モデルと疑念
「モデル、ちょっとおかしくない?」
白石楓が事務所のドアを開けるなり言った。おはようも、ねえねえもなかった。五月半ばの朝、日差しが窓から差し込む事務所の六畳一間に、楓の声だけが硬く響いた。
瀬川湊はペンタブレットから手を離して椅子を回した。楓の表情は笑顔だったが、目が笑っていない。初めて見る顔だった。
「この前の配信のやつ。表情バグって言われたの」
「ああ、あれですか。——二日間、全部調べました」
湊はノートPCを楓のほうに向けた。画面にはスプレッドシートが開いている。Live2Dのバージョン確認、トラッキングソフトのログ解析、カメラの設定値の照合、OBSの出力パラメータ、音声入力との同期ズレの検証、照明条件の変化がトラッキングに与える影響の確認。二十項目以上のチェックリスト。この二日間、湊は事務所に泊まり込んで全ての項目を潰していた。全ての行に「異常なし」と記録されている。
「パラメータに異常はなかったです。トラッキングの精度も正常。ソフトウェアのバグも見つからなかった」
楓が湊の横に椅子を引き寄せて座った。いつもは桐谷凛の隣に座るのに、今日は湊のそばだった。画面を覗き込むように身を乗り出す。技術的な用語はわからないだろうが、全項目が「正常」になっていることは読み取れるはずだ。
「原因不明ってこと?」
「今のところは」
楓が黙った。湊は別のウィンドウを開いた。配信中のパラメータ推移グラフ。横軸が時間、縦軸がパラメータ値。三十分間のデータがなだらかな曲線を描いている中に、一箇所だけ小さな谷があった。
「ここを見てください」
「この凹みのところ?」
「はい。笑顔のパラメータは通常0.7前後で推移しているんですけど、この瞬間だけ0.4まで落ちてます。数値の差としては0.3。でも人間の目は表情のこういう変化にものすごく敏感で、リスナーが気づいた」
楓の指がモニターに触れた。爪先がグラフの谷の部分をなぞっている。
「ここだけ、みやびが笑ってなかったんだ」
「そうです。楓さんは笑ってたのに、みやびの目元だけが翳った」
「私は笑ってたのに」
楓がその言葉を繰り返した。声のトーンが、さっきとは違っていた。
玄関のドアが開いて、凛が入ってきた。コンビニの袋を手に持っている。
「おはよ。——あれ、二人とも早いね。何の話?」
「表情バグの調査結果」
「お、出た?」
「出ました。結論は——異常なしです」
凛は椅子に座ってコーヒーのプルタブを開けた。
「異常なし。つまり原因不明」
「はい」
「ふうん。——ところでさ」
凛がスマートフォンを取り出して、楓に見せた。
「Xで、あの表情バグのクリップが出回ってる。配信のアーカイブから該当部分を切り抜いて投稿したリスナーが何人かいて、合わせて再生数が三桁くらいかな。コメントもちらほらついてる」
凛がスマートフォンの画面をスクロールしながら読み上げた。
「『みやびちゃんの表情がリアルすぎる』『一瞬見せた寂しい顔がたまらない』『新人VTuberでこの表現力はすごい』って。——あと、この一件で新規フォロワーが三人増えた。リスナー数人がポストしてくれた程度だから大きな影響はないけど、今までのペースからすると明らかに多い」
凛の声は淡々としていた。経営者の目で数字を見ている。原因が何であれ、結果として注目されたのは事実だった。ただし凛は数字を過大に評価もしなかった。三人のフォロワー増とクリップの拡散は、あくまで小さな波紋にすぎない。
「……でも、あれはバグなんでしょ?」
楓が湊に聞いた。
「バグかどうかもわかりません。技術的に原因が特定できていないので」
楓は両手を膝の上に置いた。指が組まれている。爪先が白くなるほど、きつく。
「私さ、あのときほんとに笑ってたんだよ。リスナーさんとの話が楽しくて、ミステリー小説の話で盛り上がって。演技じゃなくて、本気で楽しかった。七年間舞台にいて、演技と本気の区別くらいは自分でわかる。あのとき私は、本気で楽しかった。——なのに、みやびは笑ってなかった」
部屋が静かになった。エアコンの送風音と、凛がコーヒーを飲む小さな音だけが聞こえる。
「楓さんの演技は完璧でしたよ。声も表情も。トラッキングカメラの認識データを見ても、笑顔として正しく捉えられていた」
「でもみやびは笑わなかった」
「一瞬だけです。0.5秒に満たない」
「その一瞬が気になるの」
楓の声に力がこもった。凛がコーヒー缶を机に置いた。
「楓ちゃん。次の配信でも同じことが起きるかもしれないし、起きないかもしれない。起きたらそのときにデータ取ればいい。湊が全部見てるから」
「……うん。そうだよね」
楓が顔を上げた。笑顔だった。いつもの明るい楓。でもその切り替えの速さが、湊にはむしろ気にかかった。
「よし、次の配信頑張ろ」
楓はそう言って立ち上がった。発声練習をしてくると言って、部屋の隅でストレッチを始めた。
凛が椅子ごと湊に寄ってきた。声を落として言った。
「ほんとに原因わかんないの?」
「わかりません。正直、技術的に説明がつかないです」
「湊が説明つかないって言うの、初めて聞いたかも」
「俺もこういうの初めてです」
凛はスマートフォンを指先で弾いていた。楓が発声練習を始めた声が、吸音材越しにくぐもって聞こえる。
「ねえ湊。楓ちゃんが気にしてるの、バグそのものじゃないと思うよ」
「え?」
「自分の表情と違う顔をされたのが怖いんだよ。たぶん。——自分は笑ってるのに、みやびが笑わない。それって、自分の演技が嘘だってバレてるみたいじゃない?」
湊は凛の言葉を咀嚼した。自分の表情と違う顔をされる。それは技術的には不具合だ。パラメータの異常値だ。修正すべきバグだ。——でも楓にとっては、そういう話ではないのかもしれない。
「次の配信、ちゃんと見てます」
それだけ言って、湊はモニターに向き直った。
画面の中で、みやびが静かに微笑んでいた。調整モードで表示されたアバターは入力がないからデフォルトの微笑みを浮かべ続ける。その笑顔が楓のものなのか、みやび自身のものなのか。アバターに「自身の表情」などあるはずがない。湊が設定したパラメータと、Live2Dが出力するメッシュ変形の集合体だ。
でも——楓が「おかしくない?」と言ったとき、その声には不具合の報告以上の何かが込められていた。
楓の中で、何かが動き始めている。自分は笑っていたのに、みやびは笑わなかった。完璧に演じたはずの笑顔を、アバターが裏切った。——この子は、私の嘘を見抜いてる? そんな疑念が芽生え始めていることに、湊はまだ気づいていなかった。
部屋の隅で楓が発声練習をしている。「あ、え、い、う、え、お、あ、お」と繰り返す声が、事務所の吸音材に吸い込まれていく。その声は明るくて、よく通っていて、どこにも翳りがなかった。




