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機材と貯金残高

「予算、聞いていい?」


翌朝、瀬川(せがわ) (みなと)が最初に切り出したのはそれだった。


桐谷(きりたに) (りん)は事務所のパイプ机に向かってノートパソコンを開いていた。昨日と同じTシャツにジーンズ。違うのは缶コーヒーがペットボトルのお茶に変わっていることくらいだ。


「ん? ああ、予算ね」


凛はスプレッドシートを開いた。湊は昨日買った折りたたみ椅子に座って、画面を覗き込む。


数字を見て、黙った。


「……これ、全部?」


「全部。三年分の貯金から事務所に回した分。個人の口座と事務所の口座、分けてある」


事務所口座に百二十万円。そこから家賃と光熱費を引いたら、自由に使える金額はさらに減る。


「家賃がね、月四万五千。光熱費とネット回線で一万五千くらい。あたしの生活費は別で確保してあるから、事務所として使えるのは——」


「月六万ちょっとってことですか。固定費引いたら」


「まあ、そうなるね」


凛の声はいつもと変わらない。三年間事務職で働いて貯めた金の大半をこの六畳に注ぎ込んでいるのに、慌てた様子もなければ、申し訳なさそうにしているわけでもない。ただ事実を並べている。


湊はノートパソコンを開いて、配信環境の構成を書き出し始めた。必要な機材をリストアップして、それぞれの最低価格を調べていく。指が勝手に動く。考えるより先に手が動いていた。


配信用のデスクトップPC。単一指向性のXLRコンデンサーマイク。ループバック機能付きのオーディオインターフェース。トラッキング用のウェブカメラ。OBSを動かすためのスペック。Live2Dのライセンス。照明。吸音材——最低限の構成でも三十万は超える。


「凛さん」


「うん」


「三十万、一括で出せます?」


凛がお茶のペットボトルを持ったまま固まった。


「……何に?」


「配信環境の最低構成。PCと音響と映像機材。これ以下だと品質が厳しい」


「三十万か」


凛はペットボトルのキャップを回した。開けて、閉めて、また開ける。


「出せなくはないけど、出したら残り三ヶ月で干上がるよ」


「ですよね」


湊はリストを見直した。削れるものを探す。オーディオインターフェースは中古を探せばループバック付きでも安いものがある。照明は撮影用の安いLEDパネルで代用。防音は吸音材を壁に部分貼り。PCは——。


「俺のノートPC、スペック的には配信いけます。映像編集用に買ったやつなんで、GPUもメモリもそこそこある。しばらくそれでしのげれば、デスクトップは後回しにできる」


「湊のPCって、作業用でしょ。それ配信に使ったら自分の作業どうするの」


「配信中は俺の作業止めればいいだけです」


「それ、けっこう不便じゃない?」


「まあ——なんとかなりますよ」


凛が少し目を細めた。昨日と同じ台詞だった。でも昨日とは、湊自身の中で響き方が違っていた。


「じゃあPCは後回しで、残りの機材で……いくら?」


湊はリストの数字を叩いた。


「機材だけで七万くらいです。コンデンサーマイクとオーディオインターフェースは新品にしたい。マイクは単一指向性のカーディオイドで、背景ノイズを抑えられるやつ。インターフェースはループバック機能が必要で、ファンタム電源も搭載してるやつじゃないとコンデンサーマイクが動かない。ウェブカメラはトラッキング用に三十fps出ればいいんで安いので十分。あとは照明、吸音材、ポップガード、マイクアーム、ケーブル、電源タップ——」


「湊」


「はい」


「三行でまとめて」


「……機材七万。あとキャラデザのイラスト外注に四万くらい。ソフトのライセンスで一万。残り三万は予備費。全部で十五万あれば最低限の形になります」


凛が「へえ」と言った。興味があるときの声だった。リアクションが薄いときとの差がわかりやすい。


「マイクだけ新品にこだわるんだ」


「配信は声が命ですから。画質は多少落ちても耐えられるけど、音が悪いと離脱されます。それにこの壁の薄さだと、指向性の甘いマイクは隣の音まで拾いかねない」


凛が壁を見た。隣の部屋のテレビの音が、今もかすかに漏れている。


「たしかに。配信中に隣のテレビ拾ったら最悪だね」


「マイクの指向性とゲイン設定で拾う範囲を絞れば、ある程度は抑えられます。でもそのぶん、マイクの品質は落とせない」


「わかった。十五万は出す。内訳はまかせる」


凛はそう言って、スプレッドシートに「初期投資 150,000」と入力した。残高の数字がまた減る。湊はそれを横目で見ながら、機材の購入リストを詰めていった。


午後になって、湊はエアコンのフィルターを外した。


「あ、やってくれるんだ」


「昨日から気になってたので」


台所の流しで埃を洗い落とす。何ヶ月も放置されていたらしく、水が灰色に濁った。フィルターを乾かしている間に、部屋の隅の電源タップの配置を確認する。コンセントは二口が二箇所。配信機材を全部つなぐには足りない。電源タップの買い足しもリストに追加した。


壁を手のひらで押さえてみた。叩くまでもなく、薄いとわかる。隣の部屋の生活音がわずかに漏れている。吸音材を貼るにしても壁全面は予算的に厳しい。マイク周辺だけ重点的に貼って、あとは指向性とソフトウェアのノイズゲートで処理するしかないか——湊は壁の厚さとコンセントの位置を頭の中で配信ブースの配置図に変換していた。机をどこに置いて、マイクをどの角度で立てて、ウェブカメラとの距離はどれくらいか。


「……うーん」


「何ぶつぶつ言ってるの」


「あ、すみません。配置考えてて」


凛が画面から顔を上げた。


「もう頭の中にあるんだ、配信ブースのレイアウト」


「だいたいは。壁が薄いんで、マイクの向きと距離で調整するしかないですけど」


「そういうの全部わかるの、助かるわ」


凛はそれだけ言って、また画面に向き直った。湊も壁から手を離して、乾きかけのフィルターを確認しに行った。


凛はその間、パイプ机に向かってVTuber募集の告知文を書いていた。Xのアカウントは既に作ってある。「ヨリミチ公式」——フォロワーは五人。凛の個人アカウントから誘導した知り合いが全員だった。


「ねえ湊、これどう思う?」


画面を向けられた。SNSに投稿する募集文の下書きだった。


「『宮崎発・新設VTuber事務所ヨリミチ、初期メンバー募集中。経験不問。あなたの面白さを、届けたい人へ。』——長い?」


「いや、いいんじゃないですか」


「適当に言ってない?」


「言ってないですよ。でも俺、そういうの得意じゃないんで」


凛が眉を上げた。


「湊は技術担当だもんね。じゃあ技術的にひとつ聞いていい?」


「はい」


「今の機材と予算で、配信のクオリティってどのくらいいける?」


湊は少し考えた。


「中の上、くらいですかね。大手事務所には遠いけど、個人勢よりは確実にいい環境は作れます。音は特に自信あります」


「中の上か。——それ、面白い子がいたら化ける?」


「演者が良ければ、環境は後からいくらでもついてきます」


凛がにっと笑った。


「いい答え」


夕方、フィルターを元に戻してエアコンをつけた。冷気が明らかに強くなっている。凛が「おお」と声を上げた。


「全然違うじゃん」


「埃がだいぶ詰まってたんで」


「湊が来てから事務所のスペック上がったね。エアコンの」


「エアコンだけですけどね、今のところ」


凛が笑った。湊も少しだけ口の端が上がった。


パイプ机の上には湊が作った機材リストと、凛が書いた募集文の下書きが並んでいる。六畳の部屋は昨日と同じように何もない。でもノートパソコンが二台に増えて、椅子が二脚になって、エアコンはちゃんと冷えるようになった。


あとは——肝心のVTuberだけだった。


凛が募集文の投稿ボタンを押したのは、日が傾いて窓から橙色の光が差し込んできた頃だった。フォロワー五人のアカウントからの発信。誰かの目に届くのかどうか、正直わからない。


「よし。——来るかな」


「来ますかね」


「来るよ。面白い子は、面白い場所を嗅ぎ分ける」


根拠のない確信だった。でも凛がそう言うと、不思議と本当にそうなる気がした。


窓の外ではフェニックスの葉が夕風に揺れていて、部屋の中にはエアコンの静かな送風音だけが響いていた。

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