表情バグ
二週間で、配信の景色が変わっていた。
五月上旬にデビューしたみやびの配信は週三回のペースに落ち着いている。雑談、ゲーム実況、歌枠。桐谷凛が企画を考え、白石楓が演じ、瀬川湊が裏方を支える。三人の分業は配信を重ねるごとに滑らかになっていった。
同時視聴者数は十人前後になった。デビュー直後の五人から倍。数字だけ見れば微々たる成長だが、通い続ける常連が四、五人ついていた。コメント欄で名前を見かけると「今日も来てくれた」とわかる。小さな箱の常連客のようなものだった。
楓の演技は回を追うごとに安定していった。みやびのミステリアスな口調を保ちながら、ゲーム実況では素が漏れてテンパり、歌枠では七年の舞台経験が裏打ちする歌声を披露する。凛の読み通り、ギャップが武器になっていた。本の紹介で楓自身の感想が混じるところも、リスナーには好評だった。
その日は雑談配信だった。事務所の六畳一間、いつもの配置。楓がマイクの正面に座り、湊がその右手側のサブモニターでOBSと音声レベルを管理し、凛が壁際の折りたたみ椅子でノートPCを開いてコメント管理に入る。窓の外には五月の夕暮れが広がっている。配信開始は二十時。湊はセキュリティチェックリストを一通り潰してから、楓に「いつでもいけます」と声をかけた。
配信が始まった。
『今日はね、最近読んだ本のお話をしようかと思って。——あら、もう結構来てくれてるのね。嬉しいわ』
>まってた
>みやびちゃんこんばんは
>今日も美しい
『ふふ、ありがとう。みんな優しいわね』
湊はサブモニターの数値を確認していた。音声レベル正常、トラッキング安定、ビットレートに問題なし。バッファサイズの問題はプリセット変更で解消済み。ノートPCのCPU使用率は七十パーセント前後で推移していて、まだ余裕がある。いつもの配信だった。
みやびがミステリー小説の紹介を始めた。楓自身も読書好きで、この話題はキャラクターと演者の趣味が重なる部分だった。声に自然な熱が入っていく。
『主人公が探偵なんだけど、事件を解決するたびに寂しくなるの。謎がなくなると、人と関わる理由もなくなるから。——で、最後の一行で全部ひっくり返されるのよ。もう、やられた!って感じ』
>みやびちゃんのテンション上がるの好き
>素が出てるw
>ギャップ萌え
みやびの口から「やられた」なんて言葉は本来出てこない。でもリスナーはその素の混じり方を楽しんでいた。みやびというキャラクターの奥に楓がいることを、常連たちはもう知っている。
配信が半分を過ぎた頃だった。
みやびが笑っていた。リスナーのコメントに返事をしながら、楓は楽しそうに笑っていた。画面のアバターも笑顔を浮かべている——はずだった。
>ん?
>みやびちゃん大丈夫?
>表情バグ?
湊の視線がコメント欄に引き寄せられた。
画面のみやびを見た。
口元は笑みを浮かべている。声も明るい。でも——目元が、笑っていなかった。わずかに翳っている。寂しげな、どこか遠くを見ているような目。0.5秒に満たない一瞬。すぐにみやびの表情は通常の笑顔に戻った。
>今の何?
>エモい
>なんかリアルだった
>泣きそうに見えた
コメントが一気に流れた。十数秒の間に五件。普段の倍以上の反応速度だった。リスナーは何かを見た。言語化はできなくても、画面の中の違和感を察知していた。
楓はコメントを見て、ほんの一拍だけ間を置いた。
『あら、表情バグ? ——ふふ、みやびにもバグがあるのかしら。ちょっとお茶目なところもあるのよ』
みやびの口調で流した。声は安定していた。七年の舞台経験が支えるプロの対応。リスナーもそれ以上は追求しなかった。
>バグも含めてかわいい
>みやびちゃん奥が深い
でも湊は気づいていた。楓がモニターに目をやった瞬間、その顔がこわばったことに。自分のアバターが笑っていないことに、楓自身が驚いていた。カメラのトラッキングは楓の表情を「笑顔」として正しく認識しているはずだ。湊が二週間かけて追い込んだパラメータは、笑顔なら笑顔を返す。それが仕様だ。なのにアバターの目元だけが、一瞬だけ逸脱した。
配信は残りの十分を何事もなかったかのように進み、いつもの挨拶で終了した。
ヘッドセットを外した楓は、しばらくモニターの前から動かなかった。椅子の背もたれに沈み込むこともなく、画面に映ったままのみやびの静止画を見つめている。凛は配信のコメントログをスクロールしていた。エアコンの送風音と、窓の外を走る車のエンジン音だけが事務所を満たしている。
「……ねえ、湊くん」
楓が振り向かずに言った。
「はい」
「さっきの表情バグって言われたやつ。——あれ、何?」
湊はサブモニターのトラッキングログを開いた。配信中の表情パラメータの推移。カメラのキャプチャデータ。音声入力のレベル。全て正常値の範囲内で推移している。
「わかりません。ログには異常なしです」
「でも明らかに変だったよね。私、笑ってたのに——みやびは笑ってなかった」
楓の声が硬くなっていた。凛が口を挟んだ。
「コメントの反応は悪くなかったよ。エモいって言ってる人もいたし、印象に残ったみたい」
「それはそうかもしれないけど——」
楓が言葉を切った。何かを言いかけて、飲み込んだ。
湊はもう一度ログを確認した。トラッキングカメラの認識データ、Live2Dのパラメータ出力、音声入力。全て正常。ソフトウェアのバージョンにも問題はない。
「次の配信までに原因を調べます。ソフトウェアの設定を全部見直して、トラッキングカメラの校正もやり直します」
「……お願い」
楓は頷いた。でも納得した顔ではなかった。技術的な説明では収まらない何かが、楓の中にあるように見えた。
帰り支度をしながら、楓が小さな声で言った。
「ねえ、あのとき——私、笑ってたよね?」
「笑ってましたよ。声も明るかったし、演技は完璧でした」
「じゃあ、なんでみやびは笑ってなかったんだろう」
湊には答えられなかった。楓は「おやすみなさい」と言って帰った。いつもの「よし」はなかった。
一人になった事務所で、湊は配信のアーカイブを巻き戻した。窓の外はすっかり暗くなっている。コンビニで買ってきた缶コーヒーを開けて、問題の場面を何度も再生した。
みやびが笑っている。楓の声は楽しそうだ。トラッキングカメラが捉えた楓の顔も、笑顔のはず。でもアバターの目元に、ほんの一瞬だけ翳りが差す。0.5秒に満たない。見逃してもおかしくない。でもリスナーは気づいた。人間の目は、表情の不一致に敏感だ。
パラメータに異常はない。カメラも正常。ソフトウェアのバグでもない。
「……なんだ、これ」
独り言が、静かな事務所に落ちた。モニターの中で、みやびが微笑んでいた。




