はじめまして、みやびです
楓の指先が冷たかった。
五月上旬の宮崎は日中は汗ばむほどの陽気だが、夜になるとまだ空気がひやりとする。事務所の六畳一間は配信の三十分前から人の体温で温まっているはずなのに、マイクのポップガードに触れた楓の指先だけが白い。瀬川湊はサブモニターのOBS画面を確認しながら、視界の端でそれに気づいていた。
配信開始は二十時。事務所には既に三人が揃っている。パイプ机の中央にマイクとポップガード。楓がその正面に座り、ウェブカメラが楓の顔を正面から捉えている。湊は楓の右手側、机の端に置いたサブモニターに向かっていた。メインモニターにはみやびのアバターが表示され、サブモニターにはOBSの配信画面と音声メーターが並んでいる。壁際の折りたたみ椅子には桐谷凛がノートPCを膝に置いて座っていた。コメント管理用のウィンドウを開いて、配信枠の待機画面を確認している。六畳に三人。楓と湊の椅子の間は肘がぶつかる距離で、凛の背中は吸音材を貼った壁に触れている。
湊はセキュリティチェックリストを上から順に潰していった。OBSの配信シーンがウィンドウキャプチャになっていること——確認。デスクトップ全体が映らないこと——確認。Windowsの集中モードがオンになっていること——確認。通知は全てブロック。配信用PCにプライベートなアプリがインストールされていないこと——確認。トラッキングソフトがクラッシュしても生映像が配信に流れない設定——確認。プレビュー画面に映ってはいけないものがないこと——確認。昨日のリハーサルで作ったチェックリストの項目を、一つ残さず潰す。裏方の仕事は地味だが、これが楓を守る最初の防壁だった。
「全項目クリアです。いつでもいけます」
湊が声をかけると、凛が頷いた。
「楓ちゃん、いつでもいいよ」
凛の声はいつもと変わらない。構えない人だった。
楓が息を吸った。吐いた。もう一度吸って、止めて——目を閉じた。六畳の部屋の空気が一瞬だけ止まったように感じた。壁の吸音材が楓の呼吸音まで吸い込んでいく。
「よし」
小さな声だった。舞台袖で幕が上がる直前に自分へかける、あの二文字。その一言で楓の指先から力が抜けた。震えが止まったのではない。震えごと手放したように見えた。背筋がさらにまっすぐになり、顎が引かれる。リハーサルで見た、楓の「切り替え」だった。
湊が配信開始ボタンをクリックした。OBSのステータスが「配信中」に変わる。みやびの姿がYouTubeの配信画面に映し出された。
『——こんばんは。はじめまして、みやびと申します』
声が変わった。楓の声なのに楓ではない。少し低く、間を含んだ語り方。和風ミステリアスのキャラクターが、画面の中に立ち上がる。
視聴者数のカウンターが「1」を示している。凛のアカウントだった。ゼロではないが、実質ゼロに等しい。湊はその数字を確認してからOBSのエンコーダ状態に目を戻した。CPU使用率は六十八パーセント。余裕がある。
『初めての配信ということで、少しだけ自己紹介をさせてくださいね。みやびは——そうですね、お茶とお散歩が好きな、ちょっとだけ不思議な狐、ということにしておきましょうか』
みやびが首を傾げて微笑んだ。リハーサルよりも力が抜けている。楓は本番の空気に入った途端、舞台役者のスイッチが完全に入ったらしい。声の響き方が変わっている。六畳の部屋の中で、楓ではなくみやびが息をしていた。
視聴者が二人になった。凛ではない、見知らぬアカウントだった。
>初見です
>かわいい
凛が膝の上で小さくガッツポーズをした。湊は音声メーターの針を追いかけていた。入力ゲインの数値が安定している。マイクとの距離も申し分ない。
『あら、来てくださったのね。ありがとう。——嬉しいわ、こうしてお話しできるの』
台本にない言葉だった。楓のアドリブ。みやびの声に温かみが乗る。少ない視聴者だからこそ、一人ひとりに語りかけるような距離感が生まれていた。
配信は三十分の予定だった。自己紹介、雑談、今後の配信予定の告知。凛が用意した構成表に沿って進める。視聴者数は三人から五人の間を行き来して、常にいるのは三人程度だった。コメントもまばらだが、みやびは一つひとつ丁寧に拾っていく。大手の配信では流れてしまうコメントが、ここでは全部拾われる。
『好きなもの? そうですね……お散歩は好きよ。朝の静かな時間に、知らない道を歩くのが好き。角を曲がったら何があるかわからないでしょう? それが楽しいの』
>寄り道タイプだ
>わかる
湊はそのコメントにちらりと目をやった。事務所名と同じだ。偶然だろうが、凛も気づいたらしく、何かメモを取っている。
>地方勢応援してる
>宮崎なんだ
楓はコメントの一つひとつに丁寧に反応した。無視されるコメントがない。少ないからこそ、全員に向き合える。湊は音声レベルの微調整を続けながら、楓の声の変化を耳で追っていた。テンションが上がると声の周波数がわずかに高くなる。マイクの入力ゲインを0.5dB下げた。聞き続けるリスナーの耳には、こういう微細な調整が効いてくる。
配信の後半、音声が一瞬途切れた。
>一瞬切れた?
>聞こえてるよ
湊の指がキーボードに走った。音声ドライバの設定画面を開く。バッファサイズが小さすぎた。ノートPCのスペックでは配信とトラッキングの同時処理でCPU負荷が跳ね上がる。バッファサイズを256から512に変更。処理に二秒。
その二秒の間、楓はみやびのキャラクターを保ったまま話し続けていた。
『——あら、少し回線が気まぐれだったかしら。失礼しました。さて、そろそろお時間ですので——』
声に動揺がない。七年の舞台経験が、こういうところで支える。音声トラブルで素に戻るのは初心者VTuberにありがちなことだが、楓にはそれがなかった。舞台では照明が落ちても、共演者がセリフを飛ばしても、動じた姿を客席に見せないのがプロだ。楓の身体にはそれが染みついている。
『今日は来てくださって、本当にありがとうございました。またお会いできたら嬉しいわ。——みやびでした。おやすみなさい』
みやびが静かに目を閉じて、微笑んだ。
湊が配信終了ボタンを押した。
画面が暗転した瞬間、配信中には聞こえなかった音が戻ってきた。エアコンの送風。窓の外の虫の声。パイプ机がわずかに軋む音。楓がヘッドセットを外して、椅子の背もたれに沈み込んだ。長い息を吐いた。額にうっすらと汗が光っている。三十分の配信が、楓の身体から何かを絞り出したように見えた。
凛がペットボトルの水を差し出した。楓は受け取って、半分を一気に飲んだ。
「お疲れ。——よかったよ、楓ちゃん」
凛がアナリティクスの画面を開いている。湊はOBSのログを保存しながら、横目でその数字を見た。
「平均視聴時間が長いね。入った人はほぼ最後まで見てる」
「三十分間ずっと見てたってことですか」
「そう。五人しか来なかったけど、その五人はほとんど離脱してない。——最初の配信としては、すごくいい手応えだと思う」
湊はOBSのログを保存して、配信アーカイブの確認に移った。音声の途切れは一箇所。バッファサイズの変更で対応済み。次回はプリセットごと変更しておく。トラッキング精度は最後まで安定していた。みやびの表情は三十分間、滑らかに動き続けていた。0.02まで追い込んだまぶたの動きも、ちゃんと機能している。
ふと、コメント欄に目が止まった。配信終了後に書き込まれた、最後のコメント。
>初配信おめでとう。面白かった。また来ます
楓がモニターを覗き込んで、そのコメントを見つけた。
しばらく動かなかった。口元がかすかに揺れて、それから引き結ばれた。楓の手がモニターの縁を掴んでいて、その指先はもう冷たくはなかった。




