賞賛と否定
それは、火曜日の朝に見つかった。
楓がスマホを持ったまま、事務所のドアの前で立ち止まっていた。湊が出勤して——といっても実家から自転車で十五分の距離だが——ドアを開けたとき、楓はそこにいた。
「あ、おはよ」
「おはようございます。……どうしたんですか、入らないで」
「うん。ちょっと」
楓の声が、いつもより低かった。「ねえねえ」で始まらない朝は珍しい。
湊は楓の横をすり抜けて事務所に入り、自分のデスクに荷物を置いた。楓も少し遅れて入ってきた。スマホを裏返しにしてテーブルの上に置く。
「見ない方がいい?」
湊が訊いた。楓が少し驚いた顔をした。
「……なんでわかるの?」
「スマホを裏返しに置いたから」
「……湊って、そういうとこ鋭いよね。技術のことだけじゃなくて」
「いや、目の前のものを見てるだけですけど」
楓が小さく笑って、スマホを表に返した。画面にはXのリプライ欄。怪談配信のアーカイブに対するポスト。
ほとんどは好意的なコメントだった。「みやびちゃんの怪談最高」「声がいい」「もっとやって」。でも、その中に——
「『怪談配信って結局ネタの使い回しじゃん。どこかで聞いたことある話ばっかり』『弱小Vが怪談で釣ろうとしてて草』……」
楓が読み上げた。声は平坦だった。平坦すぎた。
「……二件?」
「三件。もう一個は引用ポストで、『こういう企画倒れVTuber多いよな』って」
湊はモニターに向かったまま、少し考えた。
三件。全体のリプライが四十を超える中での三件。割合としては一割以下。でも、楓の目にはそれが全体のように映っているだろう。
——気持ちはわかる。
湊にも覚えがある。大学時代、自分が作ったウェブサイトのデザインをSNSで公開したとき、百件の「いいね」より、一件の「素人っぽい」というコメントのほうが刺さった。
でも、今はそれを言うべきタイミングじゃない。
「凛には見せた?」
「まだ。……凛に言うべきかな」
「言ったほうがいいと思います。凛は、こういうのの対処が俺より上手いんで」
「そう?」
「そうです」
楓がまだ迷っている様子だったが、十分後に凛が出勤してきた。
「おはよ。——なに、二人して深刻な顔して」
凛は事務所に入った瞬間に空気を読んだ。楓がスマホを差し出すと、凛はさっと目を通した。
「ふーん」
凛の反応は、湊の予想どおり淡白だった。
「三件?」
「三件……」
「四十件中の三件でしょ。反応率七・五パーセント。まあ、ネットの標準だね」
「数字の話じゃなくて——」
「数字の話だよ」
凛がキッパリと言った。楓が口を閉じた。
「楓。聞いて。批判コメントには二種類ある。一つは、中身のある批判。もう一つは、ただの悪意。中身のある批判は改善に使える。ただの悪意は——ゴミ箱に入れていい」
「でも……」
「『ネタの使い回し』は、中身あると思う?」
「……怪談って、そもそも有名な話をアレンジして語るものだし」
「じゃあ、ゴミ箱」
「凛ちゃん、ドライすぎない?」
「ドライなんじゃなくて、選んでるの。あたしは、楓のエネルギーをどこに使うかを選んでる。三件のゴミコメントに傷つく時間があるなら、四十件の応援コメントに返信する時間に使いな」
楓が黙った。数秒。それから、小さく息を吐いた。
「……凛、前の仕事でもこういうのあった?」
「あったよ。事務職でも、理不尽なクレームは来る。最初は全部真に受けてたけど、途中から選ぶようになった。全部受け止めてたら、潰れるからね」
凛の声は穏やかだった。経験から来る穏やかさ。
湊は二人のやり取りを聞きながら、別のことを考えていた。
批判コメントへの対策。技術的にできることはあるだろうか。NGワードフィルタの設定。コメント承認制への切り替え。あるいは、コメント分析ツールでネガティブコメントの割合を可視化して、楓に「全体の中での位置づけ」を見せる——。
「湊」
凛の声で、思考が止まった。
「技術で解決しようとしてるでしょ」
「……してないです」
「嘘つき」
凛がふっと鼻で笑った。
「コメントフィルタの強化はお願いするけど、今は楓に必要なのは技術じゃなくて、時間だよ。大丈夫。明日には元気になってるから」
楓が「そうかな」と呟いた。凛が「そうだよ」と返した。
——凛の予想は、半分当たっていた。
翌日、楓は事務所に来るなり「ねえねえ、次の怪談配信のネタ考えたんだけど!」と言った。目は少しだけ赤かったが、声はいつもの楓だった。
落ち込んでるほど明るくなる。
それが楓のパターンだと、湊はもう知っていた。知っていて、何も言わなかった。
代わりに、NGワードフィルタの設定を静かに更新した。それが、湊にできることだった。




