狐と0.02
白石 楓がヨリミチに加わって三日目の朝、桐谷 凛がクリアファイルを差し出した。
「ちゃんと契約書、作ったから」
六畳の事務所に三人が揃っている。パイプ椅子が二脚と折りたたみ椅子が一脚。瀬川 湊はいつも通り床に座っていたが、今日は凛に呼ばれて椅子に移った。契約書を見る必要があったからだ。
「契約書?」
楓がクリアファイルを受け取って中を開いた。「業務委託契約書」と印字された紙が二部。
「ネットで調べてテンプレをベースにしたんだけど、ちゃんと中身は確認してほしい」
凛が言うと、楓はページをめくりながら目を動かした。報酬、業務内容、契約期間、知的財産の帰属——項目が並んでいる。
「こういうの、初めてです。劇団のときはなんとなくの口約束だったから」
「だからこそ、ちゃんとやっておきたいんだよね。楓ちゃんの分と、湊の分。二通あるから」
湊も自分の契約書を受け取った。制作物の著作権は事務所帰属、外注仕事の報酬は七対三。目を通して問題ない。
「権利関係は最初に決めておいたほうがいいですよ」
湊が言うと、凛が「ほらね」と楓に向けた。
楓は報酬の欄に目を止めた。「当面ゼロ。収益化後、配信収益の七割を楓に配分」——面接のときの口頭確認がそのまま文字になっていた。
「アバターのIPは事務所帰属、か」
楓がその一文を指でなぞった。
「アバターの名前とデザインは事務所のものってことだよね。もし私が辞めたら、アバターは残る」
「うん。そこは正直に書いた。嫌なら相談して」
「ううん。むしろ安心する。アバターが私のものだったら、失敗したとき全部自分のせいになる。でも事務所のものなら、みんなで守るってことでしょ?」
凛が一瞬、目を見張った。
「……うん。そういうことにしよう」
三人が契約書にサインした。パイプ机の上にボールペンの音が三回響いた。個人事業主と二人の業務委託。小さな始まりだった。
みやび——VTuber名は、その翌日に決まった。
和風ミステリアスの方向性は凛が提案し、楓がキャラクターの骨格を膨らませた。狐のモチーフ。着物風の衣装。「化かす」という狐の属性と、「演じる」という楓の本質が重なっている。演じる対象が具体的になると楓は途端に饒舌になった。声の使い分けまで初日から試し始めて、凛が「まだ早い」と笑って止めたくらいだった。
キャラクターデザインは凛がイラスト依頼サイトで見つけた個人イラストレーターに発注した。ペンネームは「花よみ」。ポートフォリオの和風イラストが目に留まり、まだ大きな実績がないぶん小規模事務所の予算でも受けてくれた。
VTuber用のイラストはパーツ分けが必要になる。目、眉、口、髪、衣装——それぞれを別レイヤーに分けた状態で納品してもらい、そのデータを元にLive2Dでモデリングする。イラスト一式とパーツ分けで約四万円。著作権は事務所に譲渡する契約だった。
VTuber業界では、キャラクターデザインを描いたイラストレーターを「ママ」と呼ぶ。モデリング担当は「パパ」。楓がデビューしたら、花よみは「みやびのママ」になる。そして湊は——パパだった。本人にその自覚はまだなかったが。
花よみからイラストが上がったのは発注から五日後だった。白と紫を基調にした着物風の衣装、狐耳と尻尾、金色の瞳。楓の天真爛漫さとはまるで違う、静謐なアバターだった。モニターに表示させると、楓はしばらく黙って見つめていた。
「……これが、みやび」
「どう?」
「すごい。こんなふうに見えてたんだ、凛ちゃんには」
「あたしが見えてたわけじゃないよ。花よみさんが描いてくれたんだから」
「でも方向性を出したのは凛ちゃんでしょ」
凛が肩をすくめた。楓は画面に手を伸ばしかけて、指先がモニターの手前で止まった。触れたら消えてしまうとでも言うように。
ここからが湊の仕事だった。
翌日、湊は自宅からサブモニターを担いできた。ノートPCの画面だけではLive2Dの作業領域が足りない。パイプ机の端に据えると、六畳の作業スペースが少しだけ専門家の仕事場に近づいた。
花よみから届いたPSDファイルを開き、レイヤーの構造を確認する。パーツの分割は丁寧だった。湊はLive2Dのエディタに素材を読み込み、メッシュの割り当てに入った。パーツごとにポリゴンを細かく切り、動きを定義していく。細かく割れば自然に動くが負荷も上がる。配信用PCとの兼ね合いを計算しながら、指はペンタブレットの上を走り続けた。
制作に入ると、湊は寡黙になった。イヤホンをして作業用のBGMを流しているから、話しかけても気づかないことがあった。
表情の動きをつける段階に入ってからが本番だった。目の開閉、口の開度、眉の角度、首の傾き、髪の揺れ——すべてを0.01刻みで追い込んでいく。トラッキングソフトがカメラで検出した顔のランドマークを、どのパラメータにどう変換するか。その対応表を一つずつ詰めていく作業だった。
楓は制作期間中も事務所に通い、凛とキャラ設定を詰めたり配信アーカイブを研究したりしている。時々、湊の作業を後ろから覗き込んでは「すごいね」と言って戻っていく。
制作五日目の昼。
「湊くん、お昼——」
楓が声をかけたが、返事がなかった。肩を叩いてようやく振り向く。
「あ、すみません」
「もう二時だよ。四時間、席立ってないでしょ」
湊は画面右下の時計を見た。本当に十四時だった。
「……すみません、いただきます」
コンビニのおにぎりを食べながら、楓が湊の画面を覗き込んだ。みやびの顔がモニターに表示されている。スライダーを動かすと、まばたきをする。
「すごい、もう動くんだ」
「動くだけなら早いんです。問題は精度で」
湊はスライダーをゆっくり動かした。みやびのまぶたが閉じていく。
「ここ見てください。まぶたが閉じるとき、最後の0.02のパラメータで睫毛が重なるんです。これがあるかないかで自然さが全然違う」
楓がじっと画面を見つめた。
「……正直、違いがわからない」
「わからなくていいんです。見てる人が無意識に『自然だ』と感じるかどうかの話なので」
湊はスライダーを何度も往復させた。おにぎりの海苔の匂いと吸音材の匂いが混じる六畳の部屋で、画面の中のみやびだけが無音で瞬きをしている。
制作七日目。口の動きの調整中に、楓がふと声をかけた。
「ねえ、湊くん。みやびの口、もうちょっと開いてもいいかも」
「え?」
「ミステリアスだから口は控えめにしてるんだよね。でもさ、素が出ちゃうときもあると思うんだ。そういうとき、ちゃんと大きく動いたほうがギャップになるっていうか」
楓は恥ずかしそうに手を振った。
「ごめん、素人が口出して」
「いや——いい意見です。口の開度の上限を上げます」
楓のフィードバックをそのまま反映した。表情の自然さは数値で追えるが、「演じるときにどう感じるか」は楓にしかわからない。
「ねえ、湊くん」
「はい」
「私のために、ここまでやってくれるんだ」
湊の手が止まった。
「いや、これは別に——クオリティの問題です」
「そうなの?」
「そうです。妥協したくないだけです」
楓が笑った。見透かすような笑い方ではなく、純粋に嬉しそうだった。
「ありがとう。ちゃんとした人に作ってもらえて、よかった」
湊はおにぎりの包装紙を丸めた。耳の奥が熱い。感謝されることに慣れていなかった。
夕方、凛が営業回りから戻ってきた。
「進捗どう?」
「あと四、五日です」
「見せて」
湊がみやびのモデルを動かしてみせた。まばたき、口の動き、首の傾きが滑らかに連動する。凛は腕を組んで画面を見つめた。
「……いいね。すごくいい。楓ちゃん、これ見た?」
「見たよ。0.02の話、聞いた?」
「何それ」
「まぶたのね、最後の0.02のパラメータで睫毛が——」
楓が説明し始めた。湊から聞いた話を、自分の言葉で凛に伝えている。身振りまで交えて。自分の仕事が誰かの口を通して別の誰かに届くのは、不思議な感覚だった。
凛はにやりとした。
「へえ。——楓ちゃん、もうプロデューサー側の感覚あるじゃん」
「え、そんなことないよ」
「受け取り方を翻訳できる人は貴重だよ」
楓が照れたように髪をかき上げた。
凛と楓が帰った後も、湊はモデルの調整を続けていた。眉の動き、体の揺れ、髪の物理演算。
画面の中で、みやびが微笑んだ。まだ楓の声は入っていない、無音のアバター。でもその表情には、もう命が宿り始めていた。




