二百人と十月
「二百、超えた!」
白石 楓の声がDiscordのスピーカーから飛び出した。十月最初の配信が終わった直後だ。事務所のモニターで配信後のアナリティクスを確認していた瀬川 湊の横で、桐谷 凛がYouTubeのチャンネルページを開いている。
「二百一人。ぴったり二百って瞬間、見たかったな」
凛がスマホを傾けて画面を見せた。チャンネル登録者数の欄に「201」と表示されている。
「一人余計でしたね」
楓がDiscord越しに笑った。自宅から配信を終えたばかりで、声にまだ熱が残っている。
十月に入って、成長のペースが変わっていた。九月末に百四十人だった登録者が、二週間で六十人増えた。八月の怪談配信のアーカイブがXで少しだけ拡散されたのが効いている。クリップ動画を見てチャンネルに飛んでくる人が、九月の後半から増え始めた。
「アーカイブの再生数も伸びてます。怪談のやつ、千二百回」
湊がOBSのウィンドウを閉じながら言った。
「みやびの和風キャラと怪談の相性が良かったんだよね。楓の語りも上手いし」
「凛さんの企画ですよ」
「いやいや、あたしは枠を用意しただけ。怪談って提案したのも楓じゃん」
「あ、そうだった?」
楓が自分で忘れていたらしい。凛が笑った。
「数字は嬉しいけど、二百人は通過点。収益化まであと三百人」
「わかってます。でも、ちょっとだけ浮かれさせてください」
楓の声が柔らかかった。九月末の話し合い以降、楓は数字に対して素直になった。それまでは「すごいね」で流していたのが、具体的な距離を口にするようになった。三ヶ月の猶予を知ってから、数字の意味が変わったのだろう。
「じゃあ十月のスケジュール、最終確認しよう」
凛がスプレッドシートを開いた。先週三人で作ったカレンダーだ。配信日が青、外注の作業日がオレンジ、観光協会の打ち合わせが緑。凛が丁寧に色分けしたセルが、十月の日付を埋めている。
「通常配信は火・木・土の週三回。観光協会の特産品配信は第二土曜。テーマは宮崎牛に決まったよ」
「宮崎牛!」
楓の声が跳ねた。みやびのキャラからは出ない声だ。
「試食ってあるんですか? 配信で食べてみた、みたいなのできたら最高なんですけど」
「黒木さんに聞いてみる。サンプル提供してくれるかもしれない」
「楓さんが宮崎牛を食べるリアクション、配信映えしそうですね」
湊が言った。凛がにやりと笑った。
「ポイントはそこだよね。みやびの上品なキャラで食べるのか、素のリアクションが出ちゃうのか」
「出ちゃうに決まってるでしょ。だって宮崎牛ですよ? 無理です無理」
楓が即答した。三人で笑った。
「あと、外注の話。新しい依頼が来てる」
凛がメール画面を表示した。
「個人勢VTuberの方から、Live2Dの表情セットアップ。前にやったネコのモデルの方の紹介」
「表情セットアップだけなら一週間くらいで対応できます。モデルのデータを見ないと正確にはわかりませんけど」
「湊の外注、口コミで回り始めてるね」
凛が満足そうに頷いた。うさぎのモデル、ネコのモデル、そして今回。三件目。紹介で仕事が繋がるのは、前の依頼者が湊の仕事に満足した証拠だ。湊はモニターに目を落としたまま「見積もり、明日出します」とだけ答えた。
「お願い。それと——もう一つ」
凛の声のトーンが変わった。提案の声だ。
「楓、配信後のXの投稿、自分で書いてみない?」
Discordの向こうで、楓の息が止まった。
「今まではあたしが下書きして楓が確認する形だったけど、そろそろ自分の言葉で書いたほうがいいと思う。お狐仲間は、みやびの温度を感じたいから」
「でも、変なこと書いちゃったら——」
「投稿前にあたしに見せてくれればいい。チェックはする。でも、文章は楓が考えて」
楓がしばらく黙った。Discordの通話画面で、楓のアイコンが無言のまま光っている。
「……やります」
静かだったが、芯のある声だった。
「よし。じゃあ今日の配信お疲れポスト、楓が書いてみて」
「わかりました。ちょっと待ってください」
Discordの向こうでキーボードの音がした。楓がPCで打っているらしい。数分後、みやびのXアカウントの下書きが凛に届いた。
凛がスマホの画面を見て、口元を緩めた。
「いいじゃん。そのまま出そう」
「ほんとですか? 変じゃないですか?」
「変じゃない。楓の言葉だから」
楓が投稿ボタンを押した。配信終了から二十分後のポスト。凛が書いていた文章とは少し違う。少し長めで、少し素直で、文末に狐の絵文字がついていた。
湊はモニターの端でタイムラインを確認した。みやびのポストに「おめでとう」のリプライがすでに三件ついている。お狐仲間の反応は早い。
通話を切った後、凛が帰り支度を始めた。十月に入って日が短くなり、六時を過ぎると窓の外はもう暗い。
「凛さん、明日は何時に来ますか」
「午後からかな。午前中は——ちょっと用事」
凛が鞄を肩にかけた。靴を履き替えるとき、つま先のあたりが薄く汚れているのが見えた。運動靴のような、現場仕事のような汚れ方。先月も同じ靴で出勤が遅い日があった。
湊は何も言わなかった。凛が「用事」と言うときは、それ以上聞かないほうがいい。自分で話す気になったら話す人だ。九月の資金の件で、湊はそれを学んだ。
「じゃあ、お疲れさま」
「お疲れさまです」
凛が出ていった。事務所に湊だけが残った。
外注の見積もりを整理しようとExcelを開いたが、指がキーボードの上で止まった。
新しい依頼。表情セットアップ。口角の上がり方、まぶたの閉じ際、眉の動きの連動。パラメータを設定して、演者のトラッキングデータに合わせて調整する。湊の得意分野だ。
みやびのモデルも、同じ手順で作った。同じ技術で、同じソフトで、同じ精度で。
でも、みやびだけが——演者の嘘を映さない。
外注のモデルでは起きない。うさぎでも、ネコでも、トラッキング通りの表情しかしない。それが普通だ。普通が正しい。
前回の配信で感情反映が起きたとき、みやびは楓よりも楽しそうに笑っていた。楓が「意識してる以上にみやびが笑ってた」と言った。そのときのパラメータログを、湊はまだ手元に残している。
開いてみた。数値の列が画面に並ぶ。口角パラメータ、まぶた開度、眉の角度。どれも正常範囲だ。でも、組み合わせのパターンが——前の五回と違う気がする。
気がするだけだ。まだ証明できない。
「……あー。今やることは見積もりだ」
湊は独り言を呟いて、ログファイルを閉じた。外注のExcelに戻る。
事務所の窓は閉まっていたが、隙間から金木犀の残り香がかすかに漂っていた。花はもう散り始めている。十月の風は、九月よりも少しだけ乾いていた。




