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エアコンと初仕事

八月の事務所は、エアコンとの戦いだった。


室外機が唸る音が窓の外から聞こえる。六畳の部屋にエアコンが一台。設定温度は二十七度。それでも瀬川(せがわ) (みなと)のデスクトップPCは排熱を続けていて、部屋の温度は体感で三十度近い。


「……電気代、やばいかも」


桐谷(きりたに) (りん)が封筒を手に固まっていた。事務所のポストに届いた電気料金の請求書。七月分。


「いくらですか」


「見ないほうがいいよ」


凛がそう言って封筒をデスクの引き出しにしまった。湊はそれ以上聞かなかった。凛が「見ないほうがいい」と言うときは、本当に見ないほうがいい。


七月はデスクトップPCの導入で電力消費が跳ね上がった。エアコンもフル稼働。宮崎の夏は容赦がない。


「でもね」


凛がスマホを操作しながら言った。表情が切り替わる。さっきの渋い顔から、いつもの「面白いもの見つけた」の顔に。


「仕事が来た」


「仕事?」


「クラウドソーシングで営業かけてた案件。個人勢VTuberのLive2Dモデリング。先方から返事が来たの」


湊の手が止まった。


クラウドソーシング。凛が七月から登録して、湊のポートフォリオを載せていたサイト。みやびのモデルのスクリーンショットと、配信中のトラッキング映像を実績として掲載していた。凛はさらに、VTuber関連のコミュニティやXでも「モデリング承ります」の投稿を定期的に流していた。湊が知らないうちに、凛は十件以上のDMを送っていたらしい。そのうちの一件が、ようやく返ってきた。


「個人勢って、事務所に所属してない人ですか」


「そう。自分でイラストは用意してるんだけど、Live2Dのモデリングができる人を探してるって。予算は三万円から五万円」


三万円から五万円。事務所にとっては大きい。湊の取り分は七割だから、二万一千円から三万五千円。残りの三割が事務所に入る。


「やれます」


湊は即答した。


「即答だね」


「モデリングは得意ですから。イラストのパーツ分けがちゃんとしていれば、二週間あれば」


「パーツ分けの仕様を確認して、見積もり出してくれる? あたしが先方に返すから」


「はい」


凛がDMの画面を見せてくれた。依頼主は個人勢のVTuber。アイコンはパステルカラーのうさぎのキャラクター。フォロワー数は千人ほど。みやびより先輩だ。


DMのやり取りを遡ると、凛のメッセージが並んでいた。丁寧だが要点を押さえた文体。事務所の紹介、湊の実績、対応できる範囲。営業メールのテンプレートを自分で作ったのだろう。凛は技術の中身はわからないが、「何をどう売るか」については湊の百倍うまい。


「凛さん、これ全部自分で書いたんですか」


「まあね。他の案件は返事来なかったけど、この人は具体的に聞いてきてくれて。予算も最初から提示してくれたし、やり取りしやすい相手だと思うよ」


凛がそう言って画面をスクロールした。先方とのやり取りは丁寧で、返信も早い。依頼に慣れていないが、真剣に探していることが伝わってきた。


湊はイラストの仕様を確認しながら、見積もりの文面を考えた。パーツ分けの確認項目、納期、修正回数の上限。凛が「こういうの慣れてないから、テンプレ作ってくれると助かる」と言った。


夕方、白石(しらいし) (かえで)が事務所に来た。バイト上がりらしく、少し汗ばんでいた。


「暑い……。事務所のエアコン、天国ですね」


「天国の電気代は地獄だけどね」


凛が笑った。楓はきょとんとした。


「それよりね、湊に仕事が来たよ」


「え、本当ですか!」


楓が湊に向き直った。


「おめでとう! 外のお仕事ですよね? すごいじゃないですか」


「まだ受注が決まったわけじゃないですけど」


「湊くんの腕なら大丈夫ですよ。みやびのモデル、リスナーさんにも評判いいんですから」


楓の言葉は素直だった。湊は「ありがとうございます」と返した。


夜、楓が帰ったあと、湊は一人でデスクトップPCに向かった。


依頼主のイラストデータをダウンロードして開く。パステルカラーのうさぎ。丸い目、ふわふわの耳、柔らかい色使い。みやびの和風ミステリアスとは正反対のデザインだった。


パーツ分けを確認する。目、眉、口、髪、体。レイヤー構造は基本に忠実で、クセがない。教科書通りの分け方。目のパーツは左右対称に切り分けられていて、まぶたの開閉用のクリッピングマスクも適切に準備されていた。口のパーツも、開いたときに見える歯と舌のレイヤーが別々に用意されている。丁寧な仕事だ。イラストレーターがLive2Dの構造を理解して描いていることがわかる。


みやびのイラストは違った。花よみさんの絵は芸術作品として完成度が高い分、Live2D向けのパーツ分けが想定されていない箇所があった。目元の装飾線が顔のパーツと髪のパーツにまたがっていて、どちらのレイヤーに含めるかで湊は半日悩んだ。結局、装飾線だけを独立したパーツにして、目と髪の両方の動きに追従するよう二重にデフォーマを設定した。あの工夫があるから、みやびが髪を揺らしたときに目元の印象が崩れない。


このうさぎは——素直だ。


湊はLive2D Cubismを起動した。新規プロジェクトを作成する。メッシュを割り始めた。パラメータの設計図を頭の中に描く。まばたき、口の開閉、首の傾き、髪の揺れ。基本的な動きから組み立てていく。


手が動く。慣れた作業。みやびのモデルで培った技術が、そのまま使える。


ただ——何かが違った。


みやびのときは、パラメータの一つひとつに意味があった。この角度で首をかしげたときの印象、この速度でまばたきしたときの柔らかさ。楓の表現を引き出すために、数値の一つひとつを調整した。まばたきの速度を0.1秒変えるだけで、みやびの雰囲気が変わる。その0.1秒を見つけるために、何度も楓に「ちょっとまばたきしてもらっていいですか」と頼んだ。


このうさぎは、依頼書に書かれた仕様通りに動けばいい。それだけだ。


湊はモニターを見つめた。画面の中のうさぎが、設定通りにまばたきを繰り返している。きれいに動く。問題ない。依頼主は満足するだろう。


仕事だ。これは仕事。


エアコンの風が首筋を撫でた。室外機の唸りが、夏の夜に溶けていく。


湊はマウスを握り直して、メッシュの調整に戻った。

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