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元女優と面接

瀬川(せがわ) (みなと)は朝から机を拭いていた。


面接に机が汚いのはまずいだろう、と思っただけだった。桐谷(きりたに) (りん)は「別にいいじゃん」と笑ったが、湊は黙って拭き続けた。ついでに床も掃除機をかけた。掃除機は近所のリサイクルショップで千五百円。吸引力は値段相応だったが、ないよりはましだった。


「緊張してる?」


「してないです。掃除してるだけです」


「掃除するほど緊張してるってことでしょ」


凛はパイプ椅子に座って、片足を組んでいる。いつもと変わらない。面接をする側なのに、面接される側より余裕がある。窓の外は四月の陽光が眩しく、フェニックスの葉が揺れていた。


十三時半、凛のスマートフォンが鳴った。


「あ、もしもし。——うん、今から迎えに行くから、そこで待ってて」


凛は立ち上がって車のキーを手に取った。


「駅前にいるって。ちょっと拾ってくる」


「え、凛さんが行くんですか」


「土地勘ないでしょ、引っ越してきたばかりの子に歩かせるのもなんだし」


凛はサンダルに足を突っ込んで外階段を降りていった。軽自動車のエンジン音が聞こえ、やがて遠ざかっていく。湊はその間に配線類を端に寄せ、折りたたみ椅子を二脚並べた。


十五分ほどして、外階段を上る足音が二人分聞こえてきた。


ドアが開いた。


「はじめまして。白石(しらいし) (かえで)です。今日はよろしくお願いします」


声が大きかった。アパートの廊下に響くような声量で、湊は反射的に壁の吸音材に目をやった。隣の部屋に聞こえなかっただろうか。


玄関から入ってきた女性は、明るい茶髪のロングヘアで、背筋がまっすぐに伸びていた。Tシャツにデニムのスカートという軽い格好なのに、立ち方だけで舞台の人間だとわかる。足の裏全体で床を踏んでいる。重心がぶれない。


凛が後ろから「社長っていっても、見ての通りだけど」と部屋を見回すように手を広げた。


楓は六畳の部屋を見て、一瞬だけ目を見開いた。でもすぐに笑った。


「思ってたより——ちゃんとしてますね。機材とか」


「そこ見るんだ。普通、部屋の狭さに驚かない?」


「劇団の稽古場もこんなもんでしたから」


凛がにっと笑った。気に入った顔だった。


「座って。——あ、椅子足りない。湊、床でいい?」


「はい」


湊はまた床に座った。楓がパイプ椅子に座り、凛はもう一脚の折りたたみ椅子に腰を下ろした。楓と凛は向き合い、湊は少し離れた位置から二人を見ている格好になった。


「えっと、こちらは——」


楓が湊を見た。


「瀬川湊です。技術担当で」


「技術担当。すごい、専門のスタッフがいるんですね」


「いるっていうか、一人ですけど」


「一人でも専門がいるのは心強いですよ。劇団時代、音響も照明も全部自分たちで回してたので」


楓の声は明るかった。初対面の部屋で、自分から空気を作れる人だった。場を盛り上げようとする意識が呼吸のように入っている。


凛が本題を切り出した。


「応募の動機、読んだよ。七年間、舞台に立ってたんだよね」


楓の笑顔がそのままに、目元だけわずかに力が抜けた。


「はい。高校出てすぐ入って、二十五まで」


「やめた理由、聞いてもいい?」


「——芽が、出なかったんです」


楓はまっすぐ凛を見ていた。


「七年やって、主役は一度ももらえなかった。端役とアンサンブルばっかり。演技は褒められるんです。技巧的にはちゃんとしてるって。でも——何か足りないって言われ続けて」


エアコンの送風音だけが部屋を満たした。壁の吸音材が外の音を吸い取って、室内の沈黙をいっそう深くしている。


「足りないって、何が?」


凛が聞いた。


楓は少し間を置いた。


「わかんないです。ほんとに。演出家にも聞いたんですけど、はっきり答えてくれなくて。『技巧は完璧なんだけどね』って。それだけ」


湊は床に座ったまま、楓の横顔を見ていた。この話をしているときでさえ、口元にはうっすら笑みが残っている。崩さない。崩せないのか、崩さないと決めているのか——湊には判断がつかなかった。


「東京から宮崎に来たのは?」


凛の質問に、楓は視線を膝の上に落とした。


「距離を取りたかったんです。劇団辞めてからも、東京にいると稽古場のそばを通ったり、劇団の仲間とばったり会ったりして。——自分がいた場所の近くにいるのが、しんどくて」


指がデニムスカートの膝の上で軽く握られた。


「宮崎は誰も知り合いがいなくて、遠くて、あったかくて。それだけで選びました」


凛は黙って聞いていた。頷きもせず、否定もせず、ただ受け止めている顔だった。


「それでVTuberに?」


「はい。顔を出さなくていい、声と演技で勝負できる。それならもう一回やれるかもしれないって」


楓の声に芯が戻った。


「甘いですかね」


「ぜんぜん」


凛が即答した。


「むしろ七年の舞台経験は、VTuberの世界じゃとんでもないアドバンテージだよ。プロレベルの演技力を持ってる子なんてほとんどいない」


楓の目が見開かれた。一瞬、笑顔が崩れた。嬉しさではなく、戸惑いに近い表情だった。そういう言葉を期待していなかったのか、どう受け取ればいいのかわからないようだった。


凛は構わず続けた。


「ミステリアス系のキャラとか、いけるんじゃない? 和風の、落ち着いた感じの」


「ミステリアス? 私、こんなですけど?」


楓が自分を指さして笑った。目の前の楓は、どう見ても天真爛漫の塊だった。


「だからいいんだよ。素と演技のギャップがあるVTuberは強い。——ね、湊」


急に振られた。


「あ、はい。それはデータ的にもそうで、キャラクターが崩れる瞬間のほうが配信のコメント欄が伸びる傾向があるんです。リスナーは完璧な演技より、素が見えたときに親しみを——」


「湊くん」


楓が目を丸くして遮った。


「すごい早口だね」


凛が横で笑っている。


「……すみません。技術の話になると止まらなくて」


「ううん。すごく真剣にやってくれてるのが伝わるよ」


楓が本気で感心している声だった。社交辞令ではない響きがある。湊は吸音材に視線を逃がした。


凛が一つ息を吐いて、声のトーンを変えた。


「楓ちゃん、ひとつ正直に言っておくね」


楓の背筋がわずかに伸びた。


「報酬は、当面出せない。うちは立ち上げたばかりの個人事業で、VTuber事業の収入はまだゼロだから。配信が軌道に乗って収益化できたら、配分は相談する。でも今は——ゼロ」


凛の声は飄々とした普段とは違って、ゆっくりで、はっきりしていた。


楓は一拍置いて、頷いた。


「応募のときにも書いたんですけど、宮崎で飲食店のバイトもう見つけてます。ランチタイムのシフトなんで、配信が夜なら両立できるかなって。生活費は自分で何とかするので、大丈夫です」


凛が少し目を見開いた。楓は続けた。


「七年間、バイトしながら芝居やってたんで、お金ないのは慣れてます。——なので、そこは心配しないでください」


凛の口元がゆるんだ。安心ではなく、覚悟を確認した顔だった。


「じゃあ結論。——楓ちゃん、うちに来ない?」


「え、もう?」


「もう。あたしの勘は、早いほうがいい」


楓は凛と湊を交互に見た。それから深く息を吸い込んだ。肩が上がって、ゆっくり下がる。


「よし」


小さな声だった。気合を入れるような、自分に言い聞かせるような。


「よろしくお願いします」


楓が頭を下げた。凛が笑い、湊は床の上で軽く頭を下げ返した。


帰り際、楓は玄関で振り返った。


「あの、ひとつ聞いてもいいですか」


「どうぞ」


「この事務所の名前、ヨリミチって——どういう意味ですか?」


凛と湊が同時に凛のほうを見た。凛は一瞬、窓の外に目をやった。


「なんとなく」


楓が首を傾げた。でも深くは聞かず、「不思議な名前ですね」とだけ言って笑った。


「車で送るよ」


凛がキーを手に取ると、楓は遠慮したが、凛は「土地勘ないでしょ」とあっさり連れ出した。外階段を降りる足音が軽い。


ドアを閉めた後、六畳の部屋が少しだけ狭くなった気がした。三人分の気配が残っている。社長と技術者とVTuber。三人揃った。


湊は壁の吸音材に目をやった。今日の楓の声量なら、壁一枚越しにアパートの住人全員に聞こえてもおかしくない。防音対策は本腰を入れないとまずいかもしれない。

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