段ボールと台本
「開けました」
白石 楓からのDiscordメッセージは、三月の最終週の夜に届いた。
「段ボール。台本の箱。開けました」
瀬川 湊は事務所のモニターの前で、そのメッセージを読んだ。桐谷 凛はもう帰っていて、事務所には湊一人だった。
「おつかれさまです。大丈夫ですか?」
「大丈夫です。泣いたけど、大丈夫です」
湊はしばらくメッセージを見つめた。楓が「泣いたけど大丈夫」と書けるのは、大丈夫じゃないときの楓とは違う。大丈夫じゃないときの楓は「大丈夫です」としか書かない。「泣いた」を付け加えられるのは——本当に大丈夫なときだ。
「何か話したいことがあれば、聞きます」
「ありがとうございます。——でも、今は文字で書くのが難しくて。明日、事務所で凛さんも一緒のときに話してもいいですか」
「もちろんです」
「おやすみなさい、湊さん」
「おやすみなさい」
湊はスマホを置いて、窓の外を見た。三月の夜。桜は満開を過ぎて、風が吹くと花びらが舞う。夜桜が街灯に照らされて、薄いピンクの光が暗闇に浮かんでいた。
翌日、三人が事務所に集まった。楓がバスで来て、凛が車で来て、湊は自転車で来た。いつもの三人。いつもの六畳。缶コーヒーが三つ。
楓がバッグから、一冊の台本を取り出した。
A4サイズの紙を綴じたもの。表紙に手書きで「村娘A」と書いてある。端が折れていて、ページの間に蛍光ペンの黄色い線が透けて見える。
「これ——七年間で一番多く演じた役です。村娘A。名前もない端役」
楓が台本をテーブルに置いた。凛と湊が見ている。
「段ボールの中に、二十三冊ありました。七年間で二十三本の公演に出た。そのうち——名前のある役は、四本だけ。残りは全部、背景の一部でした」
「楓……」
「でも——昨日、全部読み返しました。蛍光ペンの線を引いたセリフ。演出家からのメモ。稽古場で書いた走り書き。全部、覚えてた」
楓がテーブルの上の台本に手を載せた。
「東京にいたとき、これを見ると——芽が出なかった自分を思い出して、苦しかった。だから開けなかった。宮崎に持ってきたのに、開けられなかった」
「今は?」
凛が聞いた。
「今は——違う。これは失敗の記録じゃなかった。私が七年間、やり続けた記録だった」
楓の声は静かだった。泣いていない。昨日泣いた分は、もう終わっている。
「村娘Aでも——舞台に立つたびに、声の出し方を変えたり、立ち位置を工夫したり。お客さんの目線を一瞬だけ引くにはどうすればいいか、ずっと考えてた。演出家には認められなかったけど、私は——ずっと演じ続けてた」
「それが今のみやびに繋がってるんだね」
「はい。みやびの配信で、リスナーの反応を見ながら声のトーンを変えたり、間を取ったり、素を出すタイミングを計ったり——全部、舞台でやってたことの応用です。七年間は無駄じゃなかった」
楓が台本を手に取った。「村娘A」のページを開いた。蛍光ペンで引かれた一行が見えた。
「この台本に——演出家が書いたメモがあるんです」
楓がそのページを湊と凛に向けた。小さな字で、赤ペンで書いてある。
「『技巧は完璧。でも心が見えない』」
凛が息を吐いた。湊は何も言わなかった。
「七年間、ずっと言われてたこと。技術は完璧だけど、心が見えない。お客さんに届かない。——でも、今ならわかるんです。あの頃の私は、心を見せるのが怖かった。見せたら壊れると思ってた」
「今は?」
「今は——みやびが、代わりに見せてくれる。私が隠してる心を、みやびの表情が映してくれる。だから——私は安全な場所から、少しずつ心を開けるようになった」
楓が湊を見た。
「湊さんが作ったモデルのおかげです」
湊は口を開きかけて、閉じた。
感情反映のことを——今、話すべきだろうか。楓が「みやびの表情が心を映してくれる」と言っている。楓はそれを漠然と感じている。湊はその原因に仮説を持っている。
でも——今は、楓の話を聞く時間だ。湊の仮説は、楓がこの箱を開けて、過去と向き合ったあとに話すべきだ。
「俺は——モデルを作っただけです。楓さんが心を開いたのは、楓さん自身の力です」
「そうかなあ。——でも、ありがとうございます」
楓が台本を閉じた。テーブルの上に戻した。
「この台本——捨てないことにしました。部屋の本棚に並べます。段ボールじゃなくて、ちゃんと見える場所に」
「いいじゃん」
凛が笑った。
「段ボールの中に隠すんじゃなくて、本棚に並べる。それって——楓が過去を受け入れたってことだよね」
「受け入れたっていうか——許したんだと思います。芽が出なかった自分を」
三人は缶コーヒーを飲んだ。いつもの組み合わせ。カフェオレ、ブラック、微糖。プルタブを開けたときの甘い匂いが、春の空気に混ざった。
春の日差しが窓から入ってきて、テーブルの上の台本を照らしていた。「村娘A」の文字が、日差しの中で少しだけ光って見えた。
「さて」
凛が缶を置いた。
「感動的な話の後で申し訳ないんだけど——四月のスケジュール、詰めよう。春企画の第一回が再来週だから」
「凛さんって、ほんとにすぐ切り替えますよね」
「社長だからね」
「いいと思います。切り替え、好きです」
楓が笑って、ノートPCを開いた。
湊も作業に戻った。春企画の動画テンプレートの最終調整。テロップのフォントとBGMの確認。凛が観光協会との最終打ち合わせの日程を組んでいる。
テーブルの上に、台本が一冊残っている。「村娘A」。もう段ボールの中には戻らない。
楓が許した七年間が、この事務所の土台に、静かに加わった。




