表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/26

アパートの一室

バスのステップを降りた瞬間、足の裏から熱が伝わってきた。


四月の宮崎は東京より二歩くらい季節が先を行っている。スーツケースの取っ手がすでにぬるくて、瀬川(せがわ) (みなと)は片手で額の汗を拭いた。宮崎駅行きのバスを途中で降りたのは、送られてきた住所がこっちのほうが近かったからだ。バス停からアパートまで五分ほど歩く間に、背中はとっくに汗ばんでいた。


スマートフォンに届いたメッセージをもう一度確認する。


「203号室。鍵は開いてるから入って」


築三十年はありそうなアパートの外階段を上ると、手すりが日差しで焼けていた。反射的に手を離す。二階の廊下は狭く、ドアとドアの間隔が近い。201、202——隣の部屋から微かにテレビの音が漏れている。壁が薄いタイプだ。203号室のドアノブを回すと、本当に開いた。


部屋の中は空っぽだった。


六畳のフローリングにカーペットもなく、壁際にパイプ机が一つ。その上にノートパソコンが一台。窓が南向きで大きいぶん日差しが入って明るいが、それが逆に何もないことを際立たせている。キッチンは入口横の小さな流し台だけ。事務所——と呼んでいいのか、この部屋を。


「お、来たじゃん」


奥の窓辺に座っていた女が振り向いた。ショートカットにTシャツとジーンズ。片手に缶コーヒーを持って、もう片手で扇風機のリモコンをいじっている。エアコンはあるが扇風機を併用しているあたり、効きが悪いのだろう。大学時代と変わらない——桐谷(きりたに) (りん)は社長になったという実感をまるで感じさせない格好をしていた。


「凛さん、ここが——」


「うん。ここが事務所」


凛はあっさり言った。缶コーヒーをパイプ机の上に置いて、両手を広げてみせる。


「どう?」


どう、と聞かれても困る。窓の外にフェニックスの並木が見えて、その向こうに四月の青い空が広がっている。宮崎の空は東京より近い。それだけが、この部屋の救いだった。


「……広いですね」


「ポジティブだね、湊は」


凛が笑った。立ち上がって窓を開けると、生ぬるい風が部屋に入ってきた。どこかで鳴いている鳥の声と、遠くの車の音。


「椅子、まだ一個しかないんだよね。ごめん」


「いや、まあ。床でいいですよ」


スーツケースを壁際に寄せて、湊はフローリングに腰を下ろした。硬くて冷たい。凛はパイプ椅子に座り直して、足を組んだ。


「バス、わかりにくくなかった? 車で迎えに行こうかって言ったのに」


「大丈夫ですよ、路線バス一本だったんで。荷物もこれだけだし」


凛は軽自動車を持っている。宮崎育ちだから免許も車も、東京に出る前から持っていた。三年間の事務職通いもその車だったらしい。


「凛さん、会社辞めてどのくらいですか」


「先月。三年勤めて、有休全部消化して、退職」


「三年」


「うん。湊が卒業するの、待ってたから」


凛はそれを何でもないことのように言った。缶コーヒーを手に取って、一口飲む。


三年間、事務職で貯金を作りながらVTuber事務所の計画を温めていた。湊の卒業に合わせて声をかけた。凛はそういう人間だった。行き当たりばったりに見えて、待てるところは待てる。


しばらく、二人とも黙っていた。扇風機が首を振る音と、隣の部屋からかすかに漏れるテレビの音だけが聞こえる。この壁の薄さは、後々配信をやるときに気になるかもしれない。


「あの、改めて聞いていいですか」


「ん?」


「VTuber事務所って、何するんですか。具体的に」


凛は首を傾げた。考えているのではなく、どこから話そうか選んでいる顔だった。


「面白い子を見つけて、世に出す」


「……それだけですか」


「それだけ」


凛はまた缶コーヒーを手に取って、一口飲んだ。


「大手みたいに何十人も抱えるつもりはないよ。あたしが面白いって思った子を、ちゃんと届ける。それだけやりたい」


「届けるって、配信で?」


「配信がメインだね。YouTubeで。あとはXで告知して、ファンをつけて。最初はそれだけでいい」


凛の声は淡々としていた。熱く語るタイプではない。大学のサークルでもそうだった。企画書は箇条書き三行。でも実行力だけはあって、気づいたらみんなが動いていた。


湊はパイプ机の上のノートパソコンに目をやった。画面にはスプレッドシートが開いている。数字の並び。事業計画と呼ぶには素朴すぎるけれど、項目はきちんと分かれていた。


「事務所名、決まってるんですか」


「ヨリミチ。届けはもう出してあるから。あとは人だけ」


「届けって——開業届?」


「そう。個人事業主、屋号ヨリミチ。税務署で手続きしてきた。あたしの名前と屋号で契約できる」


凛は窓の外に目をやった。


「法人化はまだ早いし、お金もかかる。個人事業主ならタダで始められるし、ゲーム配信のガイドラインも個人扱いで問題ない」


さらっと言っているが、そこまで調べてから動いている。凛の直感型に見える経営判断の裏側には、ちゃんと下調べがある。


「……ヨリミチって、どういう意味ですか」


凛は由来を聞いてほしそうにも、聞いてほしくなさそうにも見えた。


「なんとなく」


それだけ言って、凛は話を切り替えた。


「で、湊。技術のこと全部やってくれるんでしょ?」


「全部って」


「配信環境の構築。キャラデザは絵師さんに外注するけど、アバターのLive2Dモデリングは湊。トラッキングの設定、OBSの管理、映像編集、機材の選定と保守——」


「それ全部一人でやるんですか」


「他に誰がいるの」


凛が真顔で言うので、湊は口をつぐんだ。確かに、この部屋には二人しかいない。机が一つとパソコンが一台。配信用のPCもなければ、マイクもカメラもオーディオインターフェースもない。VTuber事務所を名乗るには、あまりにも何もなかった。


「肝心のVTuberは?」


「これから探す」


「……」


湊はフローリングに手をついて、天井を見上げた。エアコンのフィルターに埃が溜まっている。あれ、掃除しないと効きが悪いままだ——VTuberもいない事務所で、最初に気になったのがフィルターの埃。我ながらどうかしている。


凛が椅子から降りて、湊の隣に座った。同じように天井を見上げる。


「不安?」


「不安っていうか——」


就活を蹴ってきた。内定を一つもらっていた。東京のIT企業で、待遇も悪くなかった。でも面接のとき「五年後の自分」を聞かれて、何も浮かばなかった。スーツを着て満員電車に乗る自分が想像できなかった。


そこに凛から連絡が来た。「宮崎でVTuber事務所やるんだけど、技術やらない?」——深夜二時のLINE。断る理由を探しているうちに、気づいたら宮崎行きの飛行機を予約していた。親には「知り合いの会社で働く」とだけ伝えた。VTuber事務所と言ったところで、たぶん通じない。


「不安かどうかっていうと、よくわかんないです。ただ——」


湊はエアコンのフィルターから目を逸らして、窓の外を見た。フェニックスの葉が風に揺れている。東京にはない景色だった。


「あのエアコン、フィルター掃除したほうがいいですよ」


凛が吹き出した。


「それ今言う?」


「いや、気になって」


「湊らしいわ」


凛は笑いながら立ち上がった。窓辺に戻って、また缶コーヒーを手に取る。


「あたしは経営と営業やる。湊は技術。VTuberは見つける。三人でスタート。——いける?」


三人。社長と技術者とVTuber。宮崎のアパートの一室から、配信で世界に届ける。言葉にすると途方もなく大きくて、この六畳の部屋にはまるで釣り合わない。


でも凛はいつもそうだった。サークルの文化祭で赤字覚悟の映像作品を作ったときも、最初に言ったのは「面白くない?」の一言だけだった。あのとき湊は三日徹夜で編集を仕上げた。文句を言う暇もなかったし、完成したものを見たら文句を言う気もなくなった。


凛はそういう人間だった。巻き込む力だけは、昔から規格外だった。


湊はスーツケースを見た。中には自分のノートパソコンと、外付けのペンタブレットが入っている。着替えより先にそっちを詰めてきた自分に、少しだけ笑えた。


「まあ——なんとかなりますよ」


凛が目を細めた。満足そうでも、安心したふうでもない。ただ「知ってた」という顔だった。


窓の外で、フェニックスの葉がまた揺れた。四月の風は湿り気を含んでいて、少しだけ潮の匂いがした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ