応募と一通
募集を出してから一週間が経っていた。
事務所のアパートは、あの日とは別の部屋のように変わっている。壁の一面には吸音材が隙間なく貼られ、パイプ机の上にはループバック機能付きのオーディオインターフェースと単一指向性のコンデンサーマイクがセットされていた。ポップガードの角度は瀬川 湊が三回やり直して決めたもので、マイクとの距離は拳ひとつ分。トラッキング用のウェブカメラがモニター上部に載っていて、湊のノートPCにはOBSと配信ソフトが並んでいる。
配信ブースと呼べるかどうかは怪しいが、六畳の中に最低限の形はできていた。
この一週間、湊は朝から晩まで環境構築に没頭していた。ケーブルの取り回しを詰め、ソフトウェアの設定を潰し、マイクのゲインをひとつずつ追い込む。ファンタム電源を入れてコンデンサーマイクに声を通すと、指向性の狭いカーディオイドパターンが正面の声だけを拾って、背面の壁越しに漏れるテレビの音はほぼ消えた。壁の薄さを考えればかなり上出来だった。一つ片付けると次の課題が見え、桐谷 凛は横で営業メールを打ったりSNSを更新したりしている。二人とも黙って作業する時間が長く、それが不思議と心地よかった。
ただ、一つだけ進まないことがあった。
「応募、来た?」
湊が聞くと、凛はスマートフォンを持ち上げた。
「ゼロ」
「ゼロか」
凛はパイプ椅子に座ったまま、画面を湊に見せた。SNSの募集投稿。いいねが三件、リポストが一件。コメントはゼロ。
「まあ、そうですよね」
湊は吸音材の端を指で押さえながら言った。浮いている箇所にテープを補強する必要がある。
「そうですよねって、軽くない?」
「冷静に考えたら当然じゃないですか。宮崎の無名事務所ですよ。フォロワーもほぼゼロで」
「二十三人いるよ」
「うち何人が身内ですか」
凛が黙った。湊はテープを引き出して壁に押し当てた。
「……十八人」
「ですよね」
凛がペットボトルのお茶を飲んだ。窓からの風が吸音材の匂いを薄く運んでくる。ウレタンの化学的な匂い。新品の部屋のような、どこでもない場所のような。
「VTuberの募集系まとめサイトにも投稿したんだけど、反応なし。宮崎ってだけでフィルターかけられてるのかも」
「地方差別じゃないですか、それ」
「差別っていうか、現実だよ。VTuberって今、五万人以上いるんだよ。その中で登録者千人いかない人のほうが多い」
湊はテープを貼る手を止めた。
「東京の大手事務所に入れるチャンスがあるなら、宮崎の聞いたこともない事務所を選ぶ理由がないじゃないですか」
凛は足を組み替えた。窓の外からスズメの鳴き声がした。四月の宮崎は日が長くて、午後の光がまだ明るい。
「湊って、そういうの調べてるんだ」
「配信環境作るのに市場のこと知らないと適正値がわからないんで。ついでに数字も拾ってます」
「ついでね」
凛は少しだけ目を細めた。興味があるときの顔だった。
「じゃあさ、その五万人の中で、地方事務所から出てきて成功した例はある?」
「ないことはないです。でも少ない。——宮崎発はたぶんほぼゼロです」
「ゼロか。……いいね、それ」
凛の声のトーンが変わった。湊は吸音材を押さえていた手を止めた。
「いい、ってどういう意味ですか」
「前例がないってことは、やったら最初になれるってこと。——まあ、それだけじゃ商売にならないけど」
凛はお茶のペットボトルを机に置いた。
「募集文、変えてみます? 条件を具体的に書くとか」
「条件ね。何書く? 報酬は当面ゼロだし、事務所は六畳だし」
「それは書かないでください」
「正直でいいじゃん」
「正直すぎると人が逃げます」
凛が口をとがらせた。でもすぐに首を振った。
「あのさ、条件で来る子はいらないんだよね。この募集文に引っかかる子がいい。『あなたの面白さを、届けたい人へ』——これに何か感じる子」
「感じる子って、そんな都合よく——」
湊の言葉を遮るように、凛のスマートフォンが振動した。
メールの通知だった。凛が画面を見て、指の動きを止めた。
「……来た」
「え?」
「応募。一件」
湊は吸音材から手を離して、凛の後ろから画面を覗き込んだ。
応募フォームの回答だった。名前、年齢、経歴、志望動機。上からスクロールしていくと、志望動機の欄だけが異様に長い。他の項目は簡潔にまとまっているのに、そこだけ別人が書いたように熱量がある。
凛が黙って読んでいる。湊も一緒に目を動かした。
元劇団員。高校卒業後に東京の小劇団に入り、七年間舞台に立ち続けた。退団の理由は書かれていない。その後、東京を離れて宮崎に来た。理由は「物理的に距離を取りたかった」とだけ。VTuber経験はない。配信経験もない。パソコンのスペックは「よくわかりません」と正直に書いてある。
生活については一行だけ添えてあった。「宮崎で飲食店のバイトを見つけているので、生活費は自分で何とかします」——自分の食い扶持の心配はしないでくれ、という意思表示だった。
でも志望動機の文章には、迷いがなかった。
自分には演じることしかない。舞台を離れてもその気持ちは変わらなかった。アバターの向こう側でなら、もう一度誰かの前に立てるかもしれない。そう思った、と。
最後の一文にこうあった。
「もう一度、誰かの前で演じたい——この言葉が、募集を見たときから頭を離れませんでした」
凛がスマートフォンを机に置いた。画面を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。
湊は凛の横顔を見ていた。窓から差す午後の光が、凛の頬のラインを白く照らしている。興味がないものにはリアクションが薄い人間の顔が、今は明らかに違っていた。
「……凛さん?」
「この子、会ってみよう」
声が変わっていた。普段の飄々とした調子ではなく、静かに力のこもった声。
「名前は——白石 楓さん、ですか」
「うん。白石楓。二十五歳。あたしと同い年だ」
凛はスマートフォンを手に取り直して、画面を上下にスクロールした。
「でも、VTuber経験なしですよ。配信経験もなし。パソコンもよくわからないって」
「それがどうしたの」
「普通に考えたら不安要素じゃないですか」
「技術的なことは湊がカバーできるでしょ。配信経験は積めばいい」
凛は画面から目を上げた。
「でもね、七年間舞台に立ち続けた人の表現力は、配信を百回やっても手に入らない。——あたし、こういう子を待ってた」
凛の目がまっすぐだった。こういうときの凛に反論しても無駄だということを、湊はサークル時代から知っている。
「面接、いつにします?」
「早いほうがいい。明後日。ここで」
凛は返信を打ち始めた。指の動きが速い。興味があるものを見つけたときの凛は、いつもこうだった。迷わない。迷う前に動く。
湊は吸音材の作業に戻った。壁の端のテープを押さえながら、さっきの応募文がまだ頭の中にあった。
もう一度、誰かの前で演じたい。
七年間舞台に立って、それでも東京を離れなくてはいけなかった人がいる。その人が宮崎のこの六畳の部屋に来ようとしている。湊にはその気持ちの重さが想像できた。自分も東京を出てきた人間だから。理由はまるで違うけれど、「ここではない場所」に来たという一点では同じだった。
吸音材の端を指で撫でた。まだ少し浮いている。テープをもう一枚重ねて、壁に押し当てた。
この壁の向こうで、やがて誰かが声を出すのかもしれない。その声がちゃんとマイクに乗って、ネット回線を通じて、見ず知らずの誰かのスマートフォンやパソコンに届く。配信環境というのはそういう仕組みだった。技術的に言えば、声を音声データに変換し、エンコードしてサーバーに送り、デコードして再生するだけの話だ。でも届く先にいるのは数字ではなく、人だった。
その声がちゃんと届くように、今できることをやる。それが自分の仕事だった。
窓の外から夕方のチャイムが聞こえてきた。五時を知らせる間延びした音楽が、宮崎の空に溶けていく。




