手と問い
「あー……これか」
瀬川 湊は独り言を呟きながら、モニターを見つめていた。九月上旬の事務所。エアコンの設定温度を二十八度に上げた。八月よりはましだが、まだ暑い日が続いている。
画面にはみやびのLive2Dモデルが表示されていた。目元のパラメータを微調整している。配信を重ねるうちに、まばたきの速度が楓のテンポと微妙にずれてきた。楓の自然なまばたきは平均三秒に一回。モデルの初期設定では三・五秒だった。〇・五秒の差が、長い配信では蓄積して不自然さになる。
湊は数値を三・〇に変更して、テスト用のカメラで自分の顔を映してみた。まばたきする。モデルが追従する。〇・五秒の修正が、画面の中のみやびを少しだけ「生きている」方に近づけた。
こういう調整を、湊はもう何十回と繰り返してきた。首の角度、口の開き方、髪の揺れ方。パラメータの一つひとつを楓に合わせて削り出す作業。地味で、誰にも気づかれない。でも、みやびの配信を支えている土台はここにある。
隣のウィンドウには、先月納品したうさぎのモデルのデータが残っていた。依頼主から「とても良い仕上がりです」と返事が来て、報酬も振り込まれた。修正依頼はゼロ。完璧な納品だった。
湊はうさぎのモデルデータを開いた。まばたきのパラメータを確認する。四秒に一回。仕様書通りの数値。変える理由がない。仕様書通りに動けば、依頼は完了する。
みやびのモデルに戻る。三・〇秒。この数値には根拠がある。楓が配信中に笑ったときのまばたきのリズム。楓が黙り込んだときのまばたきの間隔。楓が「ふふ」と含み笑いをしたときの目の動き。そのすべてを観察して、平均して、そこからさらに「みやびらしさ」を足して調整した数値だ。
——何が違うんだろう。
湊は椅子の背にもたれた。天井を見る。事務所の天井は白い。蛍光灯のカバーに虫の影が見える。
技術的には、うさぎのモデルもみやびのモデルも同じ工程で作っている。パーツ分けの確認、メッシュの作成、デフォーマの設定、パラメータの設計、物理演算の調整。使うソフトも同じ。使う手順も同じ。
でも、うさぎのモデルを触っているときと、みやびのモデルを触っているときでは、手の動かし方が違った。うさぎは仕様に沿って組み立てる。マニュアル通りの手順。みやびは——手が勝手に動く。「ここをこうしたら、楓ならこう反応するだろう」という想像が先に立って、それに技術が追いつく感覚。
桐谷 凛が事務所に入ってきた。今日は午前中から不在だった。
「ただいま。暑かった……」
「お疲れさまです」
「湊、何やってるの?」
「みやびのまばたきの調整です。〇・五秒ずれてたので」
「〇・五秒って、わかるもの?」
「長い配信だとわかります。蓄積するので」
凛が「ふーん」と言って、自分のデスクに座った。ペットボトルの水を飲みながら、スマホでXのタイムラインを確認している。いつもの凛だ。ただ、靴のつま先が少し汚れている。事務所の中にいるだけでは汚れない種類の汚れ。
湊はそれに気づいて、何も言わなかった。
「ねえ、次の外注案件、もう一件来てるよ」
「もう一件?」
「前回のうさぎの人がXで湊のことを褒めてくれてて。それを見た別の個人勢から問い合わせが来た」
「ありがたいですね」
「口コミだね。最強の営業は口コミだから」
凛が画面を見せてくれた。今度の依頼はネコモチーフのキャラクター。予算は四万円。前回と同じくらいの規模感だ。
「やれます」
「即答だね。また」
「モデリングは得意ですから」
凛が笑った。前回と同じやり取り。でも、凛の表情は前回より少しだけ柔らかかった。口コミで仕事が繋がった。営業の成果が、形になり始めている。
「ちなみに、納期はどれくらいですか」
「二週間くらいで大丈夫かなって返事したんだけど、いける?」
「いけます。前回の工数から逆算すると、パーツ分けで二日、メッシュとデフォーマで三日、パラメータと物理演算で三日。テストと微調整を入れて十二日あれば余裕です」
「さすが。見積もりが早い」
「うさぎで一回やってますからね。手順がそのまま使えるので」
凛が「ふーん」と頷いて、スマホに返信を打ち始めた。カタカタと軽快な音。凛の指はメッセージを打つのが早い。営業の返信は鮮度が大事だと前に言っていた。
湊は依頼主のイラストデータを受け取って、パーツ分けの確認を始めた。ネコの耳、しっぽ、肉球。モチーフは違うが、作業の流れは同じだ。
ネコの耳のイラストを拡大する。うさぎの耳とは構造が違った。うさぎの耳は長くて垂れるから、重力方向への揺れを重視すればよかった。ネコの耳は三角形で、ピンと立っている。音に反応してぴくぴく動く表現が必要になる。左右独立で動かすか、連動させるか。依頼主のキャラクターデザインを見直した。ネコ耳の内側にピンク色の毛が描かれている。ここまで動きで見せられれば、モデルの品質が一段上がる。
しっぽはS字カーブで描かれていた。うさぎのしっぽは丸くて短かったから物理演算はシンプルだったが、ネコのしっぽは長い。歩く動作に合わせてゆらゆら揺れる慣性と、感情に合わせてピンと立つ表現。二種類の動きを切り替えるパラメータ設計が必要になる。
手が動き始める。パーツを確認して、メッシュの設計図を頭に描いて、必要な工数を見積もる。慣れた手順。
——でも、やっぱり違う。
みやびのモデルを触っているときは、「これでいい」ではなく「これがいい」と思えるまで手を止めない。うさぎもネコも、「これでいい」で止まる。仕様を満たしている。問題ない。それ以上を求める理由がない。
湊はネコのパーツ分けの確認をいったん中断して、みやびのモデルデータに戻った。さっき調整したまばたきのパラメータ。三・〇秒。この数値をファイルに保存する。
保存ボタンを押す瞬間、湊の手が一瞬だけ止まった。
ネコのモデルを触っているときは、頭が先に動いていた。仕様を読んで、手順を組み立てて、その通りに手を動かす。効率がいい。ミスも少ない。だからこそ、前回のうさぎは修正依頼ゼロで納品できた。
みやびのモデルを触っているときは、順番が逆だった。手が先に動いて、頭があとから追いかける。なぜこの数値にしたのかを聞かれたら、技術的な理由は説明できる。でも、最初に手を動かした瞬間には、理由なんて考えていなかった。楓の顔が浮かんで、手が勝手にパラメータを変えていた。
何のために作っているのか。
技術で事務所を支える。それが湊の役割だ。外注仕事で稼ぐ。配信の裏方を担当する。機材を管理する。技術的な問題を解決する。それが湊の仕事だ。
でも——みやびのモデルを触っているときだけ、「仕事」という言葉が合わない気がする。
凛が「今日の分のX投稿作るね」と言って、キーボードを叩き始めた。事務所の中にキーボードの音が二つ重なる。
湊はモニターに向き直った。みやびのモデルデータ。調整ログを開く。四月から九月までの変更履歴がずらりと並んでいる。まばたき速度の変更、首の可動域の拡張、口角の上がり方の微調整、目の輝きパラメータの追加。何十回、何百回の調整の積み重ね。
その一つひとつに、楓の顔があった。楓が笑ったときの記録。楓が黙り込んだときの記録。楓が「よし!」と気合を入れたときの記録。
湊はログを閉じた。
答えはまだ見つからない。でも、問いだけはある。何のために——この手を動かしているのか。




