リハーサルと素顔
「Xのアカウント作るよ。アイコンは花よみさんのイラスト使おう」
桐谷凛がノートPCの画面を叩きながら言った。初配信の前日、五月上旬の事務所は窓を閉め切ってエアコンをつけている。六畳一間のパイプ机にはコンデンサーマイクとポップガードが据えられ、壁際にはトラッキング用のウェブカメラが三脚に載っている。明日に向けた準備の、最終段階だった。
白石楓がスマートフォンを取り出した。
「Xなら私の個人アカウントあるけど。それ使えないかな」
「絶対に紐付けないでください」
瀬川湊の声は、自分でも驚くほど鋭かった。ペンタブレットから手を離して椅子ごと振り向く。楓が目を丸くしている。
「フォローもいいねもダメです。楓さんの個人アカウントとみやびのアカウントが繋がると、そこから身元が辿られます」
「え、そんなに?」
「SNSの相互フォローやいいね履歴は、特定の材料にされます。VTuberの身バレ原因で一番多いのがSNSの紐付けなんで」
楓はスマートフォンを膝の上に置いた。凛がPCの画面を見ながら頷いている。
「湊の言う通り。みやびのアカウントは完全に新規で作る。個人アカウントからは触らない」
「ついでに確認させてください。楓さん、配信に使うPCのWindowsユーザー名って何になってます?」
「え? 普通に本名だけど」
「変えてください。スタートメニューやファイルパスが配信中に映り込むと、本名がそのまま出ます」
楓がまばたきを繰り返した。
「そんなところで?」
「はい。あと配信中は集中モードをオンにします。LINEやメールの通知がデスクトップに表示されると、そこから連絡先や本名が漏れる。これも身バレの定番です」
湊はサブモニターの横にメモ用紙を置いて、配信前に毎回チェックする項目を箇条書きにし始めた。OBSのシーン設定、プレビューの確認、トラッキングソフトのフェイルセーフ。
「……そんなに怖いの? ネットって」
楓の声に不安が混じっていた。パソコンもSNSも「使えるけど詳しくない」楓にとって、身バレのリスクは想像の外にあるものだったのだろう。
「怖いっていうか、対策すれば防げることです。だから最初にちゃんとやっておきたい」
凛がノートPCを楓に向けた。
「はい、じゃあまずアカウント作ろう。名前は『みやび@ヨリミチ』でいい? プロフィールはこれから三人で考えよう」
楓の表情が切り替わった。不安がすっと引いて、「やろう」という顔になる。
「プロフィール文って何書けばいいの?」
「短くていいよ。みやびがどんなキャラかわかって、配信を見てみたくなるような一文」
凛が椅子の背もたれに腕を乗せた。楓は顎に手を当てて考え込んでいる。
「うーん。『和風ミステリアスな狐のVTuber』——普通すぎるかな」
「もうちょっとみやびの口調で書いたら?」
湊が口を挟んだ。自分でも珍しいと思った。
「みやびの口調? ……あ。『角を曲がったら何があるかわからない。それが楽しいの。——みやびです』、みたいな?」
凛がスマートフォンを机に置いた。
「いいんじゃない? 寄り道っぽい。事務所名とも合うし」
「合ってる?」
「うん。——湊はどう思う?」
「いいと思います。キャラクターの空気が出てる」
三人で文面を微調整して、アイコンに花よみのイラストを設定し、プロフィールを保存した。フォロワーはゼロ。ヨリミチ公式と相互フォローして、一になった。
「じゃあリハーサル入ろう」
楓がマイクの正面に座り、湊が机の端のサブモニターに向かい、凛が壁際の折りたたみ椅子に着いた。六畳に三人。肩が触れそうな距離だった。
楓が深く息を吸った。
姿勢が変わった。背筋がさらに伸び、顎がわずかに引かれる。肩が下がり、指先が膝の上で静かに揃えられた。まるで舞台袖から出る直前のように、空気ごと切り替わる。
ウェブカメラがトラッキングを開始し、サブモニター上のみやびが楓の動きに合わせて瞬きした。
『——こんばんは。みやびです』
声が違った。楓の声なのに楓ではない。半音ほど低く、ゆったりとした間を持った話し方。画面のみやびが穏やかに微笑む。楓の演技とアバターの表情が噛み合っている。トラッキングの精度、リップシンク、表情パラメータの応答——湊の頭の中でチェック項目が走った。全部、問題なかった。
でも、それとは別の次元で——みやびは、生きていた。
「すごいな」
思わず声が出た。凛が壁際でにやりとした。
「でしょ。あたしの見る目、確かでしょ」
「……はい。認めます」
『ふふ、気になるかしら? 今日はね、ちょっと面白いお話を持ってきたの——』
みやびが片目をつぶった。楓の身体が覚えている演者の技術が、トラッキングを通じてアバターに乗り移っている。
リハーサルは二時間続いた。凛が用意した質問リストに沿って、みやびとして受け答えをしていく。
ただ、時々。
『——好きな食べ物は……』
みやびが考えるふりをした直後に、楓の素が混じった。
「あ、チキン南蛮。——違う。みやびはそういうの言わないよね」
凛が吹き出した。
「チキン南蛮はみやびのキャラじゃないわ」
「だよね。えーと、みやびなら……和菓子とか?」
「そういうのは事前に決めておこう。チキン南蛮は楓ちゃんの好物として取っておいて」
楓が恥ずかしそうに笑った。ミステリアスの仮面が外れて、天真爛漫な素顔が覗く。一瞬で別人になれるのに、素に戻るのも一瞬だった。
凛がペンを立てた。
「あとね、楓ちゃん。配信中に具体的な地名は言わないで。チキン南蛮は宮崎のものって有名だからまだいいけど、お店の名前とか『近くの○○』とか、そういうのは全部アウト」
「え、そうなの?」
「住んでる場所を特定されるきっかけになる。環境音もだけど、言葉でも手がかりを与えちゃうから」
楓は頷いた。さっきの湊のセキュリティの話と、凛の注意が楓の中で繋がったようだった。
リハーサルの後半では配信全体を通しで練習した。凛がタイムキーパーをしながらフィードバックを出していく。
「自己紹介、もう少し短くていいかも」
「短い? 舞台だと丁寧にやるんだけどな」
「配信と舞台は違う。リスナーは最初の三十秒で続きを見るか決めるから。掴まないと離脱される」
楓がスマートフォンでメモを取り始めた。
「三十秒か。——結構シビアだね」
「でも楓ちゃんなら大丈夫。声に力があるから、掴みは問題ない」
その間も、湊はサブモニターでトラッキングのログを追っていた。楓がみやびを演じている間、表情パラメータのグラフは安定した波形を描いている。プロの演者は表情筋のコントロールが正確で、データで見ても一般人との差が明瞭だった。
ところが、楓が素に戻った瞬間——パラメータが跳ねた。口角の動き、眉間の微動、まばたきの頻度。すべてが不規則になる。演技中は抑えられていた微表情が、素に戻ると一気に解放される。
面白いデータだった。湊はログのスクリーンショットを保存した。「演じている表情」と「素の表情」がこれほど明確に数値で分離できるのは、楓だからこそだった。
リハーサルが終わったのは夜八時だった。窓の外はとっくに暗い。凛がOBSの最終設定を確認する間に、湊はセキュリティのチェックリストを上から順に潰していた。
「湊くんは緊張しないの?」
楓が聞いた。帰り支度を始めながら。
「俺は配信に出るわけじゃないんで」
「でも裏方でしょ。何かトラブルがあったら湊くんが対応するんでしょ?」
「まあ——なんとかなりますよ」
楓が小さく笑った。
「その言葉、信じるね」
凛が鍵を手に取って立ち上がった。
「よし、今日は解散。明日は二十時から配信。十九時集合ね」
帰り際、楓は玄関で立ち止まった。
モニターの中で、みやびが微笑んでいる。トラッキングが切れた状態のデフォルトの表情。静謐な笑みを浮かべた狐のアバターが、暗くなりかけた事務所の画面の中で楓を見つめていた。
楓がモニターに向かって、小さく口を開いた。
「明日、よろしくね」
その声はみやびの声ではなかった。楓自身の、素の声だった。
湊にはそれが、演者がキャラクターに語りかけているのか、明日の自分に言い聞かせているのか、区別がつかなかった。凛だけが壁際から楓の背中を見ていた。




