桜と三百五十
宮崎の桜が咲いた。三月の第三週。
事務所の裏の公園には桜の木が三本あって、一斉に花を開いた。瀬川 湊が朝、自転車で通る道沿いも、薄いピンクの花びらが空に広がっている。風が吹くと花びらが舞って、道路に薄い絨毯ができる。自転車のタイヤが花びらを踏むたびに、湿った甘い匂いが立ち上がる。
「登録者三百五十人」
桐谷 凛がスマホの画面を見せた。三月に入ってから、成長のペースが少し上がっている。週四配信の効果と、コラボ後のXでの露出が重なった。二月末の三百五人から、三週間で四十五人増。月平均にすると六十人ペース。
「いいペースですね」
「うん。でも一月は二十五人、二月は二十人で、三月に加速してる。何が効いてるんだろう」
「Shorts の再生が伸びてます。コラボのクリップと、社めぐりのショートバージョンが、検索に引っかかり始めたみたいです」
「Shorts って認知拡大ツールだもんね。直接収益にはならないけど、チャンネルへの入り口として機能してる」
白石 楓がDiscordのメッセージを送ってきた。「三百五十人! うれしい! 来月には四百人いけるかな?」
「四百人はいける。このペースなら。でも、四百人の次が大事だよ。五百人を超えると——」
「千人が現実味を帯びてくるんですよね」
「そう。今の月六十人ペースだと、千人まであと——」
「十一ヶ月。来年の二月くらい」
「でも、ペースは一定じゃない。春の観光協会企画で露出が増えれば、加速するかもしれない」
三人で数字を共有する。これが当たり前になった。四月には凛だけが見ていた数字を、今は三人で語っている。
「あと——今月のバイトのシフト、週一回に減らしたよ」
凛が何気なく言った。約束通りだ。
「体調はどうですか」
「全然違う。週二回と週一回で、こんなに変わるんだね。事務所の仕事に集中できる時間が増えた」
「いいですね」
「来月——外注が月三件安定してくれれば、バイトゼロにできるかもしれない」
「今月は三件確定してます。四月も二件の問い合わせが来てるので、もう一件取れれば」
「湊の外注が事務所の命綱だね」
「凛さんの営業があっての話ですよ」
「お互い様」
凛が笑った。
午後、湊は事務所で春企画の準備を進めていた。四月の第一回「フラワーフェスタ」の配信構成を考えている。楓が作ったスライドの素案が届いていて、フラワーフェスタの概要、会場のこどもの国の場所、見どころの花の種類がまとめてある。
楓のスライドの精度が上がっている。フォントの統一、画像の解像度、テキストの余白。湊が作ったテンプレートのガイドラインに従いつつ、楓なりの工夫が入っている。写真の配置に劇団時代のビジュアルセンスが活きている。
「楓さんのスライド、前より良くなってます。余白の使い方がうまい」
「ほんとですか? 凛さんに見せたら『読みやすくなったね』って言ってくれて」
「舞台のポスターとか作ってました?」
「小劇団なので——チラシのデザインは自分たちでやってました。WordとかPowerPointで」
「その経験が活きてますね」
「まさかVTuberの配信に活きるなんて」
楓が笑った。劇団時代の経験を、以前は「芽が出なかった七年間」としか語らなかった。今は「経験が活きる」と言える。
湊は動画編集のテスト作業を始めた。先週の配信のアーカイブを素材に、テロップの入れ方やカット編集のタイミングを試している。BGMは著作権フリーの和風楽曲を探してきた。みやびの雰囲気に合う、穏やかな琴と笛の音色。
編集しながら、みやびの表情を何度も巻き戻して確認した。楓が宮崎の食べ物の話をしているとき、みやびの口角の上がり方が、通常のトラッキングより滑らかだ。先週、楓の自宅で見たのと同じ傾向。
感情反映の閾値以下の微細な変動。楓がポジティブな感情のとき、みやびの表情がわずかに増幅される。
仮説が一つ固まりつつある。「楓の感情が強いポジティブ方向に振れたとき、みやびのパラメータが通常のトラッキング以上に反応する」。ネガティブ方向が最初の五回、ポジティブが六回目(九月)と七回目(初スパチャ)。そして今、閾値以下のポジティブな微細変動を複数回確認した。
データが溜まってきた。もう少しで——楓に話せるかもしれない。
でも、何と言えばいい?
「楓さんの感情が強いとき、みやびの表情が本当の感情を映してしまう。それは俺のモデルの精度が原因かもしれない」
——技術的な説明はできる。でも、楓がその言葉をどう受け取るかは、別の問題だ。
湊は編集作業に戻った。春の企画の動画テンプレートを仕上げて、凛に確認を取る。来月には楓にも見せて、修正点をもらう。
窓の外で、桜の花びらが風に舞っていた。三月の宮崎は、一年で一番柔らかい光がある季節だ。
来月から、春の企画が始まる。楓のスライドと、湊の動画と、凛の営業が——一つの形になる。




