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素顔と夜風

八月の終わりの夜は、少しだけ風が変わる。


瀬川(せがわ) (みなと)は事務所のデスクで配信のモニタリングをしていた。白石(しらいし) (かえで)の自宅からの配信。雑談枠。桐谷(きりたに) (りん)は今日は不在で、湊が一人で裏方を担当している。


同接は二十一人。平均的な数字。コメント欄は穏やかに流れている。


『今日はね、ちょっと真面目なお話をしてもいいかしら』


>いいよ

>何でも聞くんよ

>みやびちゃんの真面目な話好き

>待ってました


『ありがとう。あのね——最近、「演じる」ってことについて考えることが多くて』


湊の指がキーボードの上で止まった。


『みやびって、私が演じているキャラクターでしょう? 和風で、ミステリアスで、「ふふ」って笑う。でもね、最近……その境目が、ちょっとわからなくなるときがあるの』


>どういうこと?

>みやびちゃんはみやびちゃんだよ

>深い話だ


『たとえば、お狐仲間のみんなと話してるとき。「みやびとして話してる」のか「私として話してる」のか、自分でもわからない瞬間がある。嬉しいって思うのは——みやびなのか、私なのか』


湊はパラメータを確認した。反射的に。感情反映の兆候がないかを見る癖がついている。


パラメータは正常だった。今の楓の言葉は、演技でも感情の隠蔽でもない。自分から、自分の言葉で語っている。


>わかる気がする

>配信者あるあるなのかな

>でもどっちでもいいんじゃない?

>みやびちゃんが楽しそうならそれでいいんよ

>なんか泣きそうになった


『ふふ、そうかもしれないわね。でもね——私、昔お芝居をやっていたの。舞台で』


湊の手が完全に止まった。楓が、配信で過去のことを話している。


>え、役者さん!?

>すごい

>だから表現力あるんだ

>みやびちゃんの声、確かにプロっぽいんよ


『そんなにすごくないの。小さな劇団で、ずっと端っこにいただけ。……一つだけ、忘れられない舞台があってね』


コメント欄が静かになった。リスナーが聞いている。


『台詞がたった二行しかない役だったの。村娘の役。主役たちが出て行く場面で、「いってらっしゃい」と「おかえりなさい」。それだけ。でもね、演出家の先輩に言われたの——「その二言に、この村で過ごした二十年を込めろ」って』


>……

>すごい話だ

>二行に二十年


『必死に考えた。朝は井戸に水を汲みに行って、畑仕事をして、同じ景色をずっと見て暮らしてきた村娘が、旅立つ人を送り出すときに何を思うのか。本番では——自分でも何が起きたのかわからなかったけれど、「いってらっしゃい」を言った瞬間、客席の空気が変わったの。演じてるのか、本当にそう思ってるのか、自分でもわからなかった。あの感覚が、忘れられなくて』


>みやびちゃん……

>鳥肌立った

>それがみやびの原点なんだね

>聞けてよかったんよ


湊はモニターの文字を追いながら、楓の声を聴いていた。みやびの口調のまま、でも語っている内容は楓自身のものだった。配信という「アバター越し」の場だからこそ語れる話なのかもしれない。


『みやびも、最初は「演じるキャラクター」だった。でも、みんなと話すうちに——みやびが、私の一部になってきた気がするの。演じてるんじゃなくて、みやびとして生きてる時間が増えてきたっていうか』


>みやびちゃん……

>なんかグッと来た

>それ聞けて嬉しい

>みやびちゃんはみやびちゃんだよ。演じてようが素だろうが

>お狐仲間でよかった


『ありがとう。……ごめんね、急に真面目な話して。でも、みんなに聞いてほしかったの。お狐仲間は、みやびのことをちゃんと見てくれてるから』


>聞けてよかった

>これからも応援するんよ

>みやびの社にお参り続けます

>今日の配信、永久保存版だわ


みやびが微笑んだ。画面の中の笑顔は穏やかで、いつもの「ふふ」とは少し違う温度があった。


湊はモニターを見つめていた。パラメータは正常のまま。感情反映は起きていない。今夜のみやびの表情は、すべて楓自身が意識して作っている表情だ。


でも——「意識して作っている」のとは、少し違う気がした。楓が素で笑っているのか、みやびとして笑っているのか。その境目が溶けている。楓自身が言ったように。


配信は一時間で終わった。いつもより短い。楓が「今日はここまで。また来てね」と締めくくって、コメント欄に「おやすみ」と「#みやびの社」が並んだ。


配信後、湊はDiscordで楓にメッセージを送った。


「配信お疲れさまでした。音声・映像とも問題なしです」


いつもの業務連絡。いつもと同じ文面。


楓からの返信が来た。


「ありがとうございます! 今日ちょっと真面目に喋りすぎちゃいました。変じゃなかったですか?」


「変じゃなかったです。リスナーの反応もよかったと思います」


送信してから、湊は少し考えた。業務連絡としては十分だ。でも、楓が聞きたいのは技術レポートではないような気がした。


「村娘の話、いい話でした」


打ってから送信ボタンを押すまで、五秒ほど迷った。業務の範囲を越えている気がした。でも送った。


「えっ、ちゃんと聞いてくれてたんですね!! 嬉しい!!」


「裏方なので、配信中は常に聴いてます」


「それは知ってますけど!! そういうことじゃなくて!!」


「すみません、何が違うのかよくわかってないです」


「……湊くんらしいです。おやすみなさい!」


「おやすみなさい」


湊はスマホを置いた。楓の「そういうことじゃなくて」の意味は、正直なところわからなかった。


事務所の窓を開けると、夜風が入ってきた。八月の終わり。昼間のアスファルトの熱がまだ残っていて、窓から入る空気はぬるかった。それでも、七月の夜風とは違う。肌に触れる風のどこかに、乾いた涼しさが混じっている。蝉の声が少しだけ減った気がする。代わりに、虫の音が混じり始めている。鈴虫だろうか。高くて細い音が、事務所の前の植え込みのあたりから聞こえてくる。季節が動いている。


窓の外の空は、街灯に照らされて薄い紫色をしていた。宮崎の夜は東京に比べて暗い。その分、空の色がよく見える。星がいくつか見えた。


楓が言った「境目がわからなくなる」という声が、まだ耳の奥に残っている気がした。


湊はデスクトップPCの電源を落として、事務所の鍵を閉めた。

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