映さないはずのもの
湊がOBSのプレビュー画面を開いたとき、特に変わった予感はなかった。
七月半ばの雑談枠。特別な企画はなし。楓が「今日はのんびり話したい気分」と言ったので、湊はいつもの配信設定を組んだ。暖色ライティング、BGMは穏やかなジャズ、オーバーレイは通常仕様。
配信開始から三十分。みやびはリスナーと今日の晩ごはんの話をしていた。
『天ぷらって、お店で食べると全然違わない? 家で揚げると、衣がべちゃってなるの。なんでかしら』
>温度管理だよ
>油の量が違う
>みやびちゃん料理するんだ
>自炊えらい
『するわよ、料理。……あ、でも、最近はちょっとサボり気味かも。コンビニのお弁当が多くて……ふふ、ダメね』
軽い雑談。いつもの空気。同接は十四人。コメント欄は穏やかに流れている。
湊は裏でOBSの設定を微調整しながら、半分だけ配信を聞いていた。
——そのとき、リスナーの一人がコメントを打った。
>みやびちゃん、最近なんか元気ない?
一瞬、配信の空気が変わった。
湊はモニターに目を戻した。みやびの表情は——笑顔のまま。声も変わらない。
『え? 元気よ? いつもと変わらないわ。ふふ、心配してくれてありがとう』
>そっか、よかった
>たしかにちょっと声のトーン低い気もした
>気のせいかな
楓は笑顔で流した。プロの対応だ。元舞台役者の技術。観客に不安を見せない。
でも。
湊のモニターの中で、みやびの表情が——変わっていた。
笑顔の口元は維持されている。しかし、目元に翳りがある。Live2Dのパラメータで言えば、目の開き具合がわずかに小さく、瞳のハイライト位置が下にずれている。設定上、この組み合わせは——ない。
湊は息を止めた。
これだ。五回目。
一回目は五月の雑談配信で、みやびの表情に寂しさが漏れた。二回目は同じ五月の歌枠で、楓の声に切なさが乗った瞬間。三回目は六月の雨の日配信で、ペトリコールの話をしたとき。四回目は先日の怪談配信で、楓が楽屋の鏡の話をした瞬間。そして五回目が——今。
楓の声は明るい。笑っている。「元気よ」と言っている。
でも、アバターの表情は——楓の言葉とは違う何かを映していた。
湊はLive2Dのパラメータログを急いで確認した。トラッキングソフト経由の表情データ。楓の表情筋の動きをリアルタイムで取得し、パラメータに変換する。
口元のトラッキング:正常。笑顔を検出。
目元のトラッキング:正常。通常の開眼状態。
瞳のハイライト:——異常値。手動で設定した位置とのずれ。
入力は正常なのに、出力がずれている。
つまり、楓の顔は笑っている。トラッキングも笑顔を拾っている。なのに、アバターの目元だけが——楓の笑顔の「裏側」を映しているような。
「……バグか?」
湊は呟いた。でも、バグなら再現性がある。毎回起きるはずだ。しかし、この現象は特定の瞬間にしか起きない。
配信は続いている。楓は何事もなかったように、天ぷらの話に戻っていた。みやびの表情も、いつもの笑顔に戻っている。
——配信後。
Discordの音声に楓の声が入った。
「あー、今日ものんびり配信だった。なんかリスナーさんに『元気ない?』って言われちゃったけど、全然元気だよ?」
「そう?」
凛がスマホから顔を上げた。
「元気だよ! ほんとに元気!」
凛は「はいはい」と笑った。
湊は何も言わなかった。
楓がDiscordを落とした後、湊はモニターの前に一人で残った。凛もまだいたが、経費の計算に没頭している。
湊はLive2Dのパラメータログを開き直した。該当箇所のタイムスタンプを記録する。過去四回分のログと並べてみる。
共通点。
一回目:楓が「寂しさ」を感じていた瞬間(デビュー直後、リスナーが少ない時期)。
二回目:楓が歌に感情を乗せすぎた瞬間。
三回目:楓が宮崎に来た理由に触れた瞬間。
四回目:楓が劇団時代の記憶を語った瞬間。
五回目:楓が「元気だ」と嘘をついた瞬間。
——共通点は、「楓が本当の感情を隠しているとき」か「本人も意識していない深い感情が揺れた瞬間」ではないか。
湊は首を振った。それはオカルトだ。Live2Dは数値で動く。トラッキングデータと設定パラメータの演算結果でしかない。「隠された感情」なんて、パラメータに反映されるはずがない。
でも——ログは嘘をつかない。
湊は新しいメモを開いた。
「仮説:表情パラメータの異常は、演者の表面的な表情と内面の感情に乖離がある瞬間に発生する。原因不明。トラッキング入力は正常であり、パラメータの出力段階で未知の変数が介入している可能性。——あるいは、俺の設定ミスが蓄積しているだけの可能性も排除できない」
後者のほうがありえる。たぶん、そうだ。自分が調整したモデルに、微細なバグが残っているのだろう。
湊はモニターを閉じた。
事務所の窓の外で、蝉が鳴き始めていた。梅雨明けが近い。
「湊。まだ残ってるの?」
凛がデスクから声をかけてきた。
「もう少しだけ。ちょっと気になるログがあって」
「無理しないでね」
「大丈夫です。——まあ、なんとかなりますよ」
凛は何も言わず、自分の作業に戻った。
湊だけが知っている。楓の笑顔の裏側を映す、不思議な現象のことを。
——それが技術的なバグなのか、それとも別の何かなのか。
答えは、まだ出ない。




