夜と数字
夜の九時を過ぎた事務所に、桐谷 凛と瀬川 湊だけが残っていた。
白石 楓は自宅で明日の配信準備をしている。今日の配信はなし。事務所は静かだった。デスクトップPCのファンの音と、遠くを走る車の音だけが聞こえる。
湊はネコのモデルの物理演算を調整していた。しっぽの揺れ方。慣性と減衰のバランス。前回のうさぎで学んだことが活きている。手は自動的に動いていたが、頭の片隅では凛の気配を追っていた。
PCの右下に日付が出ていた。九月九日。湊の誕生日だ。凛は知っているのだろうか。楓は知らないだろう。自分から言ったことはない。言う理由もない。
凛はスマホを置いて、ノートPCの画面を見つめていた。普段は使わないノートPC。経理用のExcelファイルを開いているのだろうと湊は推測した。凛がノートPCを開くのは、月末の帳簿を整理するときだけだ。今日は九月の頭。月初めに前月の支出をまとめるのは凛のルーティンだった。
ただ、今夜の凛は画面をスクロールする速度が遅かった。一行ずつ確認するように、指が慎重に動いている。
「湊」
凛が声をかけた。画面から目を離さないまま。
「はい」
「ちょっと、話があるんだけど」
凛の声は平坦だった。普段の軽さがない。湊はマウスから手を離して、椅子ごと凛のほうを向いた。
凛がノートPCを閉じた。閉じる音が、静かな事務所に響いた。それからスマホの電卓アプリを開いて、一度だけ画面を自分の側に向けて確認してから、湊に画面を見せた。
「事務所の口座残高、今月の時点で大体これくらい」
画面に数字が表示されていた。
——二十一万。
湊は数字を見て、すぐに計算した。固定費が月六万円。観光協会の案件が月三万円。外注のマージンが月一万から一万五千円。差し引き毎月一万五千円から二万円の赤字。二十一万なら——
「あと三ヶ月くらい、かな」
凛が湊の計算を先取りして言った。
「四月に百二十万で始めて。機材買って、花よみさんにイラスト頼んで、毎月の家賃と光熱費で。デスクトップPCが大きかったけど、あれは必要な投資だったから後悔してない」
凛は淡々と話していた。スマホの電卓を操作しながら、数字を一つずつ説明する。初期投資、毎月の固定費、入ってきた収入、残った金額。凛の指は正確だった。すべての数字を頭に入れている。
「観光協会の月三万は大きい。外注マージンも入るようになった。でも、固定費に追いつかないんだよね」
「はい。月一万五千円の赤字が続く計算です」
「うん。湊も気づいてたでしょ」
湊は頷いた。
「銀行アプリ、見えてたもんね」
凛が苦笑した。
「眼鏡に反射してました」
「知ってた。でも、湊が聞いてこなかったから、まだ大丈夫だと思ってた」
凛がスマホをテーブルに置いた。画面が暗くなった。
「三ヶ月後っていうのは、固定費だけの計算。突発的な出費があったらもっと早い。逆に、外注の案件が増えれば延びる。でも、このままのペースだと——年末くらいが限界」
事務所の蛍光灯が、わずかにちらついた。古いビルだから、電気系統も古い。
「楓さんには」
「言ってない。言うつもりもなかった。でも——」
凛が言葉を切った。少し間があった。
「でも?」
「いつまでも隠してるのも違うかなって。楓にはまだ言わない。でも、湊には知っておいてほしかった」
「なぜですか」
「技術で稼ぐなら、湊と相談しないと計画が立てられないから。あたし一人で営業して、一人で帳簿つけて、一人で考えてたんだけど。一人だと、数字を見つめすぎて視野が狭くなるんだよね」
凛が椅子の背にもたれた。天井を見上げる。湊も凛につられて天井を見た。白い天井に、蛍光灯の明かり。虫の影はいなくなっていた。九月の虫は光に集まらないのかもしれない。
「あたしにできるのは営業と経理。湊にできるのは技術で稼ぐこと。楓にできるのは配信で人を集めること。三人の仕事をちゃんと回せば、赤字は減らせる。ゼロにはならなくても」
「外注の案件、月二件取れれば収支はほぼ均衡します」
「月二件か。今のペースだと厳しいけど、口コミが回り始めてるから、可能性はある」
「ポートフォリオページを作ろうかと思ってます。うさぎとネコのモデルが完成すれば、実績が二件になる。依頼主の許可を取って、ビフォーアフターの動画を載せれば問い合わせが増えるかもしれません」
「いいね。それ、Xでも宣伝できるし」
凛がスマホをテーブルから拾い上げて、何かをメモするように画面をタップした。営業のアイデアを思いついたらすぐにメモする癖。凛らしい動きだった。
「もう一つ。みやびの登録者が増えれば、収益化の条件に近づきます。YouTubeの収益化にはチャンネル登録者五百人と、過去十二ヶ月の総再生時間三千時間が必要です」
「五百人……今百三十くらいだよね」
「はい。まだ遠いですけど」
「遠いね」
凛が笑った。乾いた笑いではなかった。遠いけど、見えないわけじゃない——そういう笑い方だった。
「湊、一つだけ約束して」
「はい」
「楓には、あたしから話す。タイミングを見て、ちゃんと伝えるから。湊から先に言わないで」
「わかりました」
沈黙が落ちた。でも、さっきまでの沈黙とは質が違った。さっきまでは凛が隠していた沈黙。今は、二人が同じ数字を共有した上での沈黙だった。
「じゃあ、帰ろっか」
凛が立ち上がった。ノートPCをバッグにしまう。
「凛さん」
「ん?」
「まあ、なんとかなりますよ」
凛が振り返った。湊の顔を見た。
「……それ、本気で言ってる?」
「本気です」
凛の目が、一瞬だけ揺れた。それから、口元だけで笑った。
「いいね。その言葉、今は信じるよ」
二人で事務所を出た。階段を降りて、外に出る。九月の夜。空気が少しだけ涼しかった。虫の声が八月より近くなっている。
凛が軽自動車のドアを開けた。
「送ってくよ。バス、もうないでしょ」
「大丈夫です、チャリで来てるんで」
「そう。じゃあ、気をつけて」
「凛さんも」
凛のテールランプが駐車場を出て、通りの角を曲がって消えた。赤い光が消えると、駐車場は街灯の薄い明かりだけになった。
湊は自転車にまたがって、夜道を走り始めた。風が顔に当たる。涼しい。田んぼの間を抜ける道は街灯が少なくて、自転車のライトだけが前方を照らしていた。稲穂の匂いが鼻をかすめる。九月の宮崎。稲刈りにはまだ早いが、穂は頭を垂れ始めている。
二十一万。あと三ヶ月。
凛がノートPCを閉じる前に、一度だけ画面を自分の側に向けて確認した仕草を思い出した。あの一瞬に、凛がこれまで一人で数字と向き合ってきた時間が見えた気がした。
ペダルを漕ぐたびに、数字が頭の中で回った。二十一万。月二件。五百人。どれも遠い数字だった。でも、計算できる数字でもあった。計算できるということは、やるべきことが見えるということだ。
湊はペダルを少しだけ強く踏んだ。




