵の上は呼び止めた。
「どうか、御心安らかに」
御息所は、初めて穏やかに微笑んだ。
『あなたも』
その姿は朝靄のように消えた。
水辺の向こうから、赤子の泣き声が近づいてくる。
続いて、誰かが何度も葵の上を呼んでいた。
葵の上は、光のあるほうへ歩き出した。
◇
葵の上が目を開けると、消えたはずの燈台に、再び火が灯っていた。
光源氏が枕元にいた。
髪は乱れ、衣も整っていない。
都一の美しい公達とは思えぬほど、疲れ切った姿だった。
「聞こえますか」
声が震えている。
葵の上は乾いた唇を動かした。
「二条院へ、お戻りにならなくてよいのですか」
光源氏は目を見開いた。
「今、そのようなことを言うのか」
「若紫が、待っておりますでしょう」
「あの姫君には、あなたが元気になるまで待てと言ってある」
「かわいそうに」
「あなたが倒れたと聞いて、泣いていた」
葵の上は目を閉じた。
「まだ、教えて差し上げたいことが、たくさんございます」
「ならばどうか生きてほしい」
光源氏は葵の上の手を握った。
「若君もいる。若紫もいる。私もいる」
「最後は、余計ではございませんか」
「そのような憎まれ口を言えるなら、大丈夫だ」
葵の上は、かすかに笑った。
「私が死ねば、殿はまた、別の御方のもとへお通いになるのでしょうね」
「疑われても仕方のない夫だった」
光源氏は、葵の上の手を額へ押し当てた。
「これから、信じてもらうしかない」
「随分と時間がかかりそうです」
「一生かける」
かつての光源氏なら、何人もの女へ同じ言葉を告げただろう。
けれど葵の上は、今、その言葉ではなく、自分の手を握る夫の震えを信じようと思った。
夜が明ける頃、葵の上の熱は少しずつ下がり始めた。
御簾の向こうには、もう誰の影もなかった。
部屋には、かすかに清らかな香りが残っていた。
◇
同じ頃、六条の邸で御息所も目を覚ました。
枕元には女房たちが集まり、泣いていた。
「御息所様、どのような恐ろしい夢を御覧になったのです」
六条御息所は、しばらく天井を見つめていた。
胸の奥に長く沈んでいた重いものが、消えている。
悲しみは残っていた。
光源氏を愛した記憶も、傷つけられた痛みも消えてはいない。
けれど、それらはもう、自分をどこかへ連れ去ろうとはしていなかった。
「夢ではありません」
御息所は静かに言った。
「けれど、もう終わりました」
やがて、葵の上が一命を取り留めたという知らせが届いた。
六条御息所は返事を書かなかった。
代わりに、白い絹で若君のための小さな衣を縫わせた。
差出人の名は記さず、左大臣邸へ届けさせた。
衣には、魔除けの意味を持つ藤の文様が織り込まれていた。
葵の上は、その贈り物を誰からのものか尋ねなかった。
ただ、若君の枕元へ大切に置いた。
六条御息所は、その後、娘君とともに野宮へ入り、潔斎の日々を過ごした。
伊勢へ下る朝、都を振り返ることはなかった。
その横顔は、以前よりも静かだった。
◇
葵の上が床を離れられるようになった頃、若紫が見舞いにやって来た。
「姉君」
若紫は葵の上のそばへ駆け寄ると、泣きながら袖へ顔を埋めた。
「お亡くなりになるかと思いました」
「勝手に亡くしてはいけません」
葵の上は、若紫の髪を撫でた。
「あなたの裳着も、まだ見ておりませんのに」
「姉君が見てくださるのですか」
「ええ」
「兄君も?」
葵の上は、少し離れた場所に座る光源氏を見た。
「殿は、遠くから御覧になればよろしいでしょう」
「なぜ私だけ遠くなのだ」
「若い姫君の儀式に、嬉しそうに近づかれては困ります」
「まだ疑っているのか」
「信じていただきたければ、行いでお示しください」
若紫が二人の顔を交互に見た。
「喧嘩をなさっているの?」
「していません」
二人の声が重なった。
若紫は楽しそうに笑った。
隣の部屋で眠っていた若君が、その声に驚いたように泣き始めた。
光源氏が立ち上がる。
「私が見てこよう」
「殿にあやせますか」
「できる」
「人形の帯も結べなかった方が?」
「子を抱くことと、帯を結ぶことは違う」
「泣かせたら、すぐにお戻しください」
「分かっている」
光源氏が隣室へ消えると、若紫が葵の上へ顔を寄せた。
「姉君は、兄君がお好きなのですね」
葵の上は言葉に詰まった。
「なぜ、そう思うのです」
「たくさんお話しするから」
「小言ばかりです」
「嫌いな方には、小言もおっしゃらないのでしょう?」
葵の上は、幼い少女の顔を見つめた。
「あなたは、時々とても鋭いことを言いますね」
「兄君もそうおっしゃいます」
「殿の言葉を、何でも信じてはいけませんよ」
「では、姉君の言葉を信じます」
若紫は無邪気に答えた。
葵の上は微笑んだ。
「それでよろしいでしょう」
◇
葵の上が十分に回復した翌春、光源氏は二条院の西の対を整え、妻と若君を迎えた。
若紫はこれまでどおり東の対に住み、二つの対は渡殿で結ばれた。
葵の上は、若紫の女房や教師を選び直し、琴や和歌だけではなく、家を預かること、人の言葉を見極めること、自分の望みを口にすることを教えた。
光源氏も、以前のように若紫を自分の理想へ近づけようとはしなくなった。
若紫が選んだ衣を尊び、彼女が嫌だと言ったことを無理にさせず、父とも兄ともつかぬ距離から、その成長を見守った。
若君は、のちに夕霧と呼ばれることになる。
丈夫な子で、朝から庭を駆け回り、転んでは泣き、泣いた次の瞬間には虫を追って笑った。
若紫は、その小さな手を引くことを好んだ。
葵の上は、二人が庭を走る姿を、廂から見守った。
光源氏は、以前ほどほかの女のもとへ通わなくなった。
それは一夜にして心を入れ替えたからではない。
葵の上が疑えば言葉を尽くした。
帰りが遅くなれば、理由を告げた。
昔の縁を完全に消すことができなくとも、期待を持たせるような曖昧な言葉はやめた。
そして、どれほど遅くなっても、二条院へ帰った。
信頼とは、一度の誓いで得られるものではなかった。
毎日の小さな選択を積み重ねて、ようやく形になるものだった。
◇
幾年かが過ぎた春の日。
庭の桜は満開だった。
空は淡く霞み、風が吹くたび、花びらが雪のように落ちてくる。
夕霧は庭の端で、木の枝を剣に見立てて振り回していた。
若紫は廂に座り、その様子を笑って見ている。
葵の上は、若紫のために仕立てさせた新しい衣の袖を整えていた。
「父宮から、いずれはお戻りになるようにとの文が届いています」
若紫は目を伏せた。
「姉君は、わたくしに戻れとお思いですか」
「いいえ」
葵の上は答えた。
「戻りたいのなら、お戻りなさい。ここにいたいのなら、ここにいればよいのです」
「わたくしが決めてもよいの?」
「あなたの人生ですもの」
若紫は、しばらく桜を見つめていた。
やがて葵の上の肩へ、そっと寄りかかった。
「もう少し、姉君のおそばにいたいです」
「では、そうなさい」
「私の意見は聞かないのか」
いつの間にか、光源氏が渡殿に立っていた。
「殿は、いつからお聞きになっていたのです」
「父宮からの文のあたりから」
「盗み聞きではございませんか」
「ここは私の邸だ」
「だからといって、女同士の話を聞いてよい理由にはなりません」
若紫は光源氏を見て笑った。
「兄君」
「何だ」
「でも、わたくしの夫を、兄君が勝手にお決めにならないでくださいね」
光源氏の顔が固まった。
「夫?」
「いつかのお話です」
「まだ早い」
「いつか、と申し上げました」
「どのような男かも分からぬ」
「まだ誰も決めておりません」
「ならば、決めなくてよい」
葵の上は扇で口元を隠した。
「殿」
「何だ」
「今のお顔は、娘を嫁に出したくない父親のようでございますね」
「娘ではない」
光源氏は反射的に言った。
それから、庭の若紫を見た。
夕霧が駆け寄り、若紫の袖を引いている。
若紫は笑いながら立ち上がり、夕霧の手を取った。
二人は、桜の花びらの中を走り出した。
「いや」
光源氏は、小さく息を吐いた。
「娘のようなものかもしれない」
若紫は足を止めた。
その顔に、春の花が開くような笑みが浮かんだ。
「では、父君とお呼びしましょうか」
「それは少し困る」
「なぜです」
「急に年を取ったような気がする」
葵の上は、とうとう声を上げて笑った。
「殿は、いつまでも御自分がお若いとお思いなのですね」
「あなたと大して変わらない」
「私は殿より年上でございますから、十分承知しております」
「その話をすると、昔のように冷たい顔をするな」
「昔のことを持ち出すのは、どなたです」
二人が言い合っていると、若紫が間へ戻ってきた。
「また喧嘩をなさっているの?」
「していません」
また二人の声が重なった。
若紫が笑い、夕霧も意味も分からぬまま一緒に笑った。
桜の花びらが、四人の上に降り注いだ。
◇
その日の夕暮れ。
庭には、昼の名残の花びらが薄く積もっていた。
燈台の火はまだ灯されず、室内には夕日の赤い光が差し込んでいる。
夕霧は遊び疲れ、若紫の膝を枕に眠っていた。
若紫も、その髪を撫でながら、今にも眠りそうな顔をしている。
葵の上は二人へ衣をかけた。
「まだ起きていたのですか」
光源氏が、葵の上へ声をかけた。
「この二人を寝所へ移そうと思っていたところです」
「夕霧は私が運ぼう」
「落とさないでくださいね」
「いつまで信用しないつもりだ」
「今朝も、袴の紐を左右違えて結んでおられました」
「それと、子を運ぶことに何の関係がある」
光源氏は眠っている夕霧を抱き上げた。
夕霧は目を覚まさず、父の胸へ頬を寄せた。
その姿を見て、葵の上の目元が柔らかくなった。
「今夜はこちらに泊まってもよいだろうか」
光源氏が尋ねた。
葵の上は眉を上げた。
「御自分の邸なのでは?」
「そうだが、あなたに聞いておきたい」
「夕霧が、朝まで何度も起きますよ」
「構わない」
「若紫の琴の稽古もございます」
「聞こう」
「明日は、私の父上がお越しになります」
「ご挨拶する」
葵の上は、しばらく夫の顔を見つめた。
かつての光源氏なら、一つでも面倒なことがあれば、別の場所へ逃げていただろう。
けれど今は、ここにいる。
幼子の泣き声も。
若紫の稽古も。
左大臣との長い話も。
すべて含めて、ここにいようとしている。
「では、お好きになさいませ」
葵の上が答えると、光源氏は微笑んだ。
「ありがとう」
「お礼を言われることではございません。夫が妻のもとに泊まるだけでしょう」
「そうだな」
「今ごろお気づきになったのですか」
「随分と時間がかかった」
「本当に」
呆れたように言いながら、葵の上は笑っていた。
光源氏は、その笑みを見つめた。
かつては、どこか遠くに理想の女を探し続けていた。
自分を拒まず、傷つけず、いつでも優しく迎えてくれる女を。
けれど、そのような者はどこにもいなかった。
人は皆、傷つき、怒り、迷い、自分とは違う心を持っている。
だからこそ、言葉を尽くさなければならない。
一度選んだつもりになるだけではなく、何度でも選び直さなければならない。
光源氏は夕霧を女房へ託すと、葵の上のそばへ座った。
その手を取る。
葵の上は、今度は振り払わなかった。
庭の向こうで、春の風が吹いた。
残っていた花びらが舞い上がり、夕暮れの空へ溶けていく。
若紫が眠りながら小さく身じろぎした。
遠い伊勢では、六条御息所も娘とともに、新しい季節を迎えていることだろう。
葵の上は生きている。
夕霧は、母の腕に抱かれて育つ。
若紫は、誰かの理想として作られるのではなく、愛されながら自分の未来を選んでいく。
六条御息所もまた、憎しみに飲まれることなく、自らの娘の未来を見守っていく。
そして光源氏は、遠い花を求めてさまようことをやめ、目の前にある温かな場所へ帰ってきた。
女房が燈台に火を灯した。
柔らかな光が、家族の影を一つの部屋へ映した。




