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電卓と沈黙

外注仕事のうさぎのモデルが完成した。


瀬川(せがわ) (みなと)は納品データを最終チェックしていた。まばたき、口の開閉、首の傾き、髪の揺れ。すべてのパラメータが仕様通りに動いている。テスト用のトラッキングカメラで自分の顔を映して、モデルの動作を確認する。眉を上げれば耳がぴくりと反応し、口を開けば前歯がちらりと覗く。うさぎモチーフ特有の動きを、仕様書の指定通りに組み込んである。


物理演算のテストに移った。頭を左右に振ると、長い耳がワンテンポ遅れて揺れる。減衰率を調整したおかげで、ぶんぶん振っても耳が暴れない。もう一つ確認。急に動きを止めると、耳の先端だけがふわりと余韻を残す。これが依頼者の求めていた「もちもち感」の正体だ。


問題なし。


湊はデータの最終パッケージングに取りかかった。Live2Dのモデルファイル、パラメータ一覧、テクスチャのPSD、動作確認用の短い録画。フォルダ構成を整理して、ファイル名の命名規則が先方の指定通りか確認する。納品物のREADMEに、パラメータの調整範囲と推奨値を記載しておく。次にモデルを触る人が困らないように。


納品メールの文面を書く。修正が必要な場合の対応期間、データの取り扱いについての注意事項。桐谷(きりたに) (りん)に見せて、「いいんじゃない」の一言をもらってから送信した。


八月中旬の夕方。事務所には湊と凛だけだった。白石(しらいし) (かえで)は自宅で明日の配信の準備をしている。


「お疲れさま。初仕事、完了だね」


「はい。修正依頼が来なければ、これで終わりです」


「報酬は先方が確認してから振り込みだから、来月頭くらいかな。三万五千円」


凛の声は軽かった。でも湊は、凛が報酬の金額を正確に覚えていることに気づいた。湊の取り分は七割の二万四千五百円。事務所に入るのは三割の一万五百円。


「次の案件も探してるんだけど、クラウドソーシングは競争が激しくてね。単価が安い案件ばっかり」


「みやびのモデルの実績があるので、ポートフォリオは強いと思います」


「そうだね。でも、実績だけじゃ差別化しにくいのが現実なんだよね」


凛がスマホを操作していた。電卓アプリではなく、銀行アプリ。画面を傾けて湊に見えないようにしている——つもりだろうが、湊の席からは画面の光が凛の眼鏡に反射しているのが見えた。レンズに映った数字の並びは読み取れない。ただ、凛の親指がスクロールを繰り返しているのはわかった。残高を確認しているのか、入出金の履歴を追っているのか。どちらにしても、軽い声とは違う指の動きだった。


湊は何も言わなかった。


「ねえ湊、ちょっと聞いていい?」


「はい」


「外注仕事、月にどのくらいの量ならこなせる? みやびの配信裏方と並行で」


「モデリングの規模によりますけど……みやびの配信裏方が週三回で、その合間に作業するなら、月一件が現実的です。二件は厳しい」


「月一件か。三万から五万。事務所の取り分は一万から一万五千……」


凛が指を止めた。数字を計算しているのだろう。事務所の固定費は月六万円。家賃四万五千円に光熱費と回線で一万五千円。観光協会の案件が月三万円。外注の事務所マージンが一万から一万五千円。合わせても四万五千円にしかならない。毎月一万五千円の赤字が続く計算になる。


凛が立ち上がって給湯室に行き、インスタントのコーヒーを二つ作って戻ってきた。一つを湊のデスクに置く。湊が「ありがとうございます」と言うと、凛は自分のカップに口をつけて、少し間を置いてから口を開いた。


「まあ、なんとかなるでしょ」


凛がスマホをポケットにしまった。「なんとかなるでしょ」は凛の言葉だが、湊の「まあ、なんとかなりますよ」とは響きが違った。凛のそれは、自分に言い聞かせている音がした。


湊は黙ってモニターに向き直った。みやびのモデルデータを開いた。明日の配信に向けて、先週調整したパラメータの確認をしておく。


画面の中で、みやびがまばたきを繰り返している。浴衣衣装のまま。次の配信で通常衣装に戻す切り替え設定も確認しないといけない。衣装切り替え時にテクスチャの読み込み遅延が起きないか、OBSのシーンプリセットを事前にテストしておく必要がある。


「湊」


「はい」


「明日の配信、何時から?」


「夜九時です。楓さんの自宅から。いつも通りリモートで裏方やります」


「了解。あたしは……明日はちょっと用事があって、配信の途中で抜けるかも」


「用事ですか」


「うん、ちょっとね」


凛はそれ以上言わなかった。湊も聞かなかった。


最近、凛が「ちょっと用事」で事務所を離れることが増えた。出勤が遅い日もある。七月の終わりくらいから。理由は聞いていない。凛が言わないなら、言えない理由があるのだろう。社長という立場で、自分の弱みを後輩に見せたくないのかもしれない。湊の知る凛は、そういう人だった。大学のサークル時代から、無茶な企画でも「大丈夫」と笑って走り出す先輩だった。


事務所の窓の外では、夏の日が傾き始めていた。八月の日没は遅い。まだ明るいのに、空の端だけが橙色に染まっている。西日が事務所の壁を斜めに照らして、デスクの上の書類や空のカップに長い影を作っていた。


凛が荷物をまとめ始めた。バッグに財布とスマホを入れて、デスクの上を手早く片付ける。棚に立てかけてあった折りたたみ傘を手に取りかけて、窓の外を見て、棚に戻した。


「お先に」


「お疲れさまです」


「あ、湊。一つだけ」


凛がドアの前で振り返った。


「外注仕事、もっと取れるように営業頑張るから。湊の腕は確かなんだし。あとはあたしの仕事」


「はい」


凛が出ていった。いつもより三十分早い。ドアが閉まった後、階段を降りる足音がしばらく聞こえて、それも消えた。


湊は一人になった事務所で、エアコンの音を聞いていた。凛が淹れてくれたコーヒーはもうぬるくなっている。


凛の「なんとかなるでしょ」が、まだ耳に残っている。

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