アパートの一室
バスのステップを降りた瞬間、足の裏から熱が伝わってきた。
四月の宮崎は東京より二歩くらい季節が先を行っている。スーツケースの取っ手がすでにぬるくて、瀬川 湊は片手で額の汗を拭いた。宮崎駅行きのバスを途中で降りたのは、送られてきた住所がこっちのほうが近かったからだ。バス停からアパートまで五分ほど歩く間に、背中はとっくに汗ばんでいた。
スマートフォンに届いたメッセージをもう一度確認する。
「203号室。鍵は開いてるから入って」
築三十年はありそうなアパートの外階段を上ると、手すりが日差しで焼けていた。反射的に手を離す。二階の廊下は狭く、ドアとドアの間隔が近い。201、202——隣の部屋から微かにテレビの音が漏れている。壁が薄いタイプだ。203号室のドアノブを回すと、本当に開いた。
部屋の中は空っぽだった。
六畳のフローリングにカーペットもなく、壁際にパイプ机が一つ。その上にノートパソコンが一台。窓が南向きで大きいぶん日差しが入って明るいが、それが逆に何もないことを際立たせている。キッチンは入口横の小さな流し台だけ。事務所——と呼んでいいのか、この部屋を。
「お、来たじゃん」
奥の窓辺に座っていた女が振り向いた。ショートカットにTシャツとジーンズ。片手に缶コーヒーを持って、もう片手で扇風機のリモコンをいじっている。エアコンはあるが扇風機を併用しているあたり、効きが悪いのだろう。大学時代と変わらない——桐谷 凛は社長になったという実感をまるで感じさせない格好をしていた。
「凛さん、ここが——」
「うん。ここが事務所」
凛はあっさり言った。缶コーヒーをパイプ机の上に置いて、両手を広げてみせる。
「どう?」
どう、と聞かれても困る。窓の外にフェニックスの並木が見えて、その向こうに四月の青い空が広がっている。宮崎の空は東京より近い。それだけが、この部屋の救いだった。
「……広いですね」
「ポジティブだね、湊は」
凛が笑った。立ち上がって窓を開けると、生ぬるい風が部屋に入ってきた。どこかで鳴いている鳥の声と、遠くの車の音。
「椅子、まだ一個しかないんだよね。ごめん」
「いや、まあ。床でいいですよ」
スーツケースを壁際に寄せて、湊はフローリングに腰を下ろした。硬くて冷たい。凛はパイプ椅子に座り直して、足を組んだ。
「バス、わかりにくくなかった? 車で迎えに行こうかって言ったのに」
「大丈夫ですよ、路線バス一本だったんで。荷物もこれだけだし」
凛は軽自動車を持っている。宮崎育ちだから免許も車も、東京に出る前から持っていた。三年間の事務職通いもその車だったらしい。
「凛さん、会社辞めてどのくらいですか」
「先月。三年勤めて、有休全部消化して、退職」
「三年」
「うん。湊が卒業するの、待ってたから」
凛はそれを何でもないことのように言った。缶コーヒーを手に取って、一口飲む。
三年間、事務職で貯金を作りながらVTuber事務所の計画を温めていた。湊の卒業に合わせて声をかけた。凛はそういう人間だった。行き当たりばったりに見えて、待てるところは待てる。
しばらく、二人とも黙っていた。扇風機が首を振る音と、隣の部屋からかすかに漏れるテレビの音だけが聞こえる。この壁の薄さは、後々配信をやるときに気になるかもしれない。
「あの、改めて聞いていいですか」
「ん?」
「VTuber事務所って、何するんですか。具体的に」
凛は首を傾げた。考えているのではなく、どこから話そうか選んでいる顔だった。
「面白い子を見つけて、世に出す」
「……それだけですか」
「それだけ」
凛はまた缶コーヒーを手に取って、一口飲んだ。
「大手みたいに何十人も抱えるつもりはないよ。あたしが面白いって思った子を、ちゃんと届ける。それだけやりたい」
「届けるって、配信で?」
「配信がメインだね。YouTubeで。あとはXで告知して、ファンをつけて。最初はそれだけでいい」
凛の声は淡々としていた。熱く語るタイプではない。大学のサークルでもそうだった。企画書は箇条書き三行。でも実行力だけはあって、気づいたらみんなが動いていた。
湊はパイプ机の上のノートパソコンに目をやった。画面にはスプレッドシートが開いている。数字の並び。事業計画と呼ぶには素朴すぎるけれど、項目はきちんと分かれていた。
「事務所名、決まってるんですか」
「ヨリミチ。届けはもう出してあるから。あとは人だけ」
「届けって——開業届?」
「そう。個人事業主、屋号ヨリミチ。税務署で手続きしてきた。あたしの名前と屋号で契約できる」
凛は窓の外に目をやった。
「法人化はまだ早いし、お金もかかる。個人事業主ならタダで始められるし、ゲーム配信のガイドラインも個人扱いで問題ない」
さらっと言っているが、そこまで調べてから動いている。凛の直感型に見える経営判断の裏側には、ちゃんと下調べがある。
「……ヨリミチって、どういう意味ですか」
凛は由来を聞いてほしそうにも、聞いてほしくなさそうにも見えた。
「なんとなく」
それだけ言って、凛は話を切り替えた。
「で、湊。技術のこと全部やってくれるんでしょ?」
「全部って」
「配信環境の構築。キャラデザは絵師さんに外注するけど、アバターのLive2Dモデリングは湊。トラッキングの設定、OBSの管理、映像編集、機材の選定と保守——」
「それ全部一人でやるんですか」
「他に誰がいるの」
凛が真顔で言うので、湊は口をつぐんだ。確かに、この部屋には二人しかいない。机が一つとパソコンが一台。配信用のPCもなければ、マイクもカメラもオーディオインターフェースもない。VTuber事務所を名乗るには、あまりにも何もなかった。
「肝心のVTuberは?」
「これから探す」
「……」
湊はフローリングに手をついて、天井を見上げた。エアコンのフィルターに埃が溜まっている。あれ、掃除しないと効きが悪いままだ——VTuberもいない事務所で、最初に気になったのがフィルターの埃。我ながらどうかしている。
凛が椅子から降りて、湊の隣に座った。同じように天井を見上げる。
「不安?」
「不安っていうか——」
就活を蹴ってきた。内定を一つもらっていた。東京のIT企業で、待遇も悪くなかった。でも面接のとき「五年後の自分」を聞かれて、何も浮かばなかった。スーツを着て満員電車に乗る自分が想像できなかった。
そこに凛から連絡が来た。「宮崎でVTuber事務所やるんだけど、技術やらない?」——深夜二時のLINE。断る理由を探しているうちに、気づいたら宮崎行きの飛行機を予約していた。親には「知り合いの会社で働く」とだけ伝えた。VTuber事務所と言ったところで、たぶん通じない。
「不安かどうかっていうと、よくわかんないです。ただ——」
湊はエアコンのフィルターから目を逸らして、窓の外を見た。フェニックスの葉が風に揺れている。東京にはない景色だった。
「あのエアコン、フィルター掃除したほうがいいですよ」
凛が吹き出した。
「それ今言う?」
「いや、気になって」
「湊らしいわ」
凛は笑いながら立ち上がった。窓辺に戻って、また缶コーヒーを手に取る。
「あたしは経営と営業やる。湊は技術。VTuberは見つける。三人でスタート。——いける?」
三人。社長と技術者とVTuber。宮崎のアパートの一室から、配信で世界に届ける。言葉にすると途方もなく大きくて、この六畳の部屋にはまるで釣り合わない。
でも凛はいつもそうだった。サークルの文化祭で赤字覚悟の映像作品を作ったときも、最初に言ったのは「面白くない?」の一言だけだった。あのとき湊は三日徹夜で編集を仕上げた。文句を言う暇もなかったし、完成したものを見たら文句を言う気もなくなった。
凛はそういう人間だった。巻き込む力だけは、昔から規格外だった。
湊はスーツケースを見た。中には自分のノートパソコンと、外付けのペンタブレットが入っている。着替えより先にそっちを詰めてきた自分に、少しだけ笑えた。
「まあ——なんとかなりますよ」
凛が目を細めた。満足そうでも、安心したふうでもない。ただ「知ってた」という顔だった。
窓の外で、フェニックスの葉がまた揺れた。四月の風は湿り気を含んでいて、少しだけ潮の匂いがした。




