劇団と通知
「あ」
白石 楓がスマホを見て、小さく声を漏らした。
八月中旬の昼下がり。事務所で三人が次の配信企画を話し合っている最中だった。楓の手元でスマホが光り、通知音が鳴った。
「どうしたの」
桐谷 凛が聞いた。
「いえ、なんでもない。昔の知り合いからで——」
楓がスマホを裏返してテーブルに置いた。画面を伏せる動作が、少しだけ速かった。
「昔の知り合い?」
「劇団のときの……先輩です。久しぶりに連絡が来て」
瀬川 湊は楓の顔を見た。笑っている。いつもの楓の笑顔。でも目元が、ほんの少しだけ硬い。
「懐かしいね。何て言ってきたの?」
凛が何気なく聞いた。
「『元気? 最近どうしてるの?』って。SNSでみやびの活動を見つけたみたいで。『VTuberやってるんだ、すごいね』って」
「いい反応じゃない」
「……うん。そうですね」
楓の声のトーンが、一瞬だけ下がった。すぐに戻った。気づかない人は気づかないくらいの変化。
湊は気づいた。
配信企画の話し合いが再開した。凛が「九月は防災の日があるから、防災グッズ紹介配信とかどう?」と提案し、楓が「面白い! みやびが防災リュックの中身を紹介するの?」と乗った。湊は配信で使える演出を考え始めた。
話し合いが一段落して、凛がコンビニに飲み物を買いに出た。
事務所に楓と二人きりになった。
湊はデスクトップPCで外注仕事のモデリングを進めていた。うさぎのモデル。まばたきのパラメータを調整している。口の開閉のデフォーマを設定して、テスト再生を繰り返す。みやびのモデルと並行で作業する日々が続いていた。昼間はみやびの配信準備やパラメータの微調整、夜は外注のうさぎ。二つのプロジェクトファイルを行き来する生活にも慣れてきた。
楓が自分のスマホを手に取った。さっき裏返していたスマホ。画面をスクロールしている。
「湊くん」
「はい」
「劇団って、知ってます? 小劇場の」
「名前くらいは。大学のサークルで映像やってたときに、学生劇団の公演を撮影したことがあります」
「そっか。私がいたのは東京の小さい劇団で。高校を出てすぐ入って、七年。端役ばっかりでした」
湊はモニターから目を離さなかった。楓が話したいなら、聞く。ただし正面から見つめると、楓は「よし!」と空元気を出してしまう。だから、画面を見たまま聞いた。
「七年は長いですね」
「長いよね。七年やって、一度もメインの役がもらえなかった。『技巧は完璧だが何かが足りない』って、ずっと言われてた」
「何が足りないって言われたんですか」
「わからない。自分でもわからなかった。台詞は完璧に入る。動きも正確。でも、お客さんの心に届かないって。私はちゃんとやってるのに——って、ずっと思ってた」
楓がスマホの画面に目を落とした。先輩からのメッセージを読み返しているのかもしれない。
「一回だけ、主役のアンダースタディをやったことがあるの。代役ね。本番二日前に主役の子が体調を崩して、私に回ってきた。台詞は全部入ってた。立ち位置も完璧に覚えてた。だって七年間、舞台袖からずっと見てたから」
湊の手はキーボードの上で止まっていた。
「お客さんは普通に拍手してくれた。でも終演後に演出家が言ったの。『楓ちゃんは上手だけど、上手なだけなんだよね』って。それが一番きつかった。下手だって言われるほうがまだましだった」
楓の声は相変わらず平坦だった。感情を乗せないのではなく、乗せないことに慣れすぎている声だった。
「さっきの連絡、その先輩からですか」
「うん。良い人なの。私が辞めるとき、引き留めてくれた人。『もう少しやってみなよ』って。でも——もう限界だった」
楓の指がスマホのケースの角を撫でていた。無意識の動作だろう。
「辞める日に、楽屋を片づけたの。七年分の台本を段ボールに詰めて。先輩が手伝ってくれて、『これだけやったんだから、胸張りなよ』って言ってくれた。段ボールは今もアパートにあるんだけどね。開けてない」
沈黙が落ちた。エアコンの音だけが部屋を満たしている。
「みやびの配信、見てくれたって言ってました。『表情がすごくいいね』って。笑っちゃいますよね。舞台のときは届かなかったのに、アバター越しだと届くなんて」
マウスを握ったまま、湊は動けなかった。
アバター越しだと届く。
その言葉が、湊の中で引っかかった。みやびのモデルは湊が調整した。楓の表現がリスナーに届くのは、モデルの精度も関係している——のかもしれない。
でも、それだけじゃない。楓の声と、楓の言葉と、楓が配信に込めている何かが、画面を通して伝わっている。技術はあくまで器だ。中身は楓自身のもの。
湊は画面の端に表示されているうさぎのモデルに目をやった。外注仕事のうさぎ。仕様通りに動く、きれいなモデル。依頼主がこのうさぎで配信をしたとき、リスナーに何かが届くかどうかは、湊にはわからない。湊が作れるのはあくまで器だけだ。
「湊くんが作ってくれたモデルだから、かもしれないですけどね」
楓が軽く言った。湊は返す言葉を探した。見つからなかった。
ドアが開いて、凛が戻ってきた。
「麦茶買ってきた。楓の分も」
「ありがとうございます!」
楓の声が跳ねた。いつものトーン。明るくて、人懐っこくて、元気。
「よし! 配信企画の続き、やりましょう!」
楓が手を叩いた。「よし」の音が、事務所の六畳に響いた。
湊は——そのトーンが、さっきまでの会話の直後にしては、少し明るすぎることに気づいていた。




