秋と本音
事務所の窓を開けると、金木犀の香りが入ってきた。
九月下旬の夕方。瀬川 湊が窓を開けたのは換気のためだったが、風に乗って甘い匂いが流れ込んできて、手を止めた。蜂蜜を薄めたような、でもどこか乾いた甘さ。事務所の裏手に小さな公園があり、そこに金木犀の木が植わっている。春には気づかなかった木だ。オレンジ色の粒のような花が枝に密集して咲いていて、夕日に照らされると木全体がぼんやりと発光しているように見えた。
今日は三人が事務所に集まっていた。桐谷 凛が「話し合いたいことがある」と言って、白石 楓にも来てもらった。配信はない日。事務所の六畳に、三つの椅子が向き合うように並んでいる。
凛がコンビニで買ってきた缶コーヒーを三つ、テーブルに置いた。楓はカフェオレ、湊はブラック、凛は微糖。いつもの組み合わせだ。
「じゃあ、始めよっか」
凛がプルタブを開けた。
「まずは良い話から。観光協会の継続契約は先週話した通り。外注の仕事も、口コミで二件目が入った。配信の登録者も百四十人を超えた。半年前のゼロから考えたら、すごいことだと思う」
楓が頷いた。
「みやびの配信をここまで育ててくれたのは楓だし、技術を支えてくれたのは湊。あたし一人じゃ何もできなかった」
「凛さんこそ。営業も経理も全部一人でやってるじゃないですか」
「まあね。それで——良い話はここまで」
凛の声のトーンが変わった。楓の手が缶コーヒーの上で止まった。
「事務所のお金の話をしたいの」
「お金?」
「四月に百二十万で始めて、機材を買って、毎月の固定費を払って、衣装差分やPCも買って。今、口座にいくら残ってるか——楓は知らないよね」
楓は首を振った。
「二十万ちょっと。固定費だけで計算すると、あと三ヶ月くらい」
楓の表情が固まった。缶コーヒーを持つ手が、わずかに下がった。
「三ヶ月……」
「ただし、観光協会の月三万と、外注のマージンが毎月入るようになった。赤字幅は縮んでる。年末までに外注を月二件安定して取れれば、収支は均衡する可能性がある」
凛は数字を淡々と説明した。湊は隣で聞いていた。先週、自分が聞いたのと同じ数字。でも、楓に向けて話す凛の声は、湊に話したときよりも丁寧だった。
「なんで——今まで言ってくれなかったんですか」
楓の声が小さかった。
「心配させたくなかったから。楓は配信に集中してほしかった」
「でも、知らなきゃ。私だって事務所のメンバーなんですから。凛さんが一人で抱え込んでたら——」
楓が言葉を切った。唇を噛んだ。それから、深く息を吸った。
「私、最初に凛さんが言ってくれたこと、覚えてます。面接のとき、『報酬は当面出せない』って。それを承知で来たんです。お金のことで凛さんを責める気なんてありません」
「責めてるとは思ってないよ」
「でも、隠してたのは——ちょっとだけ悔しい」
凛が口を開きかけて、閉じた。楓の「悔しい」という言葉を、凛は予想していなかったようだった。
「仲間はずれみたいで、悔しいんです。私だけ知らなかったのが」
事務所の空気が変わった。窓の外から金木犀の香りがまだ漂っていて、甘い匂いと楓の声の硬さが混ざり合っている。凛は口を閉じたまま、缶コーヒーの表面に目を落としていた。楓も黙っている。エアコンの送風音だけが六畳の部屋に残った。
湊は椅子の上で指を組んだ。楓の「悔しい」という言葉の重さが、この狭い部屋の中に沈んでいくのが見えた気がした。
「……ごめん。あたしが間違ってた」
凛が缶コーヒーを両手で包んだ。いつもは片手で軽く持つのに、今は両手で包み込むように握っている。
「楓に心配かけたくないって思ってたのは本当。でも、それは——楓を信用してなかったってことかもしれない」
「そうですよ」
楓が笑った。泣きそうな笑顔だった。でも泣かなかった。
「私、強いですから。凛さんが思ってるよりずっと。七年間、東京で芽が出なくても辞めなかったんですよ。三ヶ月なんて——」
楓が「よし」と小さく言った。
湊は二人の会話を聞いていた。口を挟むタイミングを探していたが、楓と凛のやり取りに割って入る隙がなかった。二人の間にある感情の密度が、湊には入れない領域にあるように見えた。
でも——湊にも、言えることがある。
「俺にできるのは技術で稼ぐことです」
二人が湊を見た。
「外注の案件を増やして、技術の質も上げます。みやびの配信のクオリティも、もっと上げられる。テンプレートを作って効率化すれば、配信の準備時間も減らせる」
湊は自分でも驚くほど、言葉がすらすら出てきた。普段は人の感情に踏み込むのが苦手で、自分の気持ちを言葉にするのも得意じゃない。でも、技術の話なら言える。自分の手でできることなら、約束できる。
「凛さんが営業して、楓さんが配信して、俺が技術で支える。その形は変わらないです。赤字を減らすのも、収益化を目指すのも、三人でやることです」
凛が口元で笑った。「いいね、その言い方」
楓が湊を見た。何か言いたそうな顔をして、でも言わなかった。代わりに缶コーヒーを一口飲んだ。
「じゃあ、具体的にどうするか。まず、十月からの配信スケジュールを見直そう」
凛がノートPCを開いた。スプレッドシートが表示される。配信のスケジュール、外注案件の進捗、観光協会との連絡予定。凛はこういう場を整理して前に進ませるのがうまい。感情の場面を長引かせない。切り替えが早い。それが凛のやり方だ。
「通常配信は週三回を維持。で、観光協会の特産品配信を月一回入れる。十月のテーマは黒木さんと相談中だけど、候補は宮崎牛か日向夏のジャムだって」
「宮崎牛いいですね。画面映えしそう」
「問題は、特産品配信を通常配信と別の日にするか、通常配信の枠を一回振り替えるか」
「別の日がいいと思います。通常配信を減らすと、お狐仲間が来る習慣が崩れるので」
楓の意見に凛が頷いた。スプレッドシートに「特産品配信:第二土曜」と打ち込んでいく。
「外注は湊が月一〜二件。今の口コミのペースだと、十一月にはもう一件くらい増えそう?」
「依頼の内容によりますけど、Live2Dの調整案件なら月二件は回せます。一から作るモデリング案件が入ると、一件でスケジュールが埋まりますね」
「じゃあ、モデリング案件は納期を長めに設定して、配信の準備と被らないようにする。そのへんのスケジュール管理はあたしがやるから、案件が来たら最初にあたしに振って」
三人でスプレッドシートを埋めていった。十月の配信カレンダー、外注の受付可能枠、観光協会との打ち合わせ日程。凛がセルに色をつけて、配信の日は青、外注の作業日はオレンジ、打ち合わせは緑と分けていく。
話し合いは一時間半に及んだ。最後に凛が「じゃあ、今日はここまで」と締めた。
楓が立ち上がって、窓のそばに行った。金木犀の香りを深く吸い込んで、目を閉じた。窓枠に手をかけて、夕暮れの風を顔に受けている。風は少しだけ冷たくなっていて、夏の湿度が抜けた空気には金木犀の甘さがよく通った。
「いい匂い。秋ですね」
「うん。もう秋だね」
凛が答えた。窓の外の公園では、金木犀の花がオレンジ色の粒になって地面に散り始めていた。
湊は三つの空き缶をまとめてゴミ箱に入れた。事務所を片付ける。椅子を元の位置に戻す。
四月に三人で始めた事務所。六ヶ月が経った。百二十万が二十万になった。でも、百四十人のリスナーと、観光協会の契約と、外注の口コミと、三人の技術が——手元に残っている。
楓が窓から振り返った。
「よし」
その一言が、事務所の六畳に静かに響いた。
凛が「いいね」と言った。湊は頷いた。
秋の風が、金木犀の香りをもう一度運んできた。




