画面越しの声
部屋が、静かすぎた。五月の夜、エアコンを弱めに入れた自分の部屋で、白石楓はデスクの前に座っていた。
窓のカーテンは閉めてある。デスクライトの昼白色の光がマイクのポップガードに当たって、小さな影を壁に落としている。両脇に立てかけた吸音パネルが、部屋の音をぐっと抑え込んでいた。自分の呼吸音がやけに大きく聞こえる。いつもなら隣に聞こえるキーボードの打鍵音も、凛の声も、ここにはない。
ヘッドセットの左耳から、瀬川湊の声が聞こえてきた。
「音声チェック、問題ないです。トラッキングも安定してます。OBSのシーン切り替え、こっちでテストしますね——はい、OK。映像ビットレートも正常です」
Discordのボイスチャット越しの声は、回線を通すとほんの少しだけ硬く聞こえた。いつもは右手側にいた人が、今は回線の向こう側にいる。
「楓さん、準備できたら合図ください」
「うん。——ねえ、湊くん、配信中にこっちに話しかけるときってどうするの?」
「イヤモニの左チャンネルだけに俺の声が入ります。配信には乗らないんで、そのまま話しかけてもらえれば」
「わかった」
楓は深呼吸した。胸に空気を入れて、ゆっくり吐く。吸音パネルに囲まれた空間は事務所の六畳一間より静かで、その静けさが心臓の音を際立たせていた。振り向いても凛はいない。隣に湊もいない。画面と、マイクと、自分だけ。
「よし」
楓は小さく声に出して、配信開始のボタンを押した。
『みなさん、こんばんは。みやびです。今日はね——ちょっと新しいことに挑戦するの』
>きた!
>みやびちゃんこんばんは
>今日も配信ありがとうございます
同時視聴者は七人。配信開始から二分で、コメント欄に見慣れた名前が並んでいく。
>モデルの表情の動きすごくない? 今日なんか解像度上がってない?
楓は画面のコメントを読みながら、声を作った。
『ふふ、ありがとう。今日はゲーム実況をやってみようかと思って。パズルゲームなんだけど——正直ね、みやび、こういうの得意じゃないのよ』
>えっマジ?
>みやびちゃんがパズル
>ミステリアスなのにw
ゲーム画面が映し出された。色とりどりのブロックを組み合わせて消していくパズルゲーム。序盤のチュートリアルは順調に進んだ。
『これは簡単ね。こうして、こう——あら、消えたわ。ふふ、みやびにもできるじゃない』
>まだチュートリアルだぞ
>本番はこっからよ
>まってたんよ がんばれー
ステージ三に入ったところで、楓の手が止まった。ブロックの配置が複雑になり、消す順番を間違えると詰む仕組みだった。
『えっと……この赤を先に消して、次に青を……あれ? 動かない。——え、なんで? さっきはいけたのに』
>あーそこ先に黄色
>右下の緑からだよ
>落ち着いて落ち着いて
みやびの口調が崩れ始めた。
『黄色? どの黄色——あっ、違う違う違う! やだ、全部消えちゃった!』
「やだ」は明らかにみやびの口調ではなかった。楓の素が漏れている。コメント欄が一斉に動いた。
>wwww
>素出てるw
>「やだ」かわいい
>みやびちゃんポンコツ説浮上
イヤモニ越しに湊の声が入ってきた。
「コメント盛り上がってます。このままの方向でいいと思います」
楓は小さく頷いて、配信を続けた。湊の声が片耳に聞こえるだけで、一人じゃないと思える。不思議な距離感だった。隣にいるわけではない。顔も見えない。でも声がある。
『……ふう。みやびね、こういうの本当に苦手なのよ。頭がね、かたくなっちゃうの。——あら、また赤が邪魔してる。あなたね、さっきからずっと出てくるじゃない。みやびに恨みでもあるのかしら』
>ブロックに話しかけてて草
>みやびちゃん面白すぎる
>赤ブロックに恨み持たれてるVTuber
>爆笑してるんよ
楓の中で何かが切り替わっていた。事務所で三人に囲まれていたときとは違う感覚。自分の部屋で、画面に向かって、一人で喋っている。隣に湊がいない。凛が壁際で笑ってくれない。でも——コメント欄に、人がいる。テキストの向こう側に、笑っている誰かがいる。舞台の客席は暗くて顔が見えなかった。画面の向こうも見えない。でもテキストは、声よりも正直だった。
ステージ五で完全に詰んだ。三回リトライしても同じところで止まる。
『もう無理よ。みやびの頭では無理。——あっ、待って。もしかして、この斜めの……やだ、いけそう! ——きたっ!!』
>きたああああ
>天才かよ
>ポンコツからの逆転劇
>クリアおめでとうなんよ!!
>今日も配信ありがとうございます。最高でした
>モデルの表情の動きすごくない? 喜んでるときの目の輝きがリアルすぎる
事務所の湊はモニターに向かっていた。OBSのダッシュボード、音声レベルメーター、映像のビットレート、トラッキングの安定度。全て正常値で推移している。楓の自宅からの初配信だったが、回線は安定していた。遅延も許容範囲内。
隣にいたときには聞こえていたものが、聞こえなかった。楓がマイクに向かう前に「よし」と息を吐く音、椅子の軋み、配信中に凛と目を合わせてくすっと笑う声。Discordの回線は音声を運ぶが、空気は運ばない。OBSの数値は楓の声の周波数と振幅を教えてくれるが、表情は教えてくれなかった。
配信は一時間で終了した。
『今日はここまで。パズル、全然ダメだったわね。——でも楽しかったわ。みんなのコメントがなかったら途中で投げ出してたかも。ふふ、また挑戦するから、そのときは応援してちょうだいね』
>おつみやび
>次も楽しみ
>おつかれさまなんよ!また来るんよ
>今日も配信ありがとうございます。ゲーム実況、またやってほしいです
>歌枠もお願いします
『みなさん、おやすみなさい。いい夢を見てね』
配信が終わって、楓はヘッドセットを外した。部屋が急に静かになった。コメント欄のテキストが止まり、画面の向こう側の人たちが一斉にいなくなったような感覚。さっきまで賑やかだった画面が、ただのモニターに戻っている。
イヤモニの音声だけが残っていた。
「おつかれさまです。配信、すごくよかったですよ。コメント数は八十件超えてます」
湊の声。回線越しの、ほんの少しだけ硬い声。
「ありがとう、湊くん。——ねえ、一人で配信するの、不思議な感じだった」
「不思議?」
「うん。事務所だと、振り向けば湊くんと凛ちゃんがいたでしょ。でも今日は画面しかなくて。コメントが流れてきて初めて、あ、人がいるんだ、って思えた。舞台と似てるかも。客席は暗くて見えないけど、拍手が聞こえたら人がいるってわかる」
「拍手の代わりにコメントがある、みたいな感じですか」
「そう。でもコメントのほうが——なんていうか、顔が見えるの。文字なのに」
湊は少し間を置いてから答えた。
「画面の向こうにいる人は見えないけど、確かにそこにいる。——配信って、そういうものかもしれないですね」
楓が笑った。Discordの回線が、その笑い声を少しだけ圧縮して届けた。
「そうだね。——じゃあ、明日事務所で振り返りしよう」
「はい。凛さんがアナリティクスまとめてくれてると思います」
通話を切った後、湊は事務所の椅子に深く座り直した。モニターには配信のダッシュボードが表示されている。最大同接十一人。平均視聴時間四十二分。コメント数八十三件。ゲーム実況という新しいジャンルへの挑戦としては、上々の数字だった。
湊はログを保存して、トラッキングデータの解析画面を開いた。表情パラメータの推移を確認する。今日の配信中、みやびの表情は楓の演技に忠実に動いていた。パズルで焦ったときは焦り、クリアしたときは喜び、リスナーと話すときは穏やかに微笑む。表情バグのような逸脱はなかった。
「……今日は、正常か」
独り言が、誰もいない事務所に落ちた。エアコンの送風音だけが返事をしている。楓がいないこの部屋は、いつもより広く感じた。




