キーボードとマイク
事務所のエアコンが低く唸っている。五月上旬の宮崎は朝から湿度が高く、窓の外のフェニックスの葉先が重たげに揺れていた。
瀬川湊はモニターに向かっていた。次の配信用にOBSのシーンプリセットを組んでいる。一つずつ数値を確認してはEnterを押す。この手の作業は何時間でも続けられた。
「ねえねえ、次の配信なんだけどさ」
白石楓がパイプ椅子を湊のそばに引き寄せて座った。手にはコンビニのアイスカフェオレ。ストローを咥えたまま、ノートの切れ端を差し出してくる。丸っこい字で「パズルゲーム実況」「歌枠」「リスナーさんにお題もらう企画」と箇条書きされていた。
「企画、結構出てきましたね」
「でしょ? リスナーさんたちのコメント見てたら思いついちゃって。——みやびってミステリアスキャラだから、パズルとか似合うと思うんだよね。苦戦してキャラ崩壊するのも面白いし」
「ギャップは前回も好評でしたからね。ゲーム実況はアーカイブの再生回数が伸びやすいって凛さんも言ってました」
楓が嬉しそうに頷いた。表情バグの件はまだ引っかかっているはずだが、楓は次の配信に向かっている。その切り替えの速さに、七年の舞台経験が滲んでいた。
玄関のドアが開いて、桐谷凛が入ってきた。
「おはよ。——あ、企画会議始まってる? あたしも混ぜて」
凛はノートPCを開いて配信スケジュールの表を画面に映した。楓のノートの企画案と突き合わせながら、三人で来週の配信予定を埋めていった。
「ゲーム実況は月曜、歌枠は水曜、雑談は金曜。——いいんじゃない?」
「よし、これでいこう!」
楓がペンでノートに書き込んでいる横で、湊はOBSの設定に戻った。キーボードを叩く。シーンの切り替えをテストしながらショートカットキーを連打する。
カタカタカタ、カチッ。カタカタカタ、カチッ。
楓がストローから口を離して、こちらを見た。
「……ねえ、湊くん。それ、結構聞こえるよ」
「え?」
「キーボードの音。あとマウスのクリック音も。前の配信のアーカイブ聴き返したら、ところどころカチカチって入ってたの」
湊は手を止めた。事務所の六畳一間を見回す。楓のマイクから湊のキーボードまで、直線距離で二メートルもない。単一指向性マイクで正面以外の音は拾いにくくしてあるが、メカニカルキーボードの打鍵音は静かな部屋なら六畳の距離でも拾ってしまう。
「あー……たしかに。マイクの指向性で抑えてはいるんですけど、距離が近すぎますね」
凛がノートPCから顔を上げた。
「この部屋、六畳だもんね。配信ブース作るスペースもないし」
「吸音材を追加しても限界があります。マイクとキーボードが同じ部屋にある以上、根本的には音源そのものを離すしかない」
三人が同時に狭い部屋を見渡した。デビューからここまで、この距離で三人がやってきた。その密着感は三人の距離を縮めてくれたが、配信の品質には限界が見え始めていた。
「あたしは配信中ノートPCで文字打つくらいだけど、湊のメカニカルキーボードはさすがにね」
楓が手を上げた。
「じゃあさ、私が自宅から配信すればいいんじゃない?」
湊と凛の視線が楓に集まった。
「自宅って、楓ちゃんの部屋?」
「うん。住宅街だし、事務所より静かだよ。マイクとカメラがあれば配信はできるでしょ?」
湊は頭の中で構成を組み立てた。
「OBSはリモートで操作できます。楓さんのPCでWebSocket接続を有効にすれば、俺が事務所からシーン切り替えや音量調整をリモートで触れる。Discordで音声モニタリングしながら裏方をやれば、同じ部屋にいなくても回せます」
「へえ、そんなことできるんだ」
「万が一のトラブル——画面に映っちゃいけないものが出た場合に、俺がリモートで配信を止める体制も組みます。ホットキー一発で黒画面に切り替わるようにしておけば」
凛が腕を組んだ。
「配信中に楓ちゃんが一人になるのは大丈夫? 今まで三人でいたから、何かあればすぐ声かけられたけど」
「Discordのボイスチャットを繋ぎっぱなしにします。楓さんのヘッドセットの片耳だけに俺の声が入るようにすれば、指示が出せます。配信には乗らない」
楓はストローをくるくる回していた。
「一人で配信かあ。——ちょっと寂しいかも」
その言葉を笑いながら言ったが、視線はアイスカフェオレの氷に落ちていた。
「配信後の振り返りは事務所でやればいいし、準備も事務所で打ち合わせてから帰ればいいんじゃない? 配信の時間帯だけ別々になるだけだよ」
凛の声は軽かった。深刻にしない凛の空気が、楓の表情をほぐした。
「そうだよね。配信が終わったら事務所来ればいいし」
「じゃあ、環境構築に二、三日ください。楓さんの自宅の回線速度と、部屋の音響を確認したいんで」
「私の部屋見るの? 片付けなきゃ」
「回線とマイクテストだけなんで、散らかってても大丈夫ですよ」
楓が笑った。今度は目も笑っていた。
その日の午後、凛の軽自動車に機材を積んで三人は楓のアパートに向かった。事務所から車で十五分。住宅街の奥にある築古のアパートの二階。階段を上がった先のドアを楓が開けると、南向きの窓から五月の日差しが差し込んでいた。
一Kの六畳一間。物が少なかった。小さな本棚に文庫本が並び、部屋の隅に段ボール箱が二つ。蓋が半開きになっていて、中から紙の束が見えた。台本だった。楓が気づいて、さりげなく蓋を閉じた。
「狭いでしょ。でも東京より広いし、家賃は半分以下だよ」
湊はスマートフォンで回線速度を計測した。上りが安定して出ている。配信には十分だった。
マイクの位置を決めた。デスクを窓から離して壁際に寄せ、マイクを楓の正面四十センチに設置。ウェブカメラはモニター上部に固定して、トラッキング用の距離を確保する。壁の反響をチェックした。手を叩いて残響を聴く。マイクの背面にあたる壁にウレタン吸音パネルを四枚、両面テープで貼り付けた。凛が車から運んできた事務所の予備だった。
OBSのインストールとリモート接続の設定を終え、事務所のPCから操作できることを確認した。緊急停止用のシーンも作った。黒画面に切り替わるホットキーを一つ。
セキュリティの確認に移った。
「楓さん、このPC、ユーザー名が本名になってますね。変えてください。あとWindowsの集中モードを配信前に必ずオンに。通知が画面に出たら一発です」
「覚えること多いね」
「チェックリスト作っておきますんで」
最後に窓を開けて外の音を確認した。住宅街の通り、車のエンジン音、鳥の声。地域を特定されやすい音は聞こえなかった。
「配信中は窓を閉めてカーテンも閉めてください。光の変化がトラッキングに影響するんで」
「了解。——湊くん、楽しそうだね」
楓が横から覗き込んで言った。湊は自分の顔に手を当てた。新しい環境を一から組み上げる作業に没頭し始めていたのは確かだった。
「まあ、こういうのは好きなんで」
凛が窓辺から戻ってきた。
「いい環境だね。事務所より静かだし」
楓がデスクの前に座って、マイクに手を伸ばした。自分だけの配信空間。窓の外では鳥が鳴いている。事務所の六畳一間とは違う、静かな空気が部屋を満たしていた。
「ここから配信するんだ」
楓がまっすぐモニターを見つめた。一人の空間に向き合う横顔は、配信前に「よし」と呟くときの顔に似ていた。
「大丈夫ですよ。Discordで繋がってますから。俺が事務所からずっと見てます。一人じゃないです」
楓が振り向いた。窓からの西日が髪に当たって、茶色が明るく光った。
「——うん。ありがとう、湊くん」
凛が何も言わずに笑った。帰りの車の中で、凛がぽつりと言った。
「楓ちゃんの部屋、東京の話をしないね。段ボールに台本が入ってたの、見た? 開けてもないし、捨ててもいない」
湊は段ボールの蓋を楓がそっと閉じた場面を思い出した。凛は前を向いたまま続けた。
「まあ、いいの。今は前を向いてるみたいだし」
凛の軽自動車が住宅街を抜けて、国道に出た。フェニックスの並木が夕日に照らされて、長い影を道路に落としている。バックミラーに映る楓のアパートが、少しずつ小さくなっていった。




