35:異世界出身者が普通と思ってはならない
「ただいまです!美味しいご飯は有りますか!」
「帰って早々の一言がそれでいいんだ」
『美味しいご飯は大事ですからね』
帰って来て早々そんなことを言って執務室に入ってきたヴェルサスに、若干の呆れを得たネネカともふもふと何かを口に含んでいるエリーゼ。
ご飯は有りますか、ではなく、美味しいご飯は有りますか、と問うている辺り、最強の胃袋はしっかり異界の少女に握られているようであった。
「はい、ふわふわパンケーキのホットドック。ついさっき出来た奴だからまだあったかいし美味しいよ」
「私の知ってるホットドックと違い過ぎてびっくりするんですが」
ネネカが机に置いた皿に乗っているのは、見るからにふわふわとした生地で包まれた、不思議な形状をしている肉らしきものと白いプルプルしたものに、とろりとした黄色のソースがかかっているもの。それが二つ。
ヴェルサスの知っているホットドックと呼ばれているものとはあまりに違い過ぎて、しかし漂ってくる香りが食欲を湧き立たせ、困惑する暇すら与えてこない。
『とても美味しかったです。美味しく作られたホットドックというものは、これほどに美味なものと成るのですね』
「ウインナーがちょっと満足いかない味だったから、出来る範囲で色々調整したけどね。それでも満足のいく出来にはならなかったけど」
「匂いの時点で美味しそうなのにこれで満足出来ないって、どんだけ元の世界の料理技術優れてるんです?」
ヴェルサスとエリーゼの今度こそ困惑混じりの視線に、ネネカは苦笑するしかなかった。
どちらかと言えば、このウルグリムの食事に問題が有り過ぎるだけの気がしたから。
「まあいいや。頂いても?」
「いいよ。あ、手掴みで食べる奴だから、一応食べ始める前にお手拭きで手を拭いてから食べ始めた方が良いと思う」
「その辺りは見た目が違ってもホットドックなんですね。分かりました」
皿の傍に置かれた白い布のお手拭き。
こういったモノも、ウルグリムでは割と最近出来たものだ。
当然だ。戦場において重要なのは戦えるかどうかであり、衛生など気にする余裕はない。
食事でさえ、飢え死にしなければそれでいい程度だったのだ。衛生にまで気を遣う余裕なぞあるものか。
とはいえ。今この大地は戦争の大地ではない。
それを示すようにヴェルサスはそっと、ネネカの隣に座りお手拭きを手に取り、手を丁寧に拭いていく。
戦争の時代は終わっている。ならば戦えるかどうか以外に目を向けることも出来よう。
「よしっ。じゃあ、いただきます!」
『?』
「召し上がれ」
ヴェルサスはネネカの返事にさらに応えるように、パンケーキホットドックを一つ優しく素手で掴む。
一瞬、その溶けるようなふわふわ具合に驚きつつも、決して潰すことなく内の具材を落とすこともなく、そっと自らの口へ運び躊躇することなく齧る。
「……うま」
味の感想はたった一言。
それも細かな味を語るものではなく、本当にただ感想として漏れただけのもの。食レポとして見るなら即停学モノだ。
しかしそこに全てが詰まっていた。
ヴェルサスはそれ以上語ることは無く、黙々とパンケーキホットドックを口にして、その味を堪能していく。
『……ちなみにネネカさん。私も確認を忘れていたのですが、これはどういった料理で?ホットドックに類する料理だというのは分かるのですが……』
「その名の通りパンケーキホットドックだよ。ホットドックに使うパン部分を、パンケーキにした奴」
『あの、申し訳ありません。その、ぱんけえき?というものが……』
「そこからだった」
流石料理文化が疎い大地、とネネカは変な方向に感心する。
そもそもこの世界にはパンケーキというものが無いのかもしれないが、まあそこは異世界出身の特典と考えるのが良いだろう。
「パンケーキは……簡単に言えば、フライパンとかで焼いて作るケーキの事だよ。必要な材料がシンプルだから、お菓子だけじゃなくて食事として作ることも出来るの」
「もふもふ」
『フライパン等で作る……その、けえき、というものは?』
「そこもか。……うーん……これも超簡単に言うと……あー、どう説明しよう。まあシンプルな奴だと、小麦粉とか砂糖を使う焼き上げるデザートだね。パンのお菓子版、みたいな感じ?」
あー、となんとなくだが納得できた雰囲気のエリーゼ。横でもふもふとパンケーキホットドックを食べながら、ヴェルサスも成程と言った風に頷いている。
元の世界、元住んでいた場所では当たり前に在ったもの故に、改めて説明するとなると中々に難しいと感じたネネカだった。
とはいえ無理もない話だ。文化圏どころか世界が異なるのだから。
言語は通じるだけで言葉は異なる者たちに、自分たちは当たり前に知っている単語を使わずに伝わるように説明するのは、意識してなお難しい場合が殆どだ。
まあそれはこの場合お互いさまでは有るのだが。
『ふむ……料理というものは奥が深いですね……。では、この……ういんなあ?というものは……』
「ウインナーは……これも説明難しいなー……まあ要するに細長く整形したお肉。まあ今回のは、本来のウインナーのように薄皮で包んでないから、正確にはソーセージだけど」
『知らない単語が増えました……。ではこのウインナーの上にある、白く内が金色のものは……金、いえ、赤?黄色?』
「それはポーチドエッグって言って、卵をこう……上手い事調理した奴。落とし卵とも言ったかな。安全のために熱を通しつつも、中を固まらせないようにした奴なんだ」
『……これ卵だったのですか……』
「もふ……」
色々信じられないものを見る目で、皿に残っているパンケーキホットドックの具材を注視する二人。
後に知った話だが、どうやらウルグリムでは所謂スクランブルエッグのようなものしか卵を使う調理は本当に存在しなかったらしく、そのスクランブルエッグも調味料は一切加えない、本当にただ卵をかき混ぜながら炒めたものでしか無かったらしく、とてもではないが料理と呼べるものでは無かったらしい。
当然、ゆで卵のようなものもなく。目玉焼きも有るはずなく。
そんな中でポーチドエッグなどという、常識を覆す代物。
信じられないが信じざるを得ない、驚愕が殆どの複雑な心境と成るのも、無理もない話であった。
『……では、この……ぽおちどえっぐ、の上にかかっているソースは?』
「ソースって単語は有るんだね。それはチーズソースだよ。本当はエッグベネディクトっぽく作りたかった……っていうかエッグベネディクトを作りたかったんだけどね。だからオランデーズソース作りたかったけど、それも色々具材の質的に厳しくて」
『え、えっぐ……?おらん……?』
「もふ、ごくん。……もう出てくる単語が何も分かりませんね」
怒涛の未知の単語に困惑するエリーゼ。何処か達観した雰囲気で二つ目のパンケーキホットドックに手を出すヴェルサス。
従来の食事と比べて非常に美味故か、ヴェルサスの小さめの口でもあっという間に食べられるようだ。
「オランデーズソースはバターとか卵黄とか使って作るソースで……説明めんどいからこれはまた今度。チーズソースはシンプルに、チーズを固まらないように牛乳や薄力粉で混ぜつつ溶かしただけの奴だよ。元々のチーズの味がそんなに良くなかったから、塩コショウとかも使って少し味を調節したけど」
『……チーズを溶かして固まらないようにする手法など有ったのですね……』
「もふもふ」
流石にチーズは存在していたようだが、チーズを使った調理は疎いようだ。
そもそものチーズの味もネネカの元の世界のものと比べて非常に粗悪。ただ乳成分が固まっただけとも評せる非常に御粗末なもの。
ウルグリムにおけるチーズはただの栄養源で、これを料理に使うという発想が無いと言われたら納得できる程度には低品質と言える代物だった。
それ故に、こうして美味に出来るというのも本当に思考に無く、カルチャーショックを受けているのも仕方のない話なのかもしれない。
「でもやっぱり小麦粉の質とかも違うから、ちゃんと作れたって感じはしないなあ。最悪小麦の生産から関わらないとダメかなあ……」
『……拘りが凄いですね……』
「もぐ、もふん。……ネネカさんって、料理には結構熱いですよね」
あっという間に食べ終えたヴェルサスが、拘りを呟くネネカを横目にお手拭きで手と口元を拭き取る。
然程汚れているようには見えないが、気になるものは少なからずあるのだろう。
「数少ない趣味だからね。そして食べるの速いね。よく噛んで食べた?」
『ヴェルサスさんはどんな食事でも一応咀嚼して食べる癖は有るので大丈夫かと』
「赤子ですか私は?」
見た目だけならば赤子とまではいかずとも幼児で通用しそうではあるが。
「……嚙まないと飲み込むことも出来ない、味の無い干し肉ばかり食べていた時期もありますからね。自然としっかり咀嚼はするようになったんです。それでいて食事が早いのは、いつ戦場になるか分からない前線暮らしが長かったせいです」
「うわ出た、戦場帰り特有の」
「うわってなんですかうわって」
ヴェルサスはジト目でネネカを見るが、当のネネカも若干引いたような目でヴェルサスを見ていた。
この辺りも、異世界人同士の感覚の違い以前に、平和を知らない者と戦争を知らない者の違いなのだろう。
この大地がどれだけ戦争を行っていようが決してディストピアと呼ばれるそれではないし、同時にネネカの元の世界がどれだけディストピアと呼べるような命の軽い世界であっても戦争が起きていたわけではない。
異世界であることも含めて環境の違い故の感覚の違い。
こればかりは、少しずつ互いにすり合わせていくしかないのだろう。
「まあちゃんと食べて問題無いならいいや。あとでちゃんと歯磨きもしてよ?」
「しますけどー。アレ意味あるんです?」
「しなかったら早死にさせるよ?」
「早死……早死に、させるんです???」
今度はヴェルサスが引くような視線をネネカに送る。
別にこの大地に歯磨きの文化が無いわけではないのだが、食文化が発展していない理由と同様、戦場で必要では無かったが故に習慣が無いのだ。
医療に関しては魔法と同様に戦争に直結する技術でもあったが故に他国の追随を許さない程度には発展しており、そこで歯磨きをしないことによる諸々も解明されているのだが……だからと言って数百年かけて染み付いた国民性というか民族性は容易く変えられるものではなく。
とはいえ平和な世界出身のネネカとしては気になる事に変わりないため、この一週間でひたすら歯磨きの重要性を説いて、食後の歯磨きを習慣化させ始めているのだ。
勿論、習慣というものは言ってすぐ変わるものではないために、現状はネネカが食事の際に一人一人に厳命しているだけだが。
「まあ早死にはしたくないので歯磨きしますけどー。私ってそういう病気でダウンする前に暗殺とかされそうで、あんまり意味が無さそうなんですが」
「それ自体は否定しないけど、そもそもヴェルサスちゃんを暗殺できる人って居るの?」
『他者の記憶や認識からでも復活出来る方ですので不可能かと』
「想像以上の不死性持ってた」
ヴェルサスが不死性を持っていること自体には、然程の驚きはない。
むしろ持っている方が、その最強の二文字に納得するまである。
ただその不死性の持ち方だけは、ネネカの想定を遥かに上回っていた。
「記憶や認識ってことはアレ?私が憶えていれば、私の記憶から復活できるってこと?」
「そうですね。まあ人の記憶以外にも何らかでその時代に痕跡が残っていればそこから完全な状態で復活できるのですが」
「死なないじゃん」
復活、と言っている辺り死にはするのだろうが、死んでも完全な死は迎えない辺り、死なないと評しても問題は無いだろう。
加えて。ヴェルサスは最強として世界的な知名度を持つ人物。誰かが憶えていることでそれが痕跡となるのであれば、ヴェルサスを殺すのならばそれこそ本当に世界を消すしかないだろう。
「……元の世界の創作物にもちょいちょい居たなあ。世界より肉体強度が高いから、世界を殺すエネルギーを一点特化でぶつけないと倒せないやつとか」
『まあ。ヴェルサスさんみたいですね』
「流石の私も、あくまで復活できるだけで、世界を殺すエネルギーなんてものを一点集中でぶつけられたら普通に死にはすると思うんですけど」
逆に言えばそこまでやってようやく普通に死にはするということだが。
加えてヴェルサスの場合、環境が整っていればそこから復活できるということだが。
「んー……まあそんな不死身のヴェルサスちゃんでも、ちゃんと歯磨きはしてもらうので」
「結局振り出し」
ヴェルサスの不死性を知ってなお、己の意見を曲げることはないネネカ。
そんなネネカに張り合うのも時間の無駄だと悟ったらしく、ヴェルサスはため息を一つ吐いた。
それはこの意味があるか分からない張り合いにおける、己の敗北を認める行いだった。
「……それにしても、聞かないのですね」
「何が?」
「私が何をしてきたか」
ああ、とネネカは思い出したように声を上げる。
別に忘れていたわけではない。
「んー。やー、まあ……どうでもいいかなあって」
「どうでもいいって」
ヴェルサスはネネカへと、じろりと視線を向ける。
その視線に込められた意思は、抗議か疑問か。
視線を受けたネネカは、んー、と少し考えた後、あっさりとその理由を語る。
「や、だって私は我が儘言っただけで、それを受け入れるかどうかはヴェルサスちゃん次第だったし。私の我が儘を受け入れたとして、その上で何をどうするかもヴェルサスちゃんしか知り得ないし、出来ることもヴェルサスちゃん次第だから。私がダイレクトに色々裁可を下せるわけでもないし」
「……ふむ」
ネネカの言葉を受けて、ヴェルサスは半ば考え込むようにしながらも納得する。
確かに。ネネカが行ったのは我が儘を言っただけだ。出来る限り殺してほしくないという我が儘を、理由も含めて語っただけだ。
それに一理あると頷き認めたのはヴェルサスだ。認めたが故に、それに見合った行いをしようと動いたのもヴェルサスだ。
「それに、ヴェルサスちゃんが初めての譲歩を望んでまで応えようとしれくれてたんでしょ?だったらその信頼を信用する方が良いなって」
「…………………………はぁ」
ヴェルサスは半ば呆れたような息を吐く。
別にその信頼と信用は心地よいものだと流石のヴェルサスも理解している。
ただ、あれだけ殺さない事への重要性を熱弁していた割に、結果に対してドライなだけならばともかく、殺さない手段を考えようともしなかった別人類と言っても過言ではない存在を信用しすぎではないか。
一緒に暮らした一週間の中で、ヴェルサスもネネカをしっかりと信用も信頼もしているのは認めるが……それにしたって根本的に生態レベルで異なる存在の考えに信頼を置きすぎではないか。
しかも、信頼を信用した方が良い、ではなく、した方が良いな、のためどちらかと言えば当人の感情が大きく混ざっている。
色々とツッコミどころなども多すぎるが……結果だけを見るならば、ネネカはヴェルサスを信頼し、ヴェルサスはその信頼に出来得る形で応えたということ。
今はそれでいいか、とヴェルサスは息を吐きながら思ったのだった。
「……まあ後でなんか色々起きても面倒なんで、軽く共有しておきます。超簡単に要約……し過ぎても後が面倒なので勝手に要約してください。今回の件で【呪幻神官】に協力していた、【モルス】を流通させてもいた反現ウルグリム体制組織を壊滅させました。で、現在はその方々を牢に入れ、その方々の中で代表者を決めていただくことになっています。代表者は全ての責任を負って処刑となり、他の方々は無罪放免とはいきませんが一先ず処刑はしない方向となります」
「……要するに代表者は処刑で他は一旦捕まえておくってことね」
ヴェルサスがどこか投げやり気味に語った内容を、ネネカは呆れ混じりに要約する。流石のエリーゼも苦笑気味だった。
何故に後が面倒になるのかは分からないが……まあ何かあるのだろうと適当に考え気にしないことにした。
「結果としては、ネネカさんの我が儘と現状を鑑みての折衷案となりましたが。ですがウルグリムの思想が凝り固まっためんどくせー奴らでして、結局は面倒なことになるんだろうなあ、という感想です」
『あー……』
心底面倒くさそうに、吐き捨てるように言ったヴェルサスの言葉に、何とも言えない表情のエリーゼが同意の意を示す声を思わず漏らす。
ウルグリムの思想が凝り固まった。それが具体的にどういったものなのか、ネネカは気になったが。
恐らくウルグリムの生まれでない自分には死ぬまで理解できない理念なのだということは何となく分かった上、興味の赴くまま聞いたところで二人は答えてはくれるであろうが他ならぬ己の気分を害するであろうことも分かった。
うんざりする二人の傍で、ネネカは静かに己の好奇心を押し留めた。
「……まあ、なんというか……一応、我が儘を叶えてくれてありがとうとごめんなさい?」
「いえ、結構です。ネネカさんが仰ったように、ネネカさんの理論込みの我が儘に対し、理解と納得した末に現状を鑑みての施策を行っただけですので。問題点は、相手が私たちの想像を上回る形で思想が偏っていただけで」
ヴェルサスのこれは本心だ。
先ほどネネカより言われたというのも有るが、それ以上にネネカの我が儘を補強する理屈に対し、自分たちの目指すウルグリムの大地を考えた場合、目的に極めて即している考えだと判断出来た。
当然、現在のウルグリムの大地に最も必要となるのは、戦争が有ったということすら僅かでも風化するほどの時間とその時間が経つまで戦争を起こさせない抑止力であり、ネネカの我が儘や考え方は目的としては理想であっても直近で必要なものではない。
とはいえ。言われた通り、理想を唱えることも出来ないのでは、どれだけ時間を経ても理想に近づくことなど夢のまた夢。
ヴェルサスたちの目的はウルグリムの大地に根付いた戦争と死を取り除くこと。現在必要とする時間はあくまで一時的に必要とするものであり、長期的に見た場合ネネカの考え方が必要なのはどこから見ても明白。
ヴェルサスはそう考え、ネネカの我が儘に説得されたという理由は確かに有れども、自分の行いは確かに己で考えた末の行動だと判断している。
問題は、ウルグリムの民の精神性がヴェルサスの想像以上だったということで。
「引き籠ってる弊害ですかねー。基本的にああいう思考がダイレクトに来る場面って私の管轄じゃないんで、忘れてました。雑にエッ……ゴホン。色々して情報引き出すだけなら得意なんですが」
「途中に入りかけたストレートにアウトな言葉は全力で無視しておくね。でもそっか、能力的に引き籠らざるを得ない上に仕事も普段と違うことやらせちゃったんだ。そこについては本当にごめん」
「別にいいですって。どうあれ先ほどネネカさんも仰ったように、結果としては私の選択ですし」
それに、とヴェルサスはどこか恍惚とした、同時に晴れ晴れとした雰囲気を表情に滲ませながら言葉を続ける。
「……言葉責め、思考責め。視姦も中々に悪くなかったです。解釈違いでキレ散らかしてる皆さんを見たときは、思わずサディズムも強く刺激されてしまいましたし」
「……ああ、そう」
ネネカは何とも言えない表情でヴェルサスから目を離す。対面のエリーゼも、どこか頭痛を堪えるような表情を浮かべていた。
当のヴェルサスは変わらず、どころか思い出したのかなにやら昂っているような気配すらある。
忘れてはならない。どれだけ良識が有ろうとも、ヴェルサス・ヴァナディースは淫魔族なのだ。それも世界の歴史で唯一の最上級。
そういった事に対し、良くも悪くも万能であるのは、おかしい話ではない。
ただそれは淫魔族故の感覚であり、決して普通とは言えない存在ではあれども良識は普通にある方且つ種も異なるネネカやエリーゼは、随分と高い次元の理解できない話にしかならない。
より正確には言葉の内容こそ理解できるが、共感の類が全くできないのだ。
まあ当然の話ではある。ネネカもエリーゼも、そういう方面に関しては柔軟ではあれどもノーマルなのだから。
「……えと、エリーゼさん的には良かったの?ヴェルサスちゃんの行動は。……あ、そういう意味じゃなくてね?」
話を逸らすが如く、ネネカはエリーゼへとヴェルサスの行動の如何について問う。無論、そういう意味は無いとも加えて。
ヴェルサスの性癖によって微妙な空気と絶妙に面倒な会話となったが、ネネカの問いがネネカの本心からであることは事実。
エリーゼは苦笑が交じりながらも、ふむ、と一つ考えるような仕草をしながらも特に秘することなく答える。
『こうなるであろうことは少なくともクルーベルさんは理解していたことでしょう。そして皇帝陛下も同様に、ヴェルサスさんへの信頼を以って気付いている。仮に気付いていなかったとしてもクルーベルさんが教えている可能性は非常に高いです。そうでなくとも、娘に等しいヴェルサスさんの極めて珍しい我が儘を拒絶する理由は薄いでしょう』
クルーベルはその頭脳で以って。ヴァメルは培った信頼で以って。
各々の理由で感付いていると、エリーゼは確かな確信を持ってそう述べた。
『現在のウルグリム皇国における、三つの政治的大権の保有者の内、二つの保有者が各々の分野で認めたのです。であれば、残る一つの大権を持つ私であれども拒むことは出来ませんし、拒む理由も有りません』
「政治的大権?」
「軍需的大権、民需的大権、執政的大権の三つです。詳細はいずれお教えしますが、今は簡単に軍需的大権をクルーベルさんが、執政的大権を皇帝ヴァメルが。残る民需的大権をエリーゼさんが担っていると思ってください」
役割多いなー、とネネカは思ったが。
理の裁定者という立場の在り方から考えて、そういった立場に在る者が任命されていてもおかしくはないし、同時に兼任しているのは権力が異様に集中しすぎているようにも思える。
疑問こそ多いが今はヴェルサスの言う通り、今は各々の立場が有るのだと考えることにした。
「……でもそれって立場的な理由でしょ?エリーゼさん個人としてはどうなの?思いとか考えとか」
『個人で、ですか。そう、ですね……』
改めてネネカに問われたエリーゼは、ちらりとヴェルサスを見る。
ヴェルサスはいつの間にか作り出していた水のボールを、暇そうに弄んでいた。相も変わらず水のボールを弄る癖のようなものが有るらしい。
本当にいつからその水のボールを作り弄び始めたのか分からないが……ともあれいつも通りのヴェルサスに、ネネカとエリーゼは半ば呆れつつ話を続ける。
『……完全に私個人の意思としては、善い傾向だと考えておりますよ』
「?」
エリーゼの言葉に、ネネカは軽く首を傾げる。
善い傾向。今の状況が。
目指す国の形としての事ではないだろう。ヴェルサスが理想とするウルグリムの在り方は、エリーゼも賛同しているものだとネネカは知っているし、ネネカが知っていることをエリーゼも理解している。
故にその点については、態々改めて特筆して話すべきことではないと相互で認識出来ている。
それにも拘らず、善い傾向、だと評した。
それが何に対してのものなのかネネカには分からなかった故、首を傾げた。
『……ヴェルサスさん。ネネカさんにはどれほど?』
「私の過去についてなら殆ど語ってませんねー。傷の舐め合いになる予感が互いにあったので」
『成程』
ふぅ、と一つ息を吐くエリーゼ。
それだけでネネカは、善い傾向というのがヴェルサスの過去に根差すものなのだと理解する。
同時にエリーゼは、ネネカにもそういったモノが有るのだと理解したことだろう。
ネネカには特に驚きはない。他ならぬ己も、明確な傷として根差すものは多い故に。
語る語らない以前に、もう終わったことでしかないものや、どれだけ語ろうとも意味を為さないものばかり。わざわざ語ったところで、相手の気分を害する可能性が高いだけでなく、自身も刻み込まれたトラウマを想起し悩まされるだけ。
そしてそれはヴェルサスも同じこと。
勿論、何を経た末に現在が有るかは異なるだろう。人生は各々のものであり、そこで得た紆余曲折も各々だけのもの。
通じる者は有ろうと異なるのは自然である。
だがその通じる部分において。
ヴェルサスもネネカも互いに語り合わずとも共感するものが少なからずあり、同時にそれを語ることは互いにとっての傷になるとも理解した。
故に互いに語らないし、知ろうとも思わない。
世の中には、触れないほうが良い事も在るのだと、この二人は若いながらに理解しているのだ。
『となれば、私から勝手に語るわけにもいきませんね。細かな事情は省いて、私の感想だけとさせていただきます』
「だーいぶ意味分からなくなりそうだけどまあいいか」
これについては仕方ない、とネネカは割り切ることにした。
互いの事情に興味が有りつつも知りたくなく語りたくないヴェルサスとネネカ。
ヴェルサスの今回の行動について、ヴェルサスの事情を知っていることが前提の感想を持つエリーゼ。
そこはどちらかが譲らねばならぬことであり、今回はネネカがエリーゼの思いを聞くため、譲った。
『……私にとって、ヴェルサスさんとクルーベルさんは恩人でも有りまして』
「そうなの?」
『はい。一生をかけても返しきれるか分からない、大恩ある方々です』
微笑みながら、心の底からそう思っている風に語るエリーゼ。
事実、魔法の性質と併せて心底からそう思っているのだろう。
……当のヴェルサスは「義理堅すぎて重い」と何やらため息を堪えている様子だったが。
恐らくネネカに対するヴェルサスと似た風に、その全能に近い能力で以って救い上げたのだろう。
クルーベルに対しても恩があると語る辺り、単にヴェルサスの独断という訳ではなさそうだが……それはまた別の話として今は置いておくことにした。
『ですがそれだけに。こうして親しい仲と呼べる間柄となったからこそ……癒すことの出来ないヴェルサスさんの心の傷は……とても、辛い』
「…………………………」
『私は万人を癒す力を持ちます。私の魔法にかかれば死者すらも蘇る。……だというのに、たった一人の恩人にして友人の心を癒すことは、決して叶わなかった』
仲が良いからこそ。エリーゼという一人の少女が、このウルグリムには似つかわしくないほど心から優しいからこそ。
親しい仲であるヴェルサスの心に傷が有ることを悲しみ。
しかしその光の魔法を以ってしても、心の傷を癒すことは出来ず。
ただひたすらに、傍で心の傷に苦しみ続ける恩人にして友人を、見守る事しかできない。
優しい彼女にとってそれは、拷問に等しい事であったかもしれない。
『私もウルグリムの大地に生まれ落ちた者としては異端ではあります。が、決して外の者ではない。故に、ウルグリムの気風を自然のものと捉えてしまう。ウルグリムの気風すらも毒となるヴェルサスさんを傷付けることは無くとも、癒す可能性の模索すらままならない。巡礼の旅には出ましたが……巡礼の中でヴェルサスさんは新たな傷を得てしまい、私は自らの成長こそ為せども彼女に何かを返すことは出来ず。……歯がゆい思いとはこの事でしょう』
巡礼。
何を、どういった理由で、そう呼べるものを行ったのかは知らない。
だが少なくとも、その巡礼の旅路の中でヴェルサスの傷が無視できない形で増えたということは確かなのだろう。
『そうした、忸怩たる思いを抱え続けてきた中で。……ネネカさんが、始まりはただの我が儘であったとしても、ヴェルサスさんの傷の痛みを抑える一手を打ってくれたのは事実。そしてヴェルサスさんが、この短い間でのネネカさんとの信頼のもとに、その一手を受け入れてくれたのも事実』
「…………………………」
『だからこそ。私たちは現在のヴェルサスさんの傾向が善いものだと思っておりますし、そこへと導いてくださったネネカさんに感謝しているのです。ヴェルサスさんの心を、僅かでも癒してくれたことに。その重荷を僅かでも取り去ってくださったことに』
そう言って、エリーゼは座ったままではあるが、ネネカへと深く頭を下げる。
心からの感謝の念を以って。
まるでこの場には居ない、クルーベルやヴァメルの分まで、礼を告げるが如く。
「……感謝はまあ、受け取るけどさ。私は本当に何も知らないながらに、私の理想を我が儘で言っただけだよ?」
『それでも、というものです。それに、相手を救おうとして語る上辺だけの言葉よりも、相手を鑑みない己の内から出た真の言葉の方が、本当に苦しんでいる相手には響く時も有るのですよ』
「そういうものかなあ」
そういうものです、と顔を上げたエリーゼが微笑みながら答える。
事実、エリーゼたちはヴェルサスに対し、傷を少しでも癒そうと言葉を尽くしたことも有ったのだろう。上辺だけの言葉を述べたことも、一度や二度でなくともおかしくない。
それで救うことは叶わず、逆に相手の事情を詳しく知らないまま、己の欲のままに我が儘を述べた結果、傷を癒すとまではいかずともその痛みを和らげることが出来た。
であるのならば。ヴェルサスを思いやる者としては、その事実を認めなければならないだろう。
「……まあまあ気まずいんですけど、私」
『そうですか?』
「あんまり当人が居る場所で話すことではないよね」
相変わらずもにょもにょと水のボールを弄んでいるヴェルサスは透明だった水のボールを濁らせ、自身の表情を隠すが如く顔の下半分の前へと持ってきた。
恥ずかしいわけではないが、何とも思わないわけでもない。まさに気まずい状態なのだろう。
ヴェルサスの実年齢とは異なる精神年齢やエリーゼらとの関係を考えれば、まあ思春期に近いそれで不思議はないのだが。
「……ネネカさん。一応言っておきますけど、私の過去を知ろうが知るまいが、私の心に自分ですら理解出来るほどの傷が有ると知って、変に気遣う必要は無いので。貴女は貴女のまま、普段通りでいいので」
「生憎と人を気遣うのは苦手な方だから、多分言われなくてもやってないよ」
『それはそれでどうなのですか?』
別にネネカは気遣うことが出来ないわけではない。
ただ単純に、自分と他人で様々な能力が違い過ぎるが故に視点や思考を寄り添わせることが極めて難しいというだけで。
今回はそれが自分以上の能力を持ち、似た部分も多いヴェルサスだからこそ、気遣う必要性すらなく寄り添うことが出来たのだろう。
「……話を戻しますが、今回の件で【モルス】の流通は一旦滞るでしょう。まだ組織壊滅の情報は流れていないはずですし。流通が滞った結果、尻尾を出してくる反乱組織等も各地に現れると思います。エリーゼさんもホープでどうか警戒をお願いします」
『分かりました。……【モルス】の被害が皇都だけで済んでよかった、と喜ぶべきか否か』
「今は喜んでおきましょう。皇都の被害も、致命的になる前に一手を打てた、とも。とはいえ【モルス】の製造は未だ健在。どこかで【モルス】を相当溜め込んでいてもおかしくはない。今後のためにも、ホープでの確実かつ安全な治療法の研究等も継続するよう。恐らく後ほどヴァメルから直々に言われるでしょうが、一応事前に」
『勿論。ホープより流出せし負の産物。その根絶は、ホープの管理者としての務めでも有りますので』
さらりと語られた衝撃の真実が有ったが、ネネカは全力でそれを無視することにした。
別におかしな話ではない。【モルス】が如何に禁止薬物だったとして、前提として誰かがどこかで製法を編み出したことは紛れもない事実であり、エリーゼの治めるホープという都市がこの大陸で事実上一番発展している都市だというのなら、そこで新商品として開発されたものであっても不思議はない。
世間一般に流通している薬品等も、それが完成するまでの過程で危険な薬品が出来ていてもおかしくないし、流通している薬品でさえ副作用という形で危険性を持つものもある。
開発、製造、販売。その全てにおいて厳しく定められた基準が有り、その基準を満たすことで許されたごく一部の薬品のみ世間一般に流通するのであり、その裏には無数の基準を満たせなかった薬品……流通を許されなかった禁止薬物が有る。
悪意ある形で利用され、流通させられた【モルス】とて、例外ではないのだ。
「これを機に魔力の数値で競い合うとか馬鹿な事止めてほしいんですけどねー。そりゃまあ魔力は高ければ高いほど普段使いにおいて善いのは他ならぬ私が認めますけど、一時の勝利のために永遠に魔力失って何がしたいんですか」
『……流通が止められなかった原因はそういった理由でしたか』
悪意ある形で流通させられながらも止められなかったのは、好奇心と向上心から用いる者が多かった結果のようだ。
勿論【モルス】を服用した者全てがそういった理由という訳ではないだろう。話で聞く限りでは普通の食事にすら紛れ込まされていたようなので、現在に至っては無差別と言ってもおかしくない状況だろう。
しかしその無差別の始まりがそういった理由ともなると、流石のエリーゼも深くため息を吐いてしまうのだった。
「魔法が魔力だけで決まるわけでも無し。なんで魔力の大小程度で競い合うんだか。そんなに魔力量が多い方が良いんですかね?」
「……事情を知らない私みたいな人からすれば、結果として異次元の魔力持ってるヴェルサスちゃんが魔力量で悩んでる人たちをナチュラルに見下してるようにしか思えない」
「え」
ガン、と割と強めにショックを受けた様子のヴェルサス。
エリーゼも無言で、苦笑いを浮かべながらも否定をしない。
別にヴェルサスとしてはそのつもりは無いのだろう。事実として魔力の大小で競い合った末にその魔力を最終的には枯渇させかねない禁止薬物【モルス】の流通等が止められなかったのだから、土地と民を管理する者としてはその行いを非難したくなる気持ちも当然と言える。
ただそれを言うのが、桁違いという言葉すら生温い魔力を持つヴェルサスなのが、話を微妙にややこしくしている。
競う気すら起きないほど高みの力を持つという点においては、ヴェルサスほどでなくとも規格外の魔力を持つネネカや十賢者のエリーゼも似たものではあるが、その二人ですらさらに競う気も起きない魔力を持つのがヴェルサスだ。
ヴェルサスからすれば足元の塵芥が大きさ比べをしている程度の感覚なのかもしれないし、実際それですら生温いほどの絶対的な差が存在しているのだが……それを口に出してしまうのは如何なものか。
『……まあ、ヴェルサスさんの事は一旦置いておくとして。ネネカさんは何か、良いアイディア等は有りますか?魔力の競い合いを治める手段について』
「なんで私???」
『私たちでは出せない、平和的な案が出ればいいな、と』
エリーゼのその言葉は本心だろう。
事実としてネネカは、エリーゼたちウルグリムの民では出来ない考えが出来る人物。平和的施策の意見を求める相手としては妥当な相手だろう。
ただ、話の流れ的に、雑に押し付けた感が否めないのがネネカとしては複雑だった。
「……うーん、でも競い合うこと自体は時にはお互いの能力を高め合えるからいいと思うよ?私だってこの身体能力とかはその結果手に入れたようなものだし」
『そうなのですか?』
「私個人はそう思ってるよ。まあ勿論やり過ぎたら駄目だけど。元の世界でも何人か居たしね。私に勝てないからって危険な施術とかをやった結果、身体に合わなくて一生車椅子生活になった子とか、足が腐り落ちちゃった子とか」
怖、とぼそりと隣のヴェルサスが声を漏らす。
こちらの世界でも似たようなことは有るだろう。病気だけでなく魔法や魔獣、未知の環境によって発生してもおかしくない。
ただ、ヴェルサスやエリーゼたちウルグリムの民は戦争でそういった惨状に慣れてはおらずとも受け入れているとしても、戦争が無いという意味では平和だとしたネネカの世界でそういった惨状が発生するという。
その色々歪な環境に対しても含めて、ヴェルサスは一言で恐怖を表したのだった。
「だからこういうのだと……競い合う事を諫める法を作るよりも、競い合うより健全に高め合った上で吐き出す場を作る方が良いと思う」
『吐き出す場、ですか?』
「うん。こう、なんだろ。具体的なのだと……何年に一度かの闘技大会……は物騒か。まあ何かしらの大会とかを開いて、そういう薬品を用いた人は永久出場禁止、とか定めて。で、優勝者には栄誉と褒章を、みたいに」
成程、とヴェルサスとエリーゼがネネカの挙げた具体案に頷く。
この世界、この大陸にそういった大会のようなものが有るかは、ネネカは当然知らない。
が。二人の反応は新しいものに目を輝かせる子どもが如く。
少なくともこの大陸にはそういった競技大会のようなものは無いらしい。
「それって元の世界に有ったものですか?」
「まあ……間違いではないかな。一応色んな競技が有って、それぞれの大会が有って」
『ふむふむ。……キョウギ、とは?』
「そこもか。簡単に言えば、色んな種類の、こう……種目?闘技大会的に例えるなら、剣だけの闘技大会とか槍だけの闘技大会とか有る感じ」
「成程、各武器に応じた部門が有るようなものですか。面白そうですね」
相も変わらず通じない言葉はあるものの、それでも伝わる言葉と例えでなんとか伝えるネネカ。
分からない単語こそあるがネネカの世界に有ったものを薄っすらとではあるが理解したヴェルサスとエリーゼは、何やら満足そうに頷いた。
「いいですね、それ。今すぐにとはいきませんが、積極的にやる方向で行きましょう」
『まずは部門を決めなければなりませんね。武を競い合うのはウルグリムの気質には合っている、のでしょうが……』
「合っていても結果として死人が出ては意味が有りませんからねー。まあその辺り……ええと、シュモク、でしたっけ?そこは公平に出来るようにという点も含めて考える必要も有りますし、後ほど考えましょうかね」
「想像以上にノリノリで考えるじゃん」
戦乱だけが存在していた大地に、新たな娯楽だけでなく競い合うものが出来るのはいい事ではあろう。殺し合い、滅ぼし合いより、万倍健全だ。
それがネネカという理外の存在から齎されたものであろうと変わらない。そもそも文化とはそういうものだ。
ただネネカの想像以上に食いついた上、ノリノリで考え始めるものだから、ネネカも苦笑いを浮かべながらも僅かに口元が引き攣っている。
それほどに娯楽と呼べるものが無いのかと気になり、聞いてみれば。
「無いですねー。いや一応、子どもの遊びとかは色々有りますけど。ハイドランとかビーステミクとか。ビーステミクは色んな形式も有りますし。ただ……」
『それ以外の……その、他の国々における興行に分類されるようなものが殆どありません。全くない、と言っても過言ではないかと』
想像以上に娯楽と呼べるものの選択肢が少ないようだった。
まあ最低でも数百年……記録出来ていないだけで最悪千年以上も戦争が途絶えなかった大陸だ。戦時と平時で文明の伸び方は異なり、そういった娯楽といったものは平時に培われるもの。娯楽が存在しないのも仕方のない話ではある。
とはいえそもそもこの世界に娯楽が少ないだけの可能性も勿論有るが。
他の国々で興行と呼べるものがどれだけあるかも分からない今、それは意味のない話でしかない。
「……まあ、私の知識というか元の世界の文化が役に立つならいいけどさ。元の世界より健全に治まってくれるのであればなんでも」
「ちょいちょい出てくる情報が怖いんですけど。ネネカさんの元の世界って何なんです?」
「割と結構かなりまあまあディストピア」
『……でぃすとぴあ、という言葉の意味は分かりませんが、禄でもないということは分かります』
「少なくとも昨日一緒に遊んだ人が次の日路地裏でバラバラになって見つかるのがおかしくない世界だったかな」
「ヤバ過ぎる世界なんですけど」
否定はしない、とネネカは引いているヴェルサスとエリーゼに苦笑を向ける。
実際にあの世界で生まれ育った者でもどうかと思うほど、危険極まる狂気の世界でしかないのだから。
「でも私の世界だって最初からそうだったわけじゃないからさ。昔の文化に倣うのは悪い事じゃないと思うし、ガンガン元の世界の文化活かしていこ?」
「割り切りが凄いというかなんというか。……というか昔の文化なんですね、この案」
「相当昔のだねー。大会って呼べるものが今の時代に無かったわけじゃないけど、種目分けされるほどのはもう殆ど無かったし。そもそも細かい大会はちょこちょこあったけど、大規模な大会って言えるものは数百年前には無くなってたから」
『本当に相当昔でした。……しかし本当に面白そうですね……大会……』
元の世界の文化を思い出しながら、ネネカは語る。
ヴェルサスとエリーゼはネネカの語る未知の文化に変わらず興味津々だった。
実際新鮮なのだろう。戦乱の大地に生きてきたものとしては、平和な世界で死が伴わない形で競い合うというその形式そのものと、数百年もその歴史が明確に残っているということが。
「……まあ細かいことは後で考えるとして。今度ヴァメルにも提案してみますかね。絶対ノリノリで色々決めにかかるでしょうし」
『……あの、皇帝陛下に進言しては……』
「バレるのも時間の問題です。それに遠からず暇を持て余したヴァメルが大陸規模で祭りを催すぞーとか言い出すに決まってるので。であれば、こっちである程度の方針を定めさせた方がまだマシです」
はぁ、とため息交じりにヴェルサスは半ば諦めの言葉を吐く。
ネネカとしてはヴァメルの事はまだ己を警戒する為政者としての側面ばかりを見ているためそういった側面はあまり分からないが……ヴェルサスがそうも警戒しつつも諦め流れを誘導する方向性に持っていく時点で、まあそういう事をする人物ではあるのだろう。
あまりヴァメルの前で元の世界の話はしないでおこうと、ネネカは静かに思った。
「って、そうだ。忘れてましたがネネカさん。……聡い貴女には言うまでもないかもしれませんが改めて。私とクルーベルさんとエリーゼさん……と……まあヴァメルもいいか。この四人の前以外では、あまり元の世界の話は為さらぬよう。下手に文化が広まっては、今のウルグリム大陸では発展どころか衰退まで発生しかねませんので」
「そこまで文化の衰退云々まで考えては無かったけど、元々広める気無かったって」
別にネネカに全く広める気が無かったわけではない。故にヴェルサスの懸念と警告は正しいものだ。
ただむやみやたらと広めたところで妄想の酷い異常者扱いされるのがオチで、そうでなくとも最悪元の世界の情報を引き出すために捕らえられる可能性も絶大だ。
この世界に来て早々、賊によって散々な目に遭ったネネカとしては、これ以上の面倒は出来る限り避けたい。避けられない面倒は有るだろうが、それも出来る限りは変に心身に負荷がかかるものでないことを望むばかり。
そんな中で己の望みを真っ向からぶち壊すが如き異世界の知識の暴露など、言われずとも広める気は無いのだった。
『そうですね。我々為政者ならばともかく、一般の方々が異世界の知識を得て下手な活動をされても困りますし』
「最悪異世界の技術を再現して反乱なぞ起こり得ますし。そんなことになったら、また大陸ごと粉砕しなきゃならなくなるやもしれません」
「規模。しかもまたって」
それ即ちヴェルサスは過去に大陸を粉砕したことが有る、ということになるが。
とはいえ最強と謳われているヴェルサスだ。ネネカはその程度を片鱗も知らぬが、過去にそれほどの事を成したが故に最強と呼ばれているのなら、最強と呼ばれるのも納得だ。
「どの道、今ここで色んなネネカさんの世界の技術や文化について聞いたところで何も出来ません。……いえ出来るものは有るでしょうし、個人的興味の観点では凄まじく片端から問い詰めたくは有りますが」
「割とヴェルサスちゃんって知りたがりだよね」
『知りたがりといいますか、興味に素直といいますか。割と学者気質なので』
学者気質、と言われて納得するものがあったネネカ。
どこがどう、という訳ではない。ただ未知のモノに興味津々なだけならば子どもっぽいとだけ言える。
ヴェルサスの場合はその先……詳細な理解まで貪欲に求めてくるのだ。
興味が有るだけならば実年齢ではなく精神年齢相応と言えたのだろうが、理解まで求めるのは年齢不相応の聡明さと併せて、確かに学者気質と言えよう。
「学者気質っていうか、我が道を進んでいるだけな気もしますけどねー」
「自分で言うんだ」
「自分の事なので」
とはいえ事実、ヴェルサスは未知を知りたいという部分も含めて己の興味十割と思えなくもない。
未知に貪欲な幼稚さも相まって、一歩間違えばマッドサイエンティストに足を踏み入れそうな気質だが……他ならぬ当人が自覚した上で貫いているのならそれでいいかと、ネネカはあまり触れないことにした。
「まあそんなわけで。異世界の事象の実験及び観測の観点でも私が適任になると思われますし、私が適任となるということは他の方には危険な可能性も有るということですので。最悪異世界出身程度はバレてもいいですが、何が有っても異世界の詳細な情報は我々以外には語らぬよう」
「異世界出身はバレてもいいんだ」
「あまり良くは無いですが……未界も広いので、魔法などの確実にこの世界に存在する事象を知っていれば、異世界と言ってもあくまで未界からの来訪者と見做されましょう。勿論、その際もその地の技術等を求められることになりましょうが」
ミカイ、という新たな単語が出てきて軽く首を傾げるネネカ。
それを問えば、答えはエリーゼから単純な形で返ってきた。
『未界とは人類未踏の大地の総称です。この世界は広く脅威も多いので、到達出来ていても未だ開拓されてすらいない大地も多いのです』
「想像以上にシンプル」
しかし分かりやすい、と思ったネネカ。
人類未踏の大地。その開拓はある種の憧れが有ろう。
だがそれ以前に、到達出来ている大地の発展をさせなければ、新たな大地の開拓なぞ出来ようもない。
地面無くして地を歩ける生物は居ない、というだけの話だ。
この世界がどういった形、どういった広がりをしていて、どういった風に人類の生存圏が確保されているのかは知らないが、そういった点はネネカの元の世界も遥か過去に通った道であり、言葉が異なるだけでおかしなものでは無かった。
「要は開拓も何もされてない所には何が有るか分からないから、それにかこつけて異世界出身を誤魔化そう、ってことか」
「そうなります。真実、我々からすれば未知の領域から来た存在である、という点においては同じですし」
異世界も未界も、系統こそ異なるが同じ未知。
なれば。使えるものは使うとなった場合、その未知も利用するのはおかしなことでは無かろう。
「ですがこれは結局のところ一時しのぎにしかなりません。そもそも異世界であれ未界であれ未知であることは変わりなく、その情報は求められるものですから」
『ですのでネネカさん。しつこいようで申し訳ございませんが、くれぐれも異世界の情報はこの家以外では語らぬよう』
「……まあ、為政者としては厳命するのは正しいからいいよ。そして了解。……あと、やっぱりこの家では良いんだね……」
この家が例外となる理由は単純明快。
壁に耳あり障子に目あり、という諺は有るが、この家に関しては壁に耳が有ろうが何の意味も為さないというだけの話。
人によってはこの家を囲う塀に近づくことですら命を危ぶませるというある種の魔界。人の噂も、聞ける者が居らねば広がりようが無いのだ。
「っと、随分と話し過ぎてしまいましたかね。まあ総括としては、竜の件はネネカさんの活躍で落ち着き、首謀者とその協力者及び協力団体は処理。再発防止のための案として、ネネカさんの世界での文化の取り入れを前向きに検討。ネネカさんは今後も出来得る限り異世界の情報は語らぬよう。といったところですかね」
「割と無理矢理まとめに入ったね。上手いけど」
『ヴェルサスさんは国際的な会議の司会なども務めることが有りますので』
「ベテランだった」
何故ヴェルサスが、と思ったが恐らく最強故だろうとネネカは想像がついた。
こういった世界だ。公的な会議の場で、やろうと思えば相手に、自分たちにとって都合よい発言をさせる手段も様々有ろう。最悪、暗殺も有り得る。ネネカの元の世界ですらそうだったのだから、この世界でそれが出来ないはず有るまい。
そんな中、ヴェルサスに対しそういった類の手は通用するまい。
比類を許さぬ唯一無二の最強故に誰の暗躍も許さない。事前に中立にして公平、会議の確実な進行を確約できさえすれば、確かに誰よりも信頼できる進行役となろう。
最強の力が役に立つのは、決して戦いの時だけでは無いのだ。
「私としては、皇都に封じ込めておきながら都合良い時だけ駆り出されるの普通に嫌なんですけどねー。好きなわけでもないし。……って、そうだ。一応ヴァメルに報告書を書かないといけないんでした」
『そういった真面目な点が評価されて、会議の進行役等に推薦されるのだと思いますよ』
「ダル」
たった一言と表情で自身の心境を語りながら、ヴェルサスはソファからふわりと浮かび上がり、自身の仕事用の机に向かおうとする。
そこをネネカは、神速でヴェルサスの足を掴み止めた。
「歯磨きはしようね?」
「……私の飛行魔法、風魔法の応用だから不意に足とかに触れるの結構難しいと思うんですけど」
「そうなの?」
『普通に掴めていますね』
言われてネネカは、ヴェルサスの足を掴んでいる手に感覚を集中させる。
集中すれば確かに手とヴェルサスの足の僅かな隙間から決して優しいとは言えない風が当たっている感覚があった。
常人ならばこの風で軽くではあるが手の進路をズラされ、まともに掴むことは難しいのかもしれない。
「全く、末恐ろしい事です。将来的には私超えそうですね、ネネカさんは」
「超える気無いんだけど。超えれそうにもないし」
『仮に超えられる時が来たとして、それは何億年後でしょうか……』
「将来の桁がおかしいんだけど」
ネネカがヴェルサスに様々な能力で追いつくのに壮絶な時間を要することは理解しているつもりだったが、壮絶を超える時間を容易く提示され思わず困惑するネネカ。
別に一朝一夕で追いつけるとは到底思っていない。そもそも追いつけるかどうかも怪しい。
ただそれを踏まえても異次元な時間過ぎると思うが……これを語っているエリーゼがヴェルサスの友人であるが故にヴェルサスの実力をよく知っている上、表情等も至極真面目なのだ。
つまりは、ヴェルサスの本気は本当にそれだけの時間を経てようやく到達できる領域だということ。
わざわざ能力を追いつかせなければならない理由が気持ちも含めて無かったために気にしていなかったが、ネネカは改めてヴェルサスの知覚すら許さぬその絶対的な能力の、その座が存在することをようやく理解した。
まあ理解したところで、ネネカの元の世界でもヴェルサスほどは居なくともそういった人物が居なかったわけではないので、特別抱く感傷は無いのだが。
「……面倒ですが、飛んでいる私の足を掴むほどとなれば仕方なし。歯磨きしますかねー」
『凄いですね。ヴェルサスさん、自分が嫌なことはとことんやらない質なのですが』
「まあまあ我が儘な子どもだ」
ヴェルサスの精神年齢を考えればこの程度の我が儘はおかしくないだろう。
問題は、その我が儘をいつでもどこでも通して許さざるを得ない能力が有ることだが。
『あ。そういえばヴェルサスさん。私、今日は皇城で寝泊まりしようと思っているのですが、宜しければ報告書をお持ちしましょうか?』
「んむ?……ん、あー……どうしましょ。流石に今から書いて書き上げられるものじゃないですしねー……」
んー、とふわふわと浮かんだまま悩む素振りを見せるヴェルサス。
流石の最強とて、文書を容易く書くことは出来ないようだ。
もしかしたら出来るのかもしれないが、出来たとしてやらないのなら相応の理由は有るのだろう。
と、そこまでネネカは考えて……ふと思い出したことを問う。
「エリーゼさん、屋敷に数日滞在するって言ってなかったっけ?私の足のリハビリとかで」
それは昨日のこと。就寝前にそんな会話をした覚えが有ったネネカは、エリーゼにそれを問う。
問われたエリーゼは……何やら何とも言えない表情で答える。
『……ネネカさんの身体、中身が異形過ぎてマッサージの効果が恐らく……』
「あー……」
「色々強化されてるから異形になってるのはあんまり否定できないけど、それでもちゃんと人間の肉体だから固まったり歪んだりとかはするからね???」
元の世界とこの世界で、人間の身体構造そのものに違いは無いだろうとネネカは何となく理解しているし、それはヴェルサスやエリーゼも同様だろう。
問題なのは、各々の世界の文化によって後天的に変化した身体の部位。具体的には義手や義足などの事だ。
結果として天性の才覚とそれを活かせる肉体を生まれ持ち、その上でヴェルサスと同様に容易く死ぬことはない強靭にして超人的な身体能力を持っているのがネネカだが……その過程で様々な施術も調整も調律も行われてきた。
一般的なマッサージなど通用しないほど肉体構造が異形となっていても、自分自身ですらそうだろうなとしか思えないのだった。
「……っていうか、ヴェルサスちゃんも気付いてたの?私の身体、弄られてるって」
「どういった形かまでは流石に。確証も無かったですし」
確証までは無かったが、何らかの理由で普通の肉体ではないことは何となく察していたらしい。
その理由が何なのか。気になったネネカはそれを問う。
「んー……私、見ようと思えば他人の体内の魔力も見えるんですよ」
「あー、察した。普通の人と魔力の流れ方が違ったのね?私」
「そういう事です」
『前々から思っておりましたが、ネネカさんの理解力凄まじいですね?』
短く語ったヴェルサスと、それだけで理解したネネカ。それに対し驚くエリーゼ。
ネネカとしては元の世界の創作物に存在した展開を想起、当て嵌めているだけなのだが、どういった創作物が有るか分からないエリーゼたちには高い理解力を持つという形で出力されているようにしか見えないようだ。
まあ実際、創作物の知識が有るとは言え即座にそれに思い至ることが出来るという点においては、理解力が高い、と評しても問題は無いのだろうが。
「とはいえ。この世界でも魔法を極めるためとか言って身体に魔法陣刻む人や、魔獣の素材を体内に取り込む方は割と居ますし。そこまで気にすることではないでしょうね」
「気にするつもりもなかったけどね。見た目は変わんないし、別に不便が有るわけじゃないし」
『……それで済ませてしまうのも、どうかとは思われますが……』
エリーゼが呆れ気味だが、事実としてネネカはこの身体そのものに思うところは有れども機能としては問題ないと考えているし、ヴェルサスもネネカほどの異様さは初めてでも異常な魔力の流れ時代は見慣れている故に気にすることはない。
外見的特徴に表れるわけでもなく、現在の時点で今後に支障が出るような状態という訳でもない。
であれば当人であるネネカもそれを見られるヴェルサスも、然程気にすることでは無いのだろう。
『……医療従事者としましては気分の優れる話では有りませんが……私に出来ることも有りませんし。とはいえ今回の件におけるネネカさんの主治医となったことは事実。もし何か身体に違和感等が有りましたらいつでも連絡してください。強大な魔力が覚醒した直後は、身体に不調が発生しやすいですから』
「そうなの?」
「そうなんですかね?」
『何故ヴェルサスさんも知らないのです???』
信じられないものを見る目をヴェルサスに向けるエリーゼ。
この時のネネカは知る由もないが、この世で魔法においてヴェルサスの右に出る者は本当に存在せず、当然その知識等もエリーゼやクルーベルのそれを掛け算したとして及ばない遥か高位の智慧を持つらしい。
そんなヴェルサスが、素でネネカと顔を見合わせ、首を傾げている。魔法関連……それも魔力に関して。
ネネカに合わせているのか、強すぎる自身の能力故に本当に知らなかったのか。
はたまた、遥か高位の智慧を持つが故に細部の理解が及んでいないのか。
どうあれ現在のきょとんとしたヴェルサスが、そう演じている風にはエリーゼには思えなかった。
『……まあ、いいです。それで、ネネカさんの身体についての懸念事項は有れども現在私に対処できることは有りませんし、皇城を介して領地の管理を少し行いたいので、本日は皇城に泊まろうかと思いまして』
「なーるほど。それでついでに報告書も有るなら、って」
ネネカの言葉にエリーゼがコクリと頷く。
確かに。ついでにこなして問題ない事ならば、任せるのも時には良いだろう。
そもそも最強だからと別に全てを一人でやる必要など無いのだから。
……まあ、現時点での問題は。
「……書くのめんどいんですけど。ネネカさん、代わりに書いてくれません?」
「私まだ文字もまともに覚えきれてないんですけど」
『お願いですから報告書の代筆は止めてください……』
報告書を書くべきヴェルサスが、出来る出来ない以前に面倒臭がっているのが最大の問題なのだが。
一応当事者という意味ではネネカが報告書を書いても問題は無いのだろうが、まだこの世界における何の立場もないネネカと十賢者という皇帝直属の組織に属するヴェルサスでは、直筆の書類の重要度が極めて異なる。
後に発生し得る面倒を予防するのならば今はヴェルサスが報告書を書くのが適任となるが、当のヴェルサスが心底嫌がっているのだから今は難しかろう。
「大体、毎日何枚書類書いてると思ってんですか私がぁ。他の方も書いてくださいよ。理者直轄管理の書類くらいさぁ」
「まあ……確かに最強とは名ばかりのデスクワークしてる姿しか見て無いけど」
『です……?……ああ、言葉から考えて卓上諸般作業の事でしょうか。短くていいですね。今後は私も使わせていただきます』
今か???と浮かびながらヴェルサスがエリーゼに呆れた視線を向ける。
新しい事に目が無いのは今まで通りだが、言葉すらも例外では無かったらしい。
とはいえ流石に多少空気は読んでほしいと思ったヴェルサスとネネカだったが。
「……はぁ。あとで書いて送ります。苦が有るわけでもないですし」
そう言ってヴェルサスはちらりと、仕事用の机に置かれた箱を見る。
ヴェルサスが日々用いている、生きたように動く作り物の小鳥が乗った投函箱を。
『……あの投函箱、消耗魔力にさえ目を瞑ればとても便利ですよね』
「気になるほどですかね?魔力の消耗」
『ヴェルサスさんほどの魔力でようやく問題ないと評せる魔力の消耗の時点で……』
はぁ、とエリーゼがため息交じりに投函箱に視線を向ける。
ネネカにはあの投函箱の仕組みなど分からない。精々、魔力を使って動く魔道具だということくらい。
というかヴェルサスも、普段使いしているとしても精密な仕組みまで把握しているとは考え難い。使えるのだからそれでいいと使っている可能性も大きい。
ただその上で今の会話から分かったことは、エリーゼの魔力ではまともに用いることは叶わないほどの魔力を消耗する、ということだ。
全く使えないわけではなさそうだが、少なくともヴェルサスレベルの普段使いは難しいのだろう。
便利な道具なだけに大前提が難しいのは、道具としてはまだ不完全と言えよう。
この試験用の魔道具満載の屋敷に据え置かれるだけは有るようだ。
『まあ分かりました。あれで対応できるのであれば問題ないでしょう。ただし、しっかりと直筆での報告書の提出をお願いします』
「流石の私もちゃんとしますよぅ。そも今回は相手が大物でしたし。下手にいちゃもんが付くよりか今真面目に書いた方がマシです」
『……動機がどうあれ書いてくださるのならいいです。ヴェルサスさん、本気で面倒臭がった時は本当に書きませんからね』
「嫌なことはやらない主義なので」
どこか自慢げにそう言ったヴェルサス。
エリーゼは『開き直らないでください』と呆れながら席を立つ。
『では、今日は私もこれで。ネネカさん、足のマッサージ等は不要かもしれませんが、念のため寝る前のストレッチ等は行ってください。あと、ヴェルサスさんの事を見張っておいてください。ヴェルサスさん、真面目に作業していたと思いきや、いきなりどこかへ飛び出して国一つ半壊させてきたことも有りますので』
「ストレッチは了解だし見張るのもいいけど、ただの災害過ぎない!?あとそれ見張ってたとして止めれる!?」
ワンチャンいけますワンチャン、とだけ言ってエリーゼはそのまま歩いて退出していく。
そうして部屋に残されたのは、ネネカとネネカに足を掴まれているヴェルサスのみ。
「……というか、国一つ半壊ってマジで?」
「マジです。と言っても、ぱーっと面白い事探して遊びに行ったらなんかものっそい襲撃受けたんで返り討ちにし続けていたら、というだけですけど」
「返り討ちにし続けた結果で国一つ半壊は尚更意味分かんないけど!?っていうかなんで襲撃したのその国!?」
「それはマジで知らんとです。まあ、私を倒して名声でも得たかったんじゃないですか?」
最強を倒す、という実績で得られる名声は確かに凄まじいものが有ろう。それはネネカも素直に認めた。
しかしその魅力に焦がれた果てに己の国が半壊しては元も子もなかろう。
流石にそんな愚行を国レベルで犯していないことを、ネネカは静かに名も知らぬ国に対して願った。
「それにしてもエリーゼさん、要件済んだらさっさと行っちゃったね」
「割と必要な事だけを行う要件人間ですからね、彼女。その要件が特に存在しない時や完全に手持無沙汰な時は自分の自由に動きますが、成さねばならないことが有るときはそれに忠実です」
「私と一緒に居る時もあんまりふざけなかったけど、そんなに忙しいの?」
「うーん……忙しいというよりか、必死なんですよ。十賢者にも一応……序列って言えるほどではないですが順番とか功績表みたいな……なんだろ。まあそんな感じのが有るんですが、彼女は実力に反して末席なので。国単位で責任を負うような何かあれば真っ先に切られる立場でもあるので、その維持のために」
どうやら彼女は彼女で、ヴェルサスとは異なる形で様々な事情に雁字搦めになっているようだ。
胸好きの彼女がネネカと二人でいる時ですらあまりふざけなかった辺り、相当な数と規模の事情に絡めとられ、そこで藻掻くのに必死のようだ。
割と初手の出会いが例外だったのかな、とネネカはふわふわと考える。
「あとは、まあ……彼女は優しいので。とても」
「……?」
「己より……幼いとも評せるほど若くして、そこまで異形の肉体と化しているネネカさんに、同情しつつ悲痛な思いを抱いたんじゃないでしょうか。そして、それに平然としているネネカさんにも複雑な感情を抱き……この場で、これ以上平然としていられなかったのでしょう」
ヴェルサスはエリーゼの座っていたソファを見ながらそう語る。
その視線にどんな感情が籠っているのか。
見えていても付き合いは短いネネカには、まだ分からなかった。
「というか皇城にも転移出来るのに、やらずにすたすたと早足で去って行った辺り、相当冷静ではないでしょうねえ。ま、それはさておき」
「さておきでいいのそれ」
「だって私たちにはどうにもできない事ですし。過去はどうでもいいなどと宣うつもりは無いですが、過去に思いを馳せすぎて今を疎かにしてはそれこそ未来を無駄にするだけ。私はさして気にせず、ネネカさんも特に気にしていないのなら、さておくのが最善でしょう」
「うーん、こっちはこっちで効率厨。まあ私的にも変に気を使われるよりか有難いけどさ」
はふう、とネネカは息を吐いてヴェルサスの足から手を離す。
ネネカの手から解放されたヴェルサスは、掴まれていた足を少しだけプラプラと動かしながらふわりとさらに浮き、天井に足を付けた。
「さて、と。ちゃっちゃと報告書を書いたら寝ますかねー」
「歯磨き」
「身体能力だけで魔法に並ばないでくれません???」
軽く跳躍してヴェルサスと同じく天井に足を付けたネネカは、にっこり笑ってヴェルサスの背後から彼女の肩に手を置いた。
振り向くことすら忘れて困惑も混ざった冷や汗を流すヴェルサスは、様々な諦めが籠ったため息交じりに呟いた。
なんでこの家にはイレギュラーばかり集まるんだか、と。




