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大掃除と九ヶ月

年末の事務所に、三人が揃った。


十二月三十日。配信は年内最後を二十八日に終えて、今日は大掃除だ。桐谷(きりたに) (りん)が「年末くらい掃除しよう」と言い出して、白石(しらいし) (かえで)が「よし!」と乗って、瀬川(せがわ) (みなと)が「まあ、やりますか」と道具を揃えた。


六畳の事務所は、四月に比べて物が増えていた。


パイプ机が二台に増えた。凛が中古で見つけてきた二台目は、湊の外注作業用だ。モニターが三台。ノートPCが二台。デスクトップPCが一台。ケーブル類が床を這っていて、電源タップが三つ。壁際には段ボール箱が二つ積まれていて、中身は機材の空き箱と予備のケーブルだ。


「四月にここ来たとき、パイプ机一つとノートPC一台だったよね」


凛が雑巾を絞りながら言った。


「パイプ机とモニターが増えたんだから、片付かないのは当然です」


「湊がケーブルを整理してくれないからでしょ」


「ケーブルは触らないでください。配線には意味があるんです」


「意味があるケーブルと意味がないケーブルがあるでしょ。この黄色いの何?」


「……予備です」


「予備が三本もいる?」


「いります」


楓が二人のやり取りを聞きながら笑っていた。窓ガラスを拭いている。十二月の宮崎は、窓を開けると日差しが暖かい。風は冷たいが、ガラスに触れると太陽で温まっていて、指先がほんのり熱い。


「楓、窓ガラス綺麗にしてくれてありがとう。半年ぶりくらいに外がちゃんと見える」


「半年も拭いてなかったんですか」


「忙しかったんだよ」


凛が言い訳のように笑った。


掃除をしながら、三人は自然と一年を振り返り始めた。


「四月に始めて——もう九ヶ月か」


凛が床を拭きながら呟いた。


「九ヶ月。長いような短いような」


「楓にとってはどう? 東京から来て、知り合いもいない街で」


「最初は不安でした。宮崎に知り合いゼロでしたから。でも——バイト先のおばちゃんたちが優しくて、凛さんと湊さんがいて。気づいたら、東京に帰りたいって一度も思わなかった」


「一度も?」


「一度も。東京にいると——劇団時代のことを思い出すから。宮崎にいるほうが、今の自分でいられる」


楓がガラスを拭く手を止めて、窓の外を見た。事務所の裏の公園では、子どもたちが冬休みで走り回っている。葉を落とした銀杏の木が、冬の空に細い枝を伸ばしている。


「湊は? ずっと宮崎だよね」


「実家ですからね。宮崎が嫌だったことはないです。東京は——大学で四年いましたけど、あんまり好きじゃなかった」


「どこが嫌だった?」


「人が多すぎる。電車が混む。空が狭い」


「わかる。宮崎の空は広いよね」


楓が頷いた。窓の外の空は、確かに広かった。ビルに遮られない空。雲が高くて、遠くに山の稜線が見える。


「凛さんは? 東京の大学出てから宮崎に戻ったんですよね」


「そう。二十二で戻って、事務職で三年働いて、二十五で辞めてヨリミチを始めた」


「事務職やめたの、怖くなかったですか」


「怖かったよ。安定した収入を捨てて、貯金を切り崩して、うまくいく保証はない。でも——あたしがやらなきゃ、誰もやらないからさ。宮崎でVTuber事務所なんて、あたし以外に考える人いないでしょ」


凛が雑巾を絞り直した。水が流しに落ちる音がした。


「怖かったけど、後悔はしてない。今ここに三人いるから」


三人は黙って掃除を続けた。凛が机の下を拭き、楓が棚を整理し、湊がケーブルを束ねた。言葉がなくても居心地が悪くない沈黙だった。


掃除が一段落して、凛がコンビニに買い出しに行った。湊と楓が事務所に残った。


楓が棚の整理を続けている。湊はケーブルを結束バンドで束ねながら、ふと口を開いた。


「楓さん」


「はい?」


「オリジナル曲——すごく良かったです」


楓の手が止まった。


「聴いてくれたんですか。公開してから」


「MVの制作で何十回も聴きましたけど、公開後にリスナーと同じ気持ちで聴き直しました。歌詞が——ちゃんと楓さんの言葉だなって」


「……ありがとうございます」


楓の声が少し掠れた。


「再生回数、三百回超えましたよね。登録者二百八十人のチャンネルで三百回って——たぶん、何度もリピートしてくれてる人がいるってことですよね」


「そうですね。一人が何回も聴いてるってことです」


「嬉しいなあ。あの曲、私の——いろんなものを詰め込んだから」


楓が棚から目を離して、湊を見た。


「湊さんのMVも、すごく良かったです。歌詞が流れるタイミングが——歌のここで、この言葉が出る、って全部計算されてる感じがして」


「計算というか——楓さんの声を聴いて、タイミングを合わせただけです」


「それを計算って言うんですよ」


楓が笑った。湊は少しだけ面食らった顔をして、視線をケーブルに戻した。


凛が戻ってきた。コンビニの袋から、年越しそばのカップ麺と缶コーヒーとチョコレートが出てきた。


「年越しそばには二日早いけど、まあいいでしょ」


「いいですね。事務所で年越しそば」


「カップ麺だけどね」


三人で湯を沸かして、カップ麺を開けた。事務所にはまともなキッチンがないので、電気ケトルだけが頼りだ。湯気が六畳の部屋に広がって、出汁の匂いが狭い空間を満たした。一口啜ると、安っぽい出汁の味が舌に広がる。冬の大掃除の後には、ちょうどいい。


「今年の振り返り、しよう」


凛がそばを啜りながら言った。


「数字から。登録者二百八十人。Xフォロワー約九百人。同接は通常三十五から四十人、最高五十一人。配信アーカイブの累計再生数——湊、いくつだっけ」


「一万四千回くらいです」


「一万四千回。ゼロからの九ヶ月で、一万四千人がみやびの配信を見た。すごいことだよ」


「収益は——まだ赤字ですよね」


楓が聞いた。


「赤字。でも、赤字幅は縮んでる。観光協会の月三万、外注のマージン、Shorts の広告収入が少し。トータルで月五万くらいの収入。固定費が六万だから、月一万の赤字。四月時点の月六万全額赤字に比べたら、だいぶマシ」


「口座残高は?」


「十二万くらい。来年——外注をもう少し増やすか、別の収入源を作れれば、黒字化できる可能性がある」


凛は数字を淡々と語った。九月に楓に打ち明けてから、凛は数字を隠さなくなった。三人で共有する。それがこの事務所のやり方になった。


「来年の目標は?」


楓が聞いた。


「収益化に向けて、まず登録者五百人と再生時間三千時間。条件は登録者千人と四千時間だけど、夏までにそこまでいけたら、年内に届く可能性がある。それと、オリジナル曲をもう一曲。楓の表現の幅を広げたい」


「私からも。来年は——歌だけじゃなくて、もっと自分の言葉で発信していきたいです。Xの投稿もそうだし、配信でも——みやびとしてだけじゃなくて、楓としても」


「いいね。湊は?」


湊はカップ麺の汁を飲み干して、空の容器をテーブルに置いた。


「技術の質をもっと上げます。外注の仕事もそうだし、みやびの配信環境も。それと——」


湊は少し間を置いた。


「みやびのモデルのこと、もう少し深く調べたいです。データに——気になるところがあるので」


「感情反映?」


凛が聞いた。楓が少しだけ体を強張らせた。


「まだ仮説ですけど。来年中に、もう少し確かなことが言えるようになりたい」


「わかった。楓も——いつか聞きたいって言ってたし。準備ができたら、三人で話そう」


楓が頷いた。小さな動きだったが、はっきりとした頷きだった。


「じゃあ——来年もよろしくお願いします」


凛がそう言って、微糖の缶コーヒーを掲げた。楓がカフェオレを掲げた。湊もブラックを掲げた。


「よろしくお願いします」


三つの缶が軽くぶつかった。


掃除を終えて、事務所を出たのは夕方四時だった。十二月三十日の宮崎は、冬の夕暮れがもう始まっていた。西の空がオレンジから紫にグラデーションで染まっていて、東の方角には薄い月が浮かんでいる。


楓がバスを待つ間、三人で事務所の前に立っていた。


「四月にここ来たとき、凛さんが『ここが事務所』って言ったのを思い出します。パイプ机一つの六畳で、エアコンのフィルターが埃だらけで」


「今日フィルターも掃除したから、来年はクリーンな状態でスタートだよ」


「九ヶ月分の埃がすごかったですけどね」


湊が言って、楓が笑った。


バスが来た。楓が手を振って乗り込んだ。凛は車で帰る。湊は自転車。三人がそれぞれの方向に散っていく。


湊は自転車に跨って、事務所のアパートを振り返った。二階の角部屋の窓は暗くなっている。電気を消して、鍵を閉めて、掃除も終えた。来年まで、この部屋は静かに待っている。


ペダルを踏んだ。冬の風が頬を切る。吐く息が白い。


九ヶ月前の自分は、ここに来るとは思っていなかった。凛に誘われて、なんとなく来て、なんとなく始めた。


でも今は——ここにいる理由がある。


楓のために作るモデル。凛が繋いでくる仕事。お狐仲間が待ってくれる配信。六畳の事務所に、三人分の椅子がある。


来年は、もう少し遠くまで行ける。


湊はペダルを踏み続けた。宮崎の冬の夕暮れの中を、実家に向かって走っていく。

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