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荒廃の大地より愛欲を込めて  作者: 蓮見燐
1章 最強と少女
29/44

28:耐えられると問題無いは異なる

『竜王様。件のヒトの子と付き添いたる淫魔の子を、連れて参りました』


 竜王の前に降り、ネネカとヴェルサスを降ろし。

 ルドラは竜王にそっと近づき、ネネカたちが此処へ来たことを知らせる。

 すると竜王はゆっくりとだが、その瞼を開いて視線をネネカたちへと向ける。


『……よう、来た……のう……ヒトの、子……よ……』


 しかしその視線も虚ろで、口より発せられる声もあまりに弱弱しかった。

 竜王だと分かるのは、その存在だけ。

 もはや内面はボロボロも良いところだろうと、声だけで分かった。

 それも当然だろう。一目見て分かるほど、呪いは酷いものだった。

 竜王の全身を穿つ杭も、全身を縛る鎖も、縫い付けられた先の地面も全てが極めて強い呪いだ。

 もしあれが一片でも人に触れようものなら、一瞬で身体が呪いで覆われ廃人と化すだろう。

 そうでなくても杭一つ一つが物理的な傷も与えているらしく、首や胸、翼に夥しい数の杭が刺さっており、刺さった杭から呪いでどす黒く染まった血が流れ続けている。

 意識を保てているだけ凄まじいと評せるほどの呪いが、此処にあった。


「……随分と執拗な呪いをかけたものですね」

『……左、様……も、う……動く、こ、と……も……』


 吐き捨てるヴェルサスの言葉に答える声も、掠れたものだった。

 尤もネネカにはそう聞こえるだけで、ヴェルサスには微かな呻き声にしか聞こえなかったようだが。


『竜王様。我が身体をお使いください。我が身体も呪いに侵された身。されどもネネカの尽力により、一時的とはいえ呪いを砕かれております。意思の疎通には支障を来さぬかと』

『……そ、な……』

『同時に、我も幾らか精神に余裕が出来ております。負荷が強くなる故、永遠に耐えることは出来ませぬが……一時的な代役は務められましょう』

『…………………………』


 ルドラの言葉に、深い沈黙の後ほんの微かにだが頷いた竜王。

 竜王は一度ネネカを見たのち、眠るように目を閉じる。

 同時にルドラも、数秒だけ目を伏せ……明らかにその身に纏う力の質を変えて目を開き、ネネカとヴェルサスへ向いてくる。


『ヒトの子らよ、済まぬなあ。本来は己の身体で話すのが竜でも礼儀というものだが、その余裕もなくてのう』


 と同時に、ネネカにだけ分かる明らかな口調の変化。

 ヴェルサスは、言葉は分からずとも違和感が有るのか、竜王の身体とルドラを交互に見ている。

 ネネカは現在のルドラがどういった状態か。何となくだが察しがついていた。


「もしかして、竜王様がルドラの身体を?」

『おお、おお。ほんに分かるとはのう。うむ。一時的なものだが、こやつの身体を借り受けておる。元の身体では、直接話すことも叶わぬでなあ』


 どういう魔法、いや生態なのだろうか。

 少なくとも本当に竜王がルドラの身体を使っているようだ。

 外見こそ変化はないが、言葉の分からぬヴェルサスにすらぱっと見の雰囲気だけで分かるほどの違い。

 言葉の理解できるネネカにはより深く、確信できる。

 眼前の、現在のルドラの身体を使っている存在は、ルドラではない、と。


『名乗る名もないが、一応は名乗っておくとしようか。我は風の竜王が一柱。其方らがサザンベルス山脈と呼ぶこの山に住む風竜、その全てを統べる存在である』


 風の竜王。その一柱。

 肉体が本人のものではないとはいえ、感じる圧倒的な存在感はその称号が決して伊達ではないと分かる。

 どれだけ呪いで衰弱していようとも、その精神だけであったとしても、ネネカ程度ならば眼光一つでも射殺せるであろう。

 紛れもない、竜の王という称号を持つにふさわしい存在がそこに在った。


『其方らの話は聞いておる。我が側近……ルドラ、と名を与えられたのだったな。我が最も信頼する四柱の風竜。その筆頭が信用と信頼を持って受け入れ、他三柱も認めた者』

「……テレパシー的な奴で聞いてた感じ?」

『てれぱしい、というのは分からんが……我ら風竜は同じ部族の者同士であれば、意識だけで顔を合わせずとも会話を交わすことが出来るでな』


 つまるところ、ルドラとの会話は竜王を含む他の同族にも伝わっている、ということのようだ。

 ルドラの言っていた我らというのはそういうことなのだろう。

 恐らくすべての情報を共有しているわけではないだろう。主な情報を、主な者たちには共有されている、といったところか。


「じゃあ……」

『うむ。其方のことは我も信じよう。故に其方も我らをルドラと同様に信じるがよい。……と言っても、お前さんからは難しいか?』


 竜王を信じるか否か。

 流石にルドラと同様にとはいかない。なんだかんだルドラとネネカはテイムの関係だ。様々共有されておれども、そこが同じでないのなら別だ。

 しかしネネカ個人としては。


「んー。別に普通に信じられるかなあ」

『軽いのう。良いのか?我らは其方らヒトにとっては恐ろしかろう?』


 竜王の言う通り、恐ろしい存在ではある。

 まして竜王ともなれば、通常ならば恐怖だけで済めば御の字というものだろう。

 ヴェルサスたちのような力において竜を遥かに上回る存在は恐れる必要もなかろうが、ネネカのような竜の一睨みで消し飛ばされかねない存在からすれば、竜王は恐れるしかない存在だ。


「まー……全く怖くないって言ったら噓にはなるよ?今だってヴェルサスちゃんが居るから大丈夫ってだけだし」

『ほう』

「けどそれはそれとして、助けられるなら助けたいよね、って」


 ネネカとて恐れを感じていないわけではない。生物として生に執着は相応にあるし、それを容易く脅かす竜に対する恐れも確かにある。

 だがネネカにとっては、それはそれでしかなかった。


『……ふぅむ。それは……そこな淫魔の子に命じられたが故か?』

「?ううん?命じられてはいないよ。お願いはされたけど」

『ほーう?では何故じゃ?』

「私がそうしたいからだけど」


 ネネカは言い淀むことも迷うこともなく、はっきりと自分の意思を告げる。

 その言葉に竜王は一瞬呆け、背後のヴェルサスは肩を竦める気配がする。


『……く、かかかかか!!!成程、成程!!!ルドラ、お前が面白いと言うわけよのう!!!異世界というのも、中々に面白そうなことじゃて!!!』


 竜王は心底楽しそうに、咆哮のような笑い声をあげる。

 ネネカは言葉として聞き取れるため問題ないが、背後のヴェルサスはそれを五月蠅そうに耳を抑えている辺り、言葉として聞き取れなければ中々の音量となっているようだ。

 まあこの空間が屋外ではなく、ドーム状の空間ゆえに音が反響しているのかもしれないが。


『フゥー……そうさなぁ。純粋な若者に、老いぼれが下手に口を出すは喜ばしいことではなかろう。そこな淫魔の子も問うべきことは分かっているようであるし、ヒトの事はヒトに任せるがよいかの』


 竜王はヴェルサスをちらりと見ながら、そう語った。

 ヴェルサスは耳を塞ぎながら軽く首を傾げている。おそらく何を言われたかも聞き取れていないだろう。そもそも言葉を理解できないであろうが。

 ネネカはヴェルサスに、耳から手を離すようジェスチャーで伝え、竜王の精神が入ったルドラに向き直る。

 背後で微かに衣擦れの音がしたので、ちゃんと手は離したらしい。


「私のことは何でもいいけど、とりあえず解呪したいからテイムしていい?……っていうかテイムしないとダメなんだよね?」

「先ほどのルドラさんの状況を見る限りはそうですね」

「ってことらしいので」


 ネネカの問いに、竜王はルドラの身体で軽くふむと唸った後。


『まあ……解呪のためならば仕方あるまいが……我が知る限りそのテイムとやらはヒトの隷属技術と同じと記憶して居るが、問題は無いのか?』

「え?隷属……?」

「何がです?」


 あまり聞きたくない単語が聞こえた気がして、思わずヴェルサスにそのまま問いかける。

 竜王の言葉を伝えられたヴェルサスは少し首を傾げ、うーん、と疑問そうに唸る。


「……もしその隷属技術というのが隷属の枷の事を言うのなら……あれは欠陥品でしかありませんし、製法も失われて久しいはずなのですが……」

「隷属の枷って?」

「二百年ほど前にウルグリム大陸の西部に存在していた、装着した生物を特定の存在に隷属させる呪いの道具です。ある意味魔道具ですね。私も細部は知りませんが大まかには確か……侵略した国の人々を従わせる目的で作られたとか……あれ、魔獣を従わせようとした奴の失敗作だったかな。本当に私も大雑把にしか知らないんです」


 従わせる目的の魔道具。

 戦争ばかりのこの大陸だ。そういった技術も時には必要なのだろう。

 必要であったとしても、あまり在ってほしくないと思う代物ではあるが。


「ただコレ……人間種にしか効果がないのと、魔力を覚醒させた存在には効果がない上に高い魔力持ちに着けた場合は主に隷属の呪いが逆流するそうで。単に逆流するだけならまだしも、逆流で魔力まで流れ込むこともあって、その場合は問答無用で内側からドカンだとか」

「欠陥品過ぎる」

「あと用途もそうですが製法があまりにも倫理的に問題がありすぎて、当時のウルグリム大陸の環境ですら相当の批難を浴びたらしく。結果、隷属の枷を開発及び使用していた国は滅ぼされ、隷属の枷は一つ残らず破壊。隷属の枷を用いたとされる者だけでなく、用いたと噂される者までも全てが処刑され。開発者や開発に僅かでも関わった方々も当然のように全員処刑。そうして製法も完全に焼き払われ、失われたと言われています」

「魔女狩りかな?」


 ウルグリム大陸は戦争の大陸。

 戦時中においては、様々な通常ではグレーやブラックなものが合法として扱われることもある。この世界でもそれは同じだろう。

 仕方のないことだ。それが戦争というもの故に。

 しかしそんな状況下でさえ相当な批難を集め、絶対的かつ徹底的な破棄が行われた代物。

 一体どんな代物だったのか。使ってみたいとは微塵も思わないが、気になってしまうのは仕方のないことだった。


「私も正直、隷属の枷については詳しく知らないんですよね。興味もないですし。……ただとりあえず現時点で重要なこととして確実に言えるのは、テイム技術は隷属技術ではないです」


 ヴェルサスははっきりと、そう断言する。

 自分がテイマーのクラスを有しているわけでもないのに、明確に。


「テイムには強制力が有りません。アニマルテイマーでもモンスターテイマーでも、相互で了承している場合のみテイム関係となり、相互で了承した場合のみテイム関係の解消も叶います。この関係に、如何な強制力も発生した前例はありません」

「そうなの?私とルドラは……」

「ネネカさんとルドラさんの場合は……まあ解呪のテスト等の事情故でもありますが、最低でも双方にテイム関係に対して前向きなものはありました。恐らくそれが相互の明確な了承としてテイム能力に認識され、その後ネネカさんがルドラさんに許可を取って名付けを行ったことでテイム条件が満たされ、テイム関係となったのでしょう」


 殆ど推測ですが、と付け加えたヴェルサス。それを聞き唸るネネカと竜王。

 確かにネネカとルドラのテイム関係の諸々において、一切の強制力が働いた場面はなかった。

 まあ呪いによって急かされていたという点は双方にある種の強制力が有ったと言えるかもしれないが、少なくとも純粋なテイムに関する事象においては了承したもののみ。強制したものはない。


「他者に隷属を強いるような……強制力を発生させるものは祝福か呪詛のみ。テイムは他者を隷属させる類のものではありません。少なくとも前例は一切無いとは言わせていただきます」

『ふぅむ。ルドラの話でも強制力は発生していないよう。……であれば一先ずの問題は無い、か』


 竜王は一つ頷いた。

 どうやらテイム関係に関して、隷属技術とは異なると認めたようである。

 そして同時に、竜王が隷属技術と同じと考えた理由について察してしまったネネカ。


「……ねえ。その、隷属の枷の製法というか素材ってまさか……」

「ネネカさん。世の中には、考え至らないほうが幸せなこともあるものです。……私も思い至ってしまいましたけども」


 なぜ隷属技術とテイムを結び付けたのか。呪詛によって同族が操られているも同然な中で、呪詛ではなく隷属技術と結び付けたのか。

 その答えは……まず間違いなく、考え至らないほうが幸せなことではあろう。

 まして当時かつこの大陸ですら倫理的に問題があるとされる技術。知る不幸の方が遥かに大きかろう。

 まあその知る不幸に至ってしまったのが、ネネカとヴェルサスなのだが。


「……も、いいや。じゃあ……良いんだよね?テイムして」

『そうじゃなあ。まあいずれにせよこのままでは我が身、我が魂は呪いによって朽ちるのみ。其方らの、思うがままにするがよいわ』


 竜王もテイムを認めたようだ。

 正確には認めたというより、呪いによって朽ちるよりはと半ば諦めの境地な気がしなくもないが。


「じゃあまず名付け……でいいのかな。前例がルドラだけだからこれで出来るのか分かんないけど」

「……冷静に考えなくても竜をテイムするってとんでもねー事やってんなー……しかも二頭目で竜王とか……」


 背後のヴェルサスがどこか現実逃避気味の言葉を呟く。

 恐らく遠い目にでもなっているのだろうが、現状の打破を優先すべきと考えネネカはそちらに関しては深くは考えないことにした。


「うーん……風……王……竜……何がいいかな」

『……余程の名でなければ構わんぞ?』

「いや。折角なら偉大な名前とか格好良い名前付けたい。せめて凄そうな意味が籠った名前付けたい」


 凝り性だのお、とどこか呑気な竜王の呟きじみた唸り声が聞こえてくる。

 別にネネカは凝り性という訳ではないが、折角の竜王に対する名付けだ。下手な名は付けたくないと考えていた。

 ネネカは全力で元の世界の創作物等の記憶から、様々な風に関する事象を引き出していく。

 中々の数を見聞きしてきたために、そのレパートリーは決して少なくないが……竜王に相応しい名となると流石にその候補も圧倒的に少ないものとなる。むしろ候補が多いゆえに、その絞り込みすらも困ってしまっていた。

 そうして悩むこと一分ほど。


「……ん。エンリル、で」


 ルドラと同じく、結局元の世界の創作物から名を持ってきた。


『えんりる……中々に良い響きだの』

「意味は何です?随分と悩んでおられましたが」


 竜王はその響きを単純に気に入り、ヴェルサスは名の意味が気になったらしい。

 元の世界ですら、大本の伝承そのものは失われたもの。こちらの世界にこういった名が存在しているとは考えにくく、そうなれば名の意味が気になるのは当然であろう。


「オリジナルの……あのー、伝承……あれ神話だったかな。まあいいや。そっちは分かんないけど」

「あなたの世界色んなものが失伝していますね」

「何千年前のって奴だからね。……で、創作物の中での意味だけど」


 元の世界の創作物では、同じ名前を用いる創作物は様々あった。

 当然創作物ごとに世界観は異なり、世界観が異なれば名前の意味や用いられ方も異なった。

 故にこのエンリルという名にも、良い意味と悪い意味がそれぞれの作品によって込められていたが……敢えてここで悪い意味を言う必要はない。

 ので、ネネカは素直に、エンリルという名に与えられた良い意味を伝える。


「天を統べる者、嵐の王、翡翠の風、黎明の翼。他にも色々あるけど、総じて風に関して最も強い存在を意味するかな」


 大本の、オリジナルのエンリルという名を持つ存在がどういった存在であったのか。

 ネネカは本当に曖昧な形でしか知らない。その曖昧な形も、エンリルという名の存在が登場する伝承のようなものがあった、という程度。

 しかしこうも風に関する逸話を後の創作物ではあれど与えられ続けている辺り、風の神か何かなのだろうと考える。

 仮に風の神だったとして。神の名を、伝承や創作物によっては神に仇成す存在である竜に与える。

 中々に冒涜的なことをしているのかも、とネネカは考えたが。


『嵐の王……翡翠の風……うむ、良いな。良い。流石は異世界の者、良い名と良い意味を与えてくれるではないか!』

「言葉は分かんないけどかなーり喜んでるのは分かりますねー」


 この上なく満足気に頷いている竜王と、その様子を見てもはや色々通り越して面倒臭そうにしているだけのヴェルサスを見て。

 冒涜的だのと考えている自分がなんだか馬鹿みたいに思えて、ネネカはそこに関してこれ以上考えるのはやめた。


『うむ、うむ!我はこれよりエンリル!嵐の王、エンリルである!』

「めっさ喜んでそう。ちなみに普通に単語としてしか知らないのですが、黎明ってどんな意味なんです?ついでに元の奴だとどんなだったかも」

「意味が同じか分からないけど、夜明けとかそういう意味。黎明の翼は意訳すると、夜明けに日の光を浴びている巨大な翼の事を言うかな。元の奴だと黎明の翼は、日の光に照らされて黄金に光り輝いて空を舞う、希望の象徴とかそういう感じ」

『付け加えよう!黎明の翼、エンリルである!いやはや、年老いても良いものは良いなあ!』


 竜王エンリルはたいそうご機嫌であった。

 言葉の分からぬヴェルサスにも察せられるほど、物凄く楽しそうにしている竜王。

 本当に呪いに侵されて大変な身なのか若干怪しんだところで……


「っ!?」


 ネネカは、エンリルと何かが繋がった気配がした。

 しかしそれはルドラの時のように、ただ繋がっただけではない。

 繋がりを介して、何かが己を相当苛烈に蝕もうとしているような感覚。

 否。ような、ではなく、実際に蝕もうとしているのだろう。


「……ヴェ、ル……サス、ちゃん」

「?どうしま……チッ、呪い……テイムの繋がりを介して逆流するか……!」


 顔色の悪いネネカを見て即座に状況を把握したらしいヴェルサス。

 ヴェルサスはすぐにネネカに触れ、自身の浄化魔法を発動させる。

 が。


「やはり効果は薄い、か。当然ですね。流れ込み続けているのを浄化し続けているだけですし、根本的な解決には決して及ばない」


 ヴェルサスの言う通り、気休めにしかならない。

 ネネカにテイムを介して流れ込んでいるのは、竜王エンリルの肉体及び魂に打ち込まれた呪い。

 状況だけで言えば、ルドラたちと同じだ。竜王エンリルとの繋がりを介して流れ込む呪い。その枠に、ネネカも加えられたというだけに過ぎない。

 が。人類よりも遥かに強靭な竜種を以ってしても抗いきるのが至難の業な此度の呪い。ネネカが如何に相当な魔力を有していても、その襲い来る不快感はどうしようもないのだった。


「だい、じょう、ぶ。のろ、わ、れては……」

「分かっています。ネネカさん自身に呪いは届いていない、ネネカさんの魔力で余裕をもって防げています。ただネネカさんの心身を覆う形で呪いが纏わりついている。……随分と執拗な呪いをやってくれたものですね。まあ竜を呪うほどなのだし当然か」


 魔法にまだ疎いネネカでも分かる。

 呪いは確かにテイムを介してネネカへと逆流している。が、ネネカには全くと言っていいほどその呪いは機能していない。

 散々言われていた自身の魔力による魔法への抵抗。竜を呪う呪詛すらも弾く自身の魔力に、改めて軽く己のことながら引いたネネカ。

 しかし余裕はない。呪いに対しては問題なくとも、不快感は壮絶だった。

 現在のネネカの感覚を例えるのなら、膨大な寄生虫の湖に身を示させられているような感覚だった。

 寄生虫という名の呪詛が体内に入ってくることはない。魔力という名の万全な防護服がある故に。

 だが如何に防護服で防げているとはいえ、寄生虫の湖に身体を埋めて平気な者は少ない。安全というだけで、不快感は相当なものであった。


「竜王……いや、ルドラは……駄目か。多分ネネカさんを介してテイム状態にあるルドラの肉体にも多重で呪いが行ってるな……?」


 ヴェルサスの言葉で、ちらりとルドラを見る。

 先ほどまで普通にこちらを見下ろせていたルドラの肉体は、竜王の本体と同様に地に伏せ、苦しそうに息を吐いていた。

 こちらを認識できてはいる。が、己で喋る余裕はまるでなさそうだ。


「……干渉はしないつもりでしたが、状況が状況故に私がこの場を仕切ります」


 ふぅ、と一つ溜息を吐いたヴェルサスは、ネネカに浄化魔法を使い続けながら竜王エンリルとルドラを視界に収めながらそう言った。

 竜王エンリルとルドラも、ネネカとヴェルサスを確かに視界に収め、ヴェルサスの言葉に微かに頷いた。


「まず現状ですが、ネネカさんが竜王にエンリルと名付け竜王がそれを受け入れたことにより、ネネカさんと竜王エンリルがテイム関係にあります。その結果、呪われている竜王エンリルよりテイム関係を介して、ネネカさんに膨大な呪いが流れ込んでいる。ネネカさんの魔力により呪い自体は防げていますが、竜……それも竜王を呪っていた呪い。人の身には、害そのものを防げても相当な負荷があります」


 テイムを介しての呪いの伝染。

 想定そのものはしていた。竜を呪うほどなのだから、そういうことも発生するだろう、と。

 呪いが想定以上に強力で、呪いを防いでなお害を齎しているというだけで。


「ので、早急に竜王エンリルの解呪を進めます。私がネネカさんを、竜王エンリルの本体に触れるところに運びますので、ネネカさんはそこで竜王エンリルに直接触れて浄化魔法を。ネネカさんやルドラに流れ込んでいる呪いはあくまで竜王エンリルとの縁を通じ流れ込み続けているが故のもの。であるのならば、現在のネネカさんの状況や他の風竜の呪いも、竜王エンリルの呪いを解呪することで軽減もしくは解消されましょう」


 時間が惜しいので行きます、とヴェルサスはネネカに一言断りを入れ、ネネカを抱える。

 抱えると同時、ヴェルサスとネネカの周囲に透明な壁が発生し、ふわりと浮かび上がる。

 ヴェルサスはそのまま竜王エンリルの肉体へと、ふわふわと近付き。


「……地面、よりかは身体の上のがまだマシか」


 ネネカを、竜王エンリルの身体の、頭の上へと降ろす。


「っ、ふぅ……!?」


 同時にネネカへ襲い来る、先ほどまでの呪いが塵芥の如き、怒涛の呪いの奔流。

 勿論ネネカの魔力で自動的に防がれているし、ヴェルサスの浄化魔法も発動し続けている。

 それでも感じてしまう、途轍もない怖気。


「ネネカさん、浄化魔法を。今新たに感じている呪いは、身体の表面より伝ってきているもの。竜王エンリルの身体に手を触れて浄化魔法を用いれば、必然的に自身へ流れ込んでくる呪いも軽減されます」

「じ、め……」

「地面は駄目です。竜王エンリルの身体の上なら、竜王エンリルの解呪を始めれば必然的に流れてくる量も減りますが、地面では竜王エンリルの身体とは別口で足から呪いが染み渡ってきてしまいます。魔力で呪いを弾けるからって、呪い耐性の有る衣服でもなく自身で精密な結界も展開できないのに呪いの海に飛び込むなど自殺行為ですよ」


 あれに降りれます?とヴェルサスが視線で示した先は、竜王エンリルの身体の真下。

 竜王エンリルの身体より様々な形で漏れ出た呪いが地面に広がり、どす黒く染めるどころかブクブクと不気味に泡立っていた。

 成程。確かにあれに降りるのは自殺行為だろう。

 ネネカは竜王エンリルの身体に、半ば崩れ落ちながらも手を触れ。


「っ……」

「堪えて。大丈夫、魔力で弾けています。単なる音と現象だけです」


 手を触れた場所からブクブクボコボコと泡立ってくるどす黒いナニカ。

 見る限り手の触れた場所には地面のような呪いの塊のようなものはなかったのに。

 否。竜王エンリルの身体が、それだけ呪われてしまっているということなのだろう。

 気づけば、ネネカの履いているヴェルサスから貰った靴は呪いでどす黒く染まり朽ち始めており、着ている衣服も裾の部分からどす黒い液体のようなものが滴り落ちている。

 こちらであっても、あまり猶予はなさそうだ。

 ネネカは呪いを振り切る目的もかねて、浄化魔法のために精神を集中し始める。


「あとネネカさん。可能でしたら、完全に解呪しきるまで触れ続けて浄化魔法を使い続けてください。継続使用できるようだったらそのように。途切れるようでしたら連続で行使するように」


 注文が多いな、とネネカは内心で僅かに愚痴を零すが、ヴェルサスの事だ。何か考えがあるのだろう。

 ましてどう考えても普通の解呪ではない現状。ヴェルサスも手探りの部分はあるだろうし、手探りの中でヴェルサスが確実に対処できる範囲を見極めてもいるのだろう。

 ネネカは静かに、浄化魔法を使い始めた。


「……気休め、程度だけど……」

「楽になりました?」

「……喋るのに、支障がない程度には」


 例えるのなら、先ほどまで寄生虫の湖に沈んでいたのが、水面に浮かび上がれたというところ。

 未だ寄生虫の湖に浸かっているのは変わりないが、右も左も上も下も前も後ろも覆われているよりかは、まだマシな状況とはなった。

 まあそれも、未だにヴェルサスが浄化魔法をネネカに使い続けてくれている現状があるため、それが解除されたらまた沈んでいく可能性はあるのだが。


「それで、どうですか?解呪の状況は」

「……止めるので精一杯、っていう感じがある」


 ネネカは魔法についてはまだ詳しくない。ある程度教わっているとはいえ、あくまで基礎の基礎。この世界の人類ならば知っていて当然の事ばかり。

 故にこれは、あくまで自分が浄化魔法を行使しているが故の、感覚的なものに過ぎない。

 過ぎない、が。

 傍から見ても、浄化魔法で確かに竜王エンリルの身体はルドラに浄化魔法を用いた際と同様に淡い光を放ってはいるものの。

 確実に呪いの具現たる、竜王エンリルの身体に刺さっているどす黒い杭や、身体を縛る漆黒の鎖、どす黒く染まった地面にはなんの効果も発揮しておらず、竜王エンリルの身体自体も特別癒されている感覚はない。


「……相当な呪いですね。流石は、といったところ。……喜ばしい事ではないですが」


 ヴェルサスはため息交じりに、近くの竜王エンリルの身体に刺さっている杭や縛っている鎖を見て。


「……少し手を離します。私の浄化も確実に切れますが、恐らく問題はありません。問題が発生しても対処できますのでご安心を」


 それだけ言って、ヴェルサスはネネカの身体から手を離す。

 同時に増してくる呪いの奔流。

 とはいえネネカも浄化魔法を使い続けているために、流れ込んでくる呪いは竜王エンリルをテイムした時よりも控えめだ。まだ余裕はある。

 そして当のヴェルサスは。


「とーう!」


 竜王エンリルの身体に突き刺さった杭の一本に、思いっきり蹴りを入れていた。

 絵面だけならば幼女が可愛らしい掛け声と同時にドロップキックを入れている中々可愛らしい絵面なのだが、ドロップキックのためのスピードが容易く残像が残るほどであったし、杭に直撃した時の周囲へ響き渡る音と衝撃が大きすぎて、とてもではないが可愛い光景とは思えなかった。

 何しろ、未だにヴェルサスの展開した結界に守られているネネカは微塵も問題は無かったが、竜王エンリルの巨体が僅かに揺るがされたし、なんだったら呪いを何とか耐えて起き上がろうとしていたルドラは軽く吹き飛ばされて咄嗟に足の鉤爪で地面を掴んでいるのだから。


「かってーですねコレ」


 そう言ってもう一度蹴りをぶち込んだヴェルサス。

 勢いは先ほどと比べて控えめなのに、響き渡る衝撃は先ほど以上なのは、とりあえず考えないことにしたネネカたちであった。


「……あのー、色々聞きたいことはあるけど、とりあえずは何してんの?」

「んやー。この杭とかが呪いを生み出してるんで、壊せないかなあ、と」

「壊せるものなの?こういうのって」

「基本的には壊せますよ。こういう呪詛が凝り固まって具現化した杭とか鎖って呪具って言うんですが、どれだけ呪いが凝り固まったものだとしても物質化されているのなら壊すことで呪いも消し去ることが出来るんです」


 消えない呪いもありますが、と言ってさらにもう一発蹴りをぶち込んだヴェルサス。

 しかし呪具の杭は、ヒビ一つ入っているようには見えなかった。


「ただまあ……今回のは結構硬いですね。相当な呪詛が凝り固まったようで。それがこの数で、しかも鎖もあって地面には呪詛の魔法陣……私もこれほどの呪いは初めて見たかもしれません」

「ヴェルサスちゃんでも壊せないの?っていうか浄化魔法をそれに使うんじゃダメなの?」

「物理的に壊せないわけではないです。ただこの硬さから察するに、これを破壊出来るほどの攻撃となると、余波で確実にここが崩落しますね。一本や二本ならワンチャンありましたけど、軽く見て二十本はぶっ刺さっちゃってますし。安全的に使えませんね。あと浄化魔法は生物にしか効かないんです。例外はあるかもしれませんが、少なくとも私は生物以外に効いた例は見たことないですね」


 今度は杭を思いきり蹴り上げている。

 空中というメリットを存分に活かした体術を使うんだなあ、とネネカは現実逃避気味に思った。


「抜けそうもないですし……仕方ない」


 ヴェルサスはため息を一つ吐いて、呪具の杭に触れる。

 その後数秒ほど何かを考えるように唸り、呪具の鎖にも触れる。


「……よし。ネネカさん。私が今からこの呪具を破壊します。ネネカさんは浄化魔法を使い続けて、ルドラと竜王エンリルはひたすら耐えてください」

「……要は、私たちは現状維持?」

「今は。あ、破壊すると言っても、杭と鎖を一度に纏めて破壊しますので、破壊中に呪いが薄れるとかは無いです。ので、とにかく耐えてください」


 要するにネネカたちが現状維持で問題ないようだ。

 何をやって破壊するのかは分からないが、とりあえず呪いの根源そのものの破壊はヴェルサスに任せて問題なさそうだとネネカたちは揃って考えて。


「どうしよ、放電したいけど放電したら被害拡大しますよね」

「あのー、不穏十割の呟きやめてくれない???」

『ほ、放電、が……解呪の、なにに……』

「雷系の魔法って光属性なので。呪詛は闇属性なので、相克で破壊しやすいんですよ。周囲に生物居ないときは結構やるんですが……やめといたほうがいいですかね?」


 確認するようにネネカたちを見てくるヴェルサス。

 ネネカもルドラも、ルドラの内から覗いている竜王エンリルも、揃って気持ちは同じだった。

 頼むからやめてくれ、と。


「仕方ない。じゃーまー、普通にかき消しますかね」


 そう言うと、明確な変化が発生し始めた。

 ヴェルサスが触れている杭と鎖が、触れている場所から少しずつ白く変わっていく。

 染み渡るように、少しずつではあるが変わっていく。


「……何をやってるの?それ」

「呪具として凝り固まった呪詛を分解して、ただの呪詛に戻す作業です。単なる呪詛であれば解呪は従来と変わりませんので、解呪魔法もしくは浄化魔法で解呪できます」


 呪具を呪詛に戻す作業。

 それは硬くて重い氷を溶かして、水にするようなものなのだろう。

 氷は除去できないが水は除去する手段があるのなら、その方がいいのは確かだ。

 気になる点は。


「それ、さ。呪具を分解したら呪詛になるって、呪詛がやばいことにならない?」

「一時的ですがなりますね。まあ頑張ってください」

「他人事!!!」


 思わずネネカはツッコみ、かろうじて起き上がっていたルドラは絶句していた。恐らく竜王エンリルも同様だろう。

 冷静に考えた場合それしかないのは分かる。呪詛を消し去るための解呪手段はネネカの浄化魔法が存在しているが、呪具を消し去る手段は現時点で存在していない。

 呪具自体を直接粉砕しようにも、この場で出せるヴェルサスの力には限界があり、その力では粉砕は難しく、効率的な破壊手段である光属性による破壊も竜王エンリルへの負担が凄まじすぎるために非推奨。

 となればどうにかして呪具を消し去り、呪詛を消す。それに尽きる事になり、その点において呪具を分解して呪詛に戻すというのは効率的ではある。

 が。当然呪具を分解した際に呪詛は溢れてくるわけで。

 その呪詛によって明確に被害を追うのは、風竜たちとテイム主であるネネカなわけで。


「あのー……もうちょっとこう、少しずつ砕いてって浄化する、とかは出来ないの?」

「できなくは無いですが、ぶっちゃけ苦しみ自体は瞬間的なものとさほど変わりませんし、それが長く続くので人によってはこちらのがより辛いかと。あと漏れ出る呪いで環境汚染やばいことになって、最悪サザンベルス山脈消し飛ばさないといけなくなるので」


 瞬間的な苦しみか、長く続く苦しみと周辺環境への配慮の結果、前者を取ったらしい。

 ネネカや風竜たちも納得する。

 納得はする、が。


「せめて一言断りは入れてよ……」

「知らないほうが幸せなこともあるものですよ」

「後から苦しみが襲ってくることを考えたらどっちがいいんだろうなー」


 人それぞれだろう。


『ぐ、ぬ……ふう、ようやく肉体を制御し終えたわ……』

「あ、エンリル……じゃない、ルドラか。大丈夫?」


 そこでルドラが、己の身体を起き上がらせ、よたよたと歩いてくる。

 その足取りは遅く、身体も起き上がってはいるもののふらふらしていて、とてもではないが万全とは言えない状態だと分かる。


『うむ。……いや、あまり大丈夫ではないな……』


 ヴェルサスの呪具への攻撃の余波で軽く吹っ飛ばされていたルドラは、なんとか竜王エンリルの身体の近くまでやってくる。

 とはいえ竜王エンリルの身体の付近は呪いの海。流石にそこに踏み出すことはなく、その手前で足を止め、そのまま地面にぐったりと伏せた。


『済まんが、楽な体勢で居させてもらう。中々どうして、呪いも多重で襲い掛かるとキツイものがあるな……』

「全然楽にしていいと思うよ」

『正直助かる。……ところで、其方は大丈夫か?竜をも苦しめる呪い。人の身では、防げていても苦しかろう』


 ルドラの問いに、どう答えたものか迷ってしまうネネカ。

 別に苦しくないわけではない。今も流れ込んでくる呪いは健在で、それによる不快感は相当なものだ。

 だが別に実害が発生しているわけではない。身体は動くし、意識もはっきりしている。苦痛もないし、魔法も使える。

 ただ永遠に、全身の肌の上にウジ虫が引っ付いているような。寄生虫がうじゃうじゃと蠢いているような。

 そんな不快感が心身共に襲い続けているだけだ。

 それも当然呪い故の苦しみではあるのだろうが、呪いを直接受けている竜王エンリルや呪いが流れ込んでいるルドラの苦痛は、ネネカの比ではないだろう。

 故にルドラの問いに、苦しんでいると答えることは出来ても、自分以上に苦しんでいる竜王エンリルやルドラの前でこの程度で苦しんでいると肯定するのも、気恥ずかしいわけではないが違う気がしたのだ。

 ルドラは微妙に悩むネネカの意思を何となく察したらしく、フッと笑う。


『我らの事は気にするでないわ。我らとて、ヒトの子と我ら竜で身体の強さの違いは理解して居る。ヒトの子は我らより弱い。故に我ら竜と同じ呪いでも、ヒトの子であるだけで其方の苦痛は我らより激しかろう。ヒトの子はヒトの子の、其方は其方の苦痛を苦しんでよいのだ』


 実際、ルドラの言う通りであろう。

 まだこの世界にきて日が浅く、呪いに関しても知識の疎いネネカでも分かるほどに、この呪いは普通の呪いではない。

 そもそもヴェルサスが、これほどの呪いは初めて見た、と言っているのだ。

 人類種よりも遥かに強靭な肉体を持つ竜種を呪い、最強たるヴェルサスが驚くほどの呪い。とても普通とは言えまい。


『……まあ、理解して居ると言っても、あくまで我らの基準で理解しているだけ故に、正確な理解は出来ておらぬだろうがなあ。そればかりは種の違い故、どうしようもなかろうよ』

「同種、同族ですら考えが違って当然だから、別種で完全な理解が難しいのは仕方ないよ」

『想像以上に達観しとるな其方。で、問題は無いか?』


 達観しているように見えるのは、元の世界で色々あったのもあるが、異世界云々で色々疲れて様々なことに諦めが付いているだけでもある。

 まあそれを差し引いても元々落ち着いている方ではあるのかもしれないが。


「呪いで直接身体が辛いとかは無いから大丈夫。不快さが主なだけ」

『不快、か。それは我らも微かに感じているが……ヒトの子なれば、その不快感もすさまじいものであろうな……』

「まあ中々来るものはあるけど。けどもっとやばいのとか、見るだけで発狂しかけるものも見たことはあるから、まだ大丈夫。……流石にこういう体験はしたことないから怯んじゃったし、何度も体験したいものじゃないけど」

『……いや、まあ、大丈夫ならば良いが……お主一体どんな経験をして来とる……』


 色々、とだけ苦笑いで答えた。

 こちらの世界と元の世界で常識は違う。世界の法則も違う。故に繰り広げられる楽園と地獄も異なる。

 ただまあ、この一週間でこの世界の平和というものをある程度理解して、確実に言えることがある。

 ネネカの元居た世界は、残酷な世界だ、と。

 直接大変な世界だと言えるのはこちらだろう。何百年も続いた戦争の大地、魔獣という脅威……その傷跡も含めて、こちらの方が過酷で大変な世界だ。元の世界では、少なくとも戦争のような大勢死ぬ出来事は、ネネカの知る範囲では発生していなかった故に。

 だが様々含めて生きる上で大変なのは、ネネカの元居た世界だとネネカは断言できる。

 戦争は無かった。平和ではあった。だがその平和を維持する上で様々が犠牲になっていた。

 生物の骨を使って莫大な発電を行う装置があった。最も発電量が優れていたのは、人間の生後半年以内の赤子の頭蓋骨だった。当然数多使われていた。

 あらゆる生物を最も健康な状態に治す薬があった。生産にはある薬品を投与された人間の夫婦から生まれた赤子が必要だった。そのための人間の繁殖場が作られた。

 他にも様々あった。少女の首から上だけを生かしたままコレクションする知事。死んでいるのに自分の意のままに動く傀儡を生み出す道化師。暇潰しで目に見える全ての男性を縦に生きたまま裂く音楽家。

 戦争は無かった。だが戦争と変わらないほど人が死ぬ地獄があった。

 平和はあった。平和を維持する上で凄まじい数の人々が死んでいった。

 戦争と魔獣によって誰でも平気で死んでいくこの世界と、生きようと思えば誰でも生きられるがそのために少なくない数の犠牲が必要になる元の世界。

 どちらが良い世界とするかは人それぞれだろうと、ネネカは考えている。


「まあとにかく今は大丈夫。この後呪いが一気に強く襲い掛かってくるみたいだけど……っていうか、エンリルは大丈夫?」

『エンリル様は其方が魔法で抑えてくれているおかげで、今は落ち着いている。ただ呪いで疲弊もしておるし、元より他の竜の肉体を使うのはあまり褒められたことではない故な。今は襲い来るであろう強力な呪いに備えて少しでも英気を養うべきとし、休んでおられる』

「そうなんだ。まあ無事なら一旦は大丈夫か」

「休んでいるのも良い事ですね。まず間違いなくこの後襲い来る呪いは今感じている呪いの比ではないでしょう。結局は呪われている張本人であるエンリルと、解呪するネネカさんの気力勝負。今は存分に、精神だけでも休むのが最善です」


 やはり最終的にはエンリルとネネカ次第らしい。

 エンリルが出来る限り耐え、耐えている間にネネカが解呪する。

 至ってシンプルだが……エンリルを介してネネカにも呪いが移ってくることを考えると、ネネカにも中々に恐ろしいものがあった。


「あと今竜王エンリルから流れ込んでいる呪い自体も場合によっては強化されますのでお気を付けを。恐らく一時的に繋がりのある風竜は身動きも出来ないほどの苦痛が襲ってくると思われますので」

『我らもか……いや、致し方あるまい。何よりテイマーのネネカでさえなのだ。同族に伝播しないわけがなかったな』

「繋がり的にはテイマーと同族のどっちのが濃いんでしょうね。あと繋がりの強さで呪いの伝播具合って変わるんですかね」

「その辺りは今この中だとヴェルサスちゃんが知らなければ誰も知らないと思う」


 竜種とのテイム関係など世界初で、テイムした存在がすでに呪われているというのも少なくともヴェルサスは知らない事例だ。

 ましてその呪い自体も、こうして対処が大変だとヴェルサスが語る程度には強力なもの。

 どんな条件で呪いが伝播するかも分からないのは、仕方ない事ではあろう。


「……あの、待って?今割と普通にスルーしちゃってたけど、ヴェルサスちゃん?」

「はい?」

「今なんか、普通にルドラの言葉理解してなかった?」

『……ん?そういえば……』


 さらりと。本当にさらっとではあったが。

 ヴェルサスは今、確実にルドラの言葉を理解していなければ通じない会話をしていた気がする。

 竜、ドラゴンは魔獣。魔獣の言葉を理解出来るのは、対応しているテイマーのみのはず。


「もしかして、ヴェルサスちゃんもドラゴンのテイマーの資格有るの?」


 必然的にそう考え、ネネカがそう問うと。


「いえ?無いですよ?さっきだって、普通に唸り声とかにしか聞こえませんでしたし」

「え」


 全く以ってそんなことは無いようだった。

 普通に、あっけらかんと、呪具を白く染める手を一切止めることなくそう言ってのけるヴェルサス。

 いつの間にか呪具は、鎖を伝って全ての杭が少しずつ白くなり始めていた。


「じゃ、じゃあなんで……」

「覚えました。言葉として認識できるということは、言語として存在するということ。一般的には唸り声や咆哮でしか聞こえなかったとしても、それは明確に言語だということ。なら、それを覚えればいいだけです」

「『…………………………』」


 ヴェルサスの言葉に、ネネカとルドラは絶句した。

 なんだったら今自分たちが乗っている、竜王エンリルも身動きをとれないながらも絶句している気配がある。

 竜の言葉を理解した。

 それも、この短時間で。

 ネネカとの会話だけで。

 同じ種族の異なる言語ならばまだいい。まだ話は通じるが故、必ず同じ種族故の言葉の発し方等がある。それを掴めば、大雑把に言葉を理解するだけならば出来よう。

 しかし完全に種として異なる存在の言葉をこの短時間で理解するのは、あまりに常軌を逸しているとしか言えなかった。


「……凄いって褒めたいけど、なんかもう色々凄いと思うのも疲れてきたなあ」

「疲れないでほしいんですが」

『其方ならこの呪いも最初からどうにか出来たのではないか?』

「対処出来なくは無いですが面倒ですし、やったとしてもあまりいい結果にはならないので。勿論最悪の場合はその手段を取りますが、それまでにやれる最善の結果を出せる賭けがあるならそれをやります」


 要するに、ヴェルサスが直接動いての対処は、最終手段ということだ。

 対処がどういったものかは、ネネカもルドラたちもある程度予想はつく。

 この呪いはあくまでここら一帯の風竜を呪うもの。ネネカに流れ込んでいる呪いも全て、元をたどれば風竜のものだ。

 であれば呪われている風竜を殺してしまえば呪いは消える。

 当然、呪具のような形で遺る呪いはあるだろう。だがそれはもう魔獣の竜を呪う呪いではなく、ただそこに在るだけの呪い。

 ならば誰でも解呪が出来、皇都には現在エリーゼが居る。

 最終手段とは即ち、呪われた風竜を皆殺しにして、遺った呪いを消し去ること。

 これを行わずにネネカに任せているのは、最善の形で事を収められる可能性がかなり大きく存在するからだ。

 しかしあくまで可能性。それは賭けであり、賭けに勝つか負けるかはネネカと竜王エンリル次第。

 現状だけならば分は悪くないが、最後まで賭けである以上……最悪の場合を考えての最終手段を用意するのは、合理的だ。


「言葉を覚えたのは、その最終手段への備えを終え、こうして解呪のための賭けを成立させる手間がひたすら時間がかかるだけで、暇な時間が多かったからです。当然、まだスムーズに全てを聞き取れるわけではなく、ルドラさんと同程度です。が、大まかでも分かるようにはなりました、とだけ。……つーかなっがいなーこの鎖。どんな呪具になってんだか」


 この短い時間の暇潰しで別種族の言葉を覚えるなぞ、聞いたことがないが。

 しかし実際にネネカの通訳無しで対話が成立しているのは事実。ならば実際に覚えているのだろう。

 ネネカやルドラ、竜王エンリルとしては言いたいことは極めてとても多かったが……ヴェルサスとの対話がこれで比較的楽になるのも事実。一々やれることにツッコミを入れるのも疲れていたので、揃ってため息一つで済ませることにした。


「……ん。っていうか今更だけど、ルドラやエンリルはこっちの言葉分かるんだね。あ、私じゃなくてヴェルサスちゃんみたいなね」

『む?ああ、我らか。長生きすると暇になるでなぁ。暇潰しで他種族の言語を覚える竜は珍しくないわい』

「竜は生きるだけなら、平気でエルフ以上に生きますからねー」

「要するに暇潰しか」


 ヴェルサスと同じ暇潰しで多言語を覚えるというものだが、かける時間は桁違いであろう。

 決して竜が馬鹿なわけではない。単にヴェルサスがおかしいだけだ。


『とはいえ我は、まだりゅ……エンリル様ほどスムーズにはいかんがな』

「エンリルはスムーズに出来るの?」

『うむ。我は単語を理解できる程度だが、エンリル様はそのまま言葉を理解できる。そもそも我はエンリル様よりヒトの子らの言葉を学んだのだ』

「流石竜王」


 竜王というだけあって、実力だけでなく知恵も豊富なようだ。

 とはいえルドラも、単語を理解できる時点で相当なものだ。

 ネネカが仮に他の魔獣と対話しようとしても、テイマーの通訳があっても数十年は容易くかかってしまうだろうし、それは竜であってもさほど変わらないことだろう。

 竜ゆえに人より長く生きられるとしてもその年月は決して小さいものではなく、半端にやっているだけではどれだけの年月をかけても部分的な習得すら叶わないのは明白だ。

 別種族とはそういうものだ。

 それを部分的とはいえ理解できているのだ。相当なものと評して差し支えは無いだろう。


「じゃあエンリルは誰から人の言葉を学んだの?もしかして独学?」

『ん?そういえば……少し聞いてみるか』


 そういってルドラは軽く上を向く。

 恐らく精神内でエンリルと話しているのだろう。

 精神が繋がっているというのは、こういう時は便利そうだと感じたネネカ。

 とはいえデメリットも確実に多いのは分かり切っているので、便利そうだとは思ってもあこがれは無かったが。

 そうしてルドラが軽く上を向くこと十数秒。

 何やら疲れた様子のルドラが口を開く。


『……色々、聞いてもいない言い訳は入ったが……誰に教わったかは忘れたそうだ』

「……お疲れ様。先代の竜王とかじゃないんだ」

『この辺りは竜王の発生も代替わりも激しい故な。あまりそういうのは無い』


 竜王のメカニズム……というか竜の生態はまだイマイチ分からないが。

 竜王の発生も代替わりも激しいとなれば、先代から学ぶというのが難しいのも仕方なかろう。


『しかしそうなると、りゅ……エンリル様は本当に誰から学んだのであろうな。竜がヒトの子の言葉を覚えるのは暇潰しではあるが、基本的には我のように同族から学ぶのが主だ。少なくともこの辺りの竜はそうだ』

「この辺りと言っても竜の感覚だから、多分大陸のことでしょうね」


 そういえばとネネカは思い出す。

 ルドラを解呪した際。そのあまりの快調さに、大陸を一飛びしていた。

 その感覚を考えれば、この辺りの感覚がそのレベルでもおかしくは無いだろう。

 ルドラもヴェルサスの言葉を否定しないあたり、その感覚は正しそうだ。


『我ら風竜は、過去同族であった存在は忘れられぬ存在。多少の例外はあるが、同種族の同族から学んだのなら忘れるはずはないのだがな……』

「不思議な生態してるって思ったけど、別種族って言えばそんなもんかあ」

「人類種でも別種族で感覚は大きく異なりますからね」


 人類種であっても、人間種と魔族種で分かれており、人間種の内側でも異なる種族同士で感覚は異なり、魔族種でも同様。

 であればこちらの感覚で理解できない事象を竜が持っていたとしても、なんらおかしくはない。

 種族の違いとはそういうものだから。


「まあ……同族っていうのがこの辺りの竜の事を言うんならさ。どこかで別の竜の群れから学んだとかそういう感じじゃない?」

『ふうむ。まあ、有り得なくはない、か。我らの性質で記憶に残っておらぬとなれば、それが自然であろうしなあ』

「誰から学んだのかという疑問は結局残りますけどね」


 ヴェルサスの言う通り、すっきりしないものはあるが。

 結果として今は竜王に相応しい知恵の一つとして人の言葉を理解できるのだから、それでよいとするのが最善だろう。

 そもそもエンリル自身が忘れている以上、ネネカやヴェルサスは勿論ルドラもそれをはっきりさせる手段は持ち合わせておらず、エンリル自身が思い出すしかないのだからどうしようもないのだ。


「過去に戻れば一応分かるものも有るかもしれませんけどね」

「あるの?そういう魔法」

「無くは無いですが、今はもう私以外には出来ませんね。私も相応にそこそこ本気で準備が必要ではありますし。ってやべ、一分後に呪具砕けますので備えてください」

「急」


 時間に関する技術などどう考えても本気で準備しなければいけない気がするが、そこそこ本気の準備で済むあたり色々規格外だなとこの場の者たちは思ったが。

 それ以上にあまりに急に呪具の砕ける報告に、気を引き締めなければならないのに若干気が抜けてしまったのだった。

 見れば竜王エンリルの身体に刺さっている全ての杭と、縛っている全ての鎖が真っ白に染まり、竜王エンリルの身体の下にあるどす黒い呪い溜まりからも光の粒子が浮かんできていた。


「んやー、待機状態にできるかなー、とか思ったんですけどね。もうちょっと真面目にやるべきだった」

「……どうこう言ってもどうしようもないだろうなー、っていうのは分かるから備えるよ。私はとにかく浄化魔法を使い続ければいいんだよね?」

『諦めとる』


 ルドラどころかエンリルからも同じ意思を感じるが、実際ネネカは諦めている。

 慣れたものだ。この一週間で既に相当。主に料理関係で。


「二人……じゃない、二竜は大丈夫?」

「二流みたいで……」

『二人や二体で構わぬよ。あまり個体の呼ばれ方に拘って……いる奴いるな。まあ我らは気にせぬ。そしてエンリル様も我も、他の呪われている風竜らも問題ない。現時点で出来る覚悟は出来ておる』


 エンリルの諸々を感じ取ることは難しい。何しろ本体の肉体は、呪いで苦しみ続けて消耗した末に、眠っているも同然なのだから。

 しかしエンリルの意思を感じ取れるルドラがそう言うのなら、そうなのだろうと信じるしかない。


「時間が有りませんのではっきり色々続け様になりますが言います。確実に呪いで相当な苦痛が襲い掛かるでしょうし、浄化魔法を以ってしても完全な解呪には時間がかかります。その上呪詛となっている魔力自体も超高密度の上にホロウ化しています。ので、まず間違いなく、解呪したとて魔力の問題は発生します」

『……ホロウ?』

「ホロウ……えーと……」

「変質した魔力です。今はあまり良く無い魔力とだけ。ただそこの対処は私が担当しますのでお気になさらず。ネネカさんはただひたすらに、テイム関係を介して襲い来る呪詛と呪詛で苦しむエンリルの動きにひたすら耐えながら浄化魔法をフルで使い続けて。竜の皆さんは、浄化魔法で解呪されるまでひたすらに耐えてください。解呪にどれほどの時間がかかるかは私にも分かりません」


 要約すると。

 ネネカはただひたすら様々に耐えながら、現在も行使している浄化魔法を全力で使い続け。

 竜たちは、浄化魔法で解呪されるまで呪いにひたすら耐えればいい。

 後の細かいややこしい部分はヴェルサスが対応する。

 シンプルで分かりやすいが……そこに発生する苦痛も労力も相当なものだろう。ヴェルサスがややこしい部分を対応してくれるとは言え、結局一番の問題は据え置きなのだから。

 しかしそこにどうこう言ってもどうしようもないのも事実。竜を助けるためにはこれが最善なのだ。


「地味に私も結構たいへ……思っていたより堪えられないか。間もなくです。カウントダウンの後、呪具を破壊します……っと、大事なことを言い忘れていました」


 くるっと。

 ヴェルサスは呪具の鎖を手に持ったまま、ネネカたちへと振り向き。

 面白がるでも余裕があるわけでもない。

 かつてないほど真剣な表情で、たった一言だけ告げた。


「信じて」


 誰から誰に向けたものか。誰と誰のことを示したものか。

 それは、今考えるにはあまりに余裕がなさ過ぎた。

 しかし余裕が無いが故に、少なくともこの場の者たちの意思は同じだった。

 意志は語るまでもなく。


「三……二……一……」


 そしてその時は来た。


「ゼロ」


 ヴェルサスがカウントダウンを終えると同時。

 竜王エンリルに刺さっていた全ての杭にヒビが走ってあっという間に砕け散り、縛っていた鎖は溶けるように消え、地面の呪い溜まりは全てが光の粒子となって消えていく。

 と同時。


『グ、ォゴ、グウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!!!??????』


 反射的なものであろう。

 エンリルは全身をガクガクと痙攣させのたうち回りながら、苦痛に悶え吠える。

 その咆哮は、ネネカを以ってしても意味を感じ取ることは出来ない。

 唯々、苦痛故の絶叫として響くのみ。

 尤も、ネネカも生憎と、この間近で発せられた絶叫に耳を傾ける余裕はなかった。


(寒い)


 エンリルがどれだけ身体を暴れさせようが、不思議とエンリルの頭の上に居るネネカには何の影響もない。

 エンリルの身体がひっくり返ろうがガタガタ震えようが、一切の影響無くネネカはエンリルの身体に手を触れ続け、浄化魔法を発動し続けている。

 重力すらも無視したこの状況。恐らく今も展開され続けているヴェルサスの結界が影響しているのだろうが、それを気にする余裕は誰にもなかった。


(寒い、寒い、寒い)


 ネネカは凍えていた。

 寒さは無い。むしろ洞窟内故か、温かい方だ。

 しかしネネカは寒いと感じている。

 理由は単純。

 エンリルより流れ込む呪いが、凍えさせているからだった。


(寒い、暗い、狭い)


 ネネカに呪詛は効いていない。

 届いてはいる。が、ネネカの魔力で自然とかき消されている。

 効いていないにも拘わらず。


(何も、見えない、聞こえない、感覚がない)


 ネネカの意思をも呪詛が蝕んでいく。

 呪詛は届いていない。

 ただ単に、呪詛がその膨大な数で以って、ネネカという存在を押し潰しているというだけだ。

 深海へ強引に誘う重りのように、どれだけ抗えようとも呪詛によって身体は蝕まれていく。

 当然だ。呪詛とはそういうものなのだから。

 まして人類種よりも、魔力でも呪いに対する耐性でも基本的に遥かに強力な竜を呪う呪詛。さらに今回呪われているのは、竜王。

 先ほどまでの、テイムを介して僅かに滲み出ていた程度の呪いでさえ、呪いそのものを弾いても身動きが上手く取れなくなるほどの呪い。

 呪具として凝り固まっていた呪詛が砕かれ、呪いに還元された今……完全な呪いは、確かにネネカにも牙を剥いていた。


(わた、しが。どこに、ある、のか。わか、ら、なくな、っ、て)


 ネネカ自身、今まで体勢は一切変えていないつもりだ。

 それは呪詛で苦しむエンリルからも、手を離していないということになる。

 手を離していないということは、今も解呪のための浄化魔法は行使できているということだが。

 しかしそれはあくまでネネカの考える中での話。

 既にネネカは呪詛に蝕まれ、五感の殆どを失っている。

 何も見えず、何も聞こえず、何に触れているかも分からず、どころか自分の身体が今どうなっているかも分からない今。

 本当に今のネネカが、エンリルの身体に触れ続けていて、浄化魔法を行使し続けられているのか。

 ネネカ自身にも、それは分からないことで。

 今となってはそれが分からないということすらも、掠れてきていた。

 自分という存在の境界線が、膨大な呪いによって少しずつ溶かされあやふやになっていく中で。


『あなたはいい子ね、寧音花』


 ゾッ、と。

 感覚が失われた中でさえ、自分の身体が呪詛関係なく震えたのが分かった。

 震えから逆算することで、一応自分がまだ体勢を変えていないことや浄化魔法を行使し続けていることを自覚できた。

 が、それ以上に呪詛の海の中で想起する、ネネカの記憶。


『ほうら、御覧なさい寧音花。あなたの妹が、世界のための燃料になっていくわ。全部、あなたのおかげよ』


 思い出したくもない母の声。

 今なお目と耳に焼き付いて離れない、幼い妹の絶望と憎悪に染まった視線、断末魔、ゴポゴポと溶けゆく異音。


『全く、お兄ちゃんにも困ったもんだな。失敗作が寧音花の人生を邪魔しようなどと』


 忘れていたかった父の声。


『だがもうそれも終わりだ。寧音花、お前は父さんたちの言う通りに生きていればいいんだ。それがお前にとっての幸せだ。そうだろう?』


 優しく、しかし拒絶を許さない、父の微笑み。

 父と寧音花の足元に転がる、兄だったもの。


『見て寧音花!あれを寧音花の運動靴にしてみたの!履いてみて頂戴!大丈夫、規律には反していないわ!人間素材の運動靴が駄目だなんて、ルールには記載されていないもの!』

『おお、あんなのでも良い靴になるものだなあ!そうだ、注文した体操服も届いたぞ!血の繋がった繊維で作られているだけあって、寧音花専用だ!うまく使おう!』


 母によって履かされた、兄だった運動靴。

 運動靴の燃料は妹だったもの。

 着せられた体操服は弟だったもの。


(なんで)


 今更こんなものを思い出すのか。

 走馬灯、とでも言うのだろうか。

 走馬灯を見てしまうほど、今の自分は呪いによって追い詰められているのか。

 しかしそうとは思えない。

 何しろ先ほどまでと違って、妙に意識が冴え渡っている。

 今も莫大な呪いは感じている。が、呪いに先ほどまでの勢いがない。

 解呪に成功したのかと思ったが、呪い自体は健在だ。解呪に成功したわけではなさそうだ。

 本当にただ、呪いがネネカにとって敵ではなくなっている。

 そんな、不思議な感覚があって。


(……ああ、そうか)


 兄が居た。姉が居た。弟が居た。妹が居た。

 初めに弟が父によって殺された。一番優秀だったネネカに甘えて、ネネカの運動時間を五秒奪ったから。

 殺された弟は体操服にされた。人間から作る繊維は上質らしく、血の繋がった者がその繊維で作られた衣服を着ると良いらしいから。

 次に妹が母によって殺された。親の言うことを守っていないと、ネネカが親に言ってしまったから。

 殺された妹は燃料にされた。まだ幼くも教育によって優れていたその脳からは、上質で大量の燃料が採れた。

 最後に兄が父によって殺された。元の世界ですら狂っている親の教育から、姉とネネカを助けようとして。

 殺された兄は運動靴にされた。肉の一片も無駄にせずに作られた専用の運動靴は、どういう技術かとても履き心地がよかった。


『お前は優秀だな、寧音花。何でもできる』

『貴女は素晴らしいわ、寧音花。何でもやってくれる』


 父はネネカを優秀だと言った。実際そうだろう。父の出来なかったことをあっさりと成したのだから。

 母はネネカを素晴らしいと言った。実際そうだろう。母が諦めざるを得なかったことに届いたのだから。


『寧音花。お前は本当に、都合のいい娘だなあ。父さんと母さんのために、何でもしてくれる。いい娘だ』


 ただ。

 親が死に。姉に保護され。様々学んだことで、ようやくネネカが理解できたことがある。

 両親の、ネネカに対する感情は。


『その調子で、私たちの夢を叶えて、私たちを幸せにするのよ。親を幸せにするのは、子供の義務なんだから』


 自分たちにとって便利な、操り人形だ。


「……嫌なものを」


 意識が記憶から戻ってくる。

 今なお流れ込む呪いのせいか、記憶を想起したせいかは知らないが、気分は悪い。

 が、呪具が砕かれたその直後よりも、意識ははっきりしていた。

 まるで。

 呪詛すらも、本来の自分には取るに足らないと自分の身体が理解しているかのように。

 呪詛こそが本来自分が抱えるべきものだと、示しているかのように。


「……まあ、うん。実際ね」


 ネネカ自身も理解している。

 どれだけ善人ぶろうが。どれだけ本心から誰かを助けたいと考えようが。

 結局はあの世界で、兄妹の殆どを犠牲に培われた存在。

 本質的に善か悪かで言えば、悪だろう。

 先ほどまでおぞましいとしか感じなかった呪詛が、心地よいとすら感じる程度には。

 呪詛の勢いが弱まったのではない。

 呪詛がネネカの本質に同調して、ネネカにとって害あるものではなくなっているだけだ。

 何故に呪詛がネネカの本質に同調しているのかは分からない。

 ネネカの精神的なものなのかもしれないし、呪詛自体の性質かもしれないし、呪詛を生み出した者の想いが反映されているのかもしれない。

 いずれにせよ呪詛がネネカに害を成すものではなくなりつつあるのは事実で。

 この状態を継続すれば、自分は呪詛の苦しみを比較的受けずに解呪に成功するだろう。


「……まあそんな道を歩みたくないから今の私があるわけで」


 その一言と共にネネカは意志を新たにすると、呪詛が再び不快なものへと変わっていく。

 まるでネネカを、決して手放さないかのように。

 ネネカを自分たちと同じ道へと引きずり込もうとするかのように。


「生憎と。私は私のために生きるって、もう決めてるから」


 呪詛に対して、淡々と告げる。

 同時に呪詛より感じる不快感が、呪具を砕いた直後まで戻る。

 ネネカの感覚も、次第に鈍っていく。

 すぐに自分がどんな体勢で居るのかも分からなくなるだろう。


「そ、れ……でも……!」


 ネネカは呪いの海の中で、必死に浄化魔法の維持に専念する。

 あれこれ考えようが過去を想起しようが、解呪しなければ事は進まない。

 ネネカの精神に同調しかけた呪詛を仮に受け入れたとて、それは変わらない。

 精々後の不安を盛大に残して、ネネカの今が少し楽になるだけ。

 結局はネネカが解呪しなければならない事実は変わらない。

 全てはヴェルサスが事前に言った通りだ。襲い来る呪詛とネネカの浄化の戦い。タイムリミットは竜王エンリルが耐えられるまで。

 その過程でネネカも呪いに侵食されようとも、その全てを浄化しなければならない。

 ただひたすらに、全てを信じて頑張るしか無いのだ。


「……負けて、たまるか……!」


 意識すらも呪詛の海に流されつつある中で、ネネカは全霊を以って呪詛へと宣戦布告する。

 薄れゆく意識の中での、微かな意思表明に。

 黒く、金色に輝く小さな立方体だけが、仄かに瞬いて応えた。

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