初仕事と七十点
リハーサルは三回やった。
六月下旬、土曜日の午後。事務所の六畳間に三人が揃っている。普段の配信は楓の自宅からだが、今日は違う。初めての案件配信——仕事だ。楓はデスクの前で台本を読み返している。
「台本、覚えた?」
凛がキッチンからマグカップを持って戻ってきた。
「覚えたっていうか……頭に入ってるけど、ガチガチになりそう」
「ガチガチでいいよ。最初は」
「よくなくない?」
「最初の仕事配信で完璧にやろうとするほうが危ない。七十点でいい。先方が『次もお願いしたい』って思ってくれれば勝ちだから」
凛の声は穏やかだが、目は真剣だった。先週の打ち合わせで、観光協会の担当者——五十代の穏やかな男性——から「まずは一本、宮崎マンゴーの紹介をお願いできますか」と依頼を受けた。配信でマンゴーを紹介し、アーカイブを観光協会のサイトに掲載する。報酬は三万円。
三万円。事務所にとって、初めての収入になる。
「湊、準備どう?」
「あー、大丈夫です。オーバーレイのテスト済み、ロゴ表示も問題なし、BGMは観光協会から提供された宮崎PR用の素材を使います。あと、マンゴーの画像スライドを六枚用意しました」
湊はモニターに映したオーバーレイを指差した。画面下部に観光協会のロゴ、右上に「宮崎マンゴー特集」のテロップ。いつもの配信画面に比べて、少しだけ「番組」らしい見た目になっている。
「すごい、テレビみたい」
「テレビは言いすぎですけど、まあ、それっぽくはなったかと」
「湊はこういうとき謙遜するよね。『まあ、なんとかなりますよ』って」
「……なんとかなりますよ」
楓が笑った。凛も、少しだけ口元を緩めた。
——午後八時。配信開始。
『こんばんは、みやびよ。今日は少し特別な配信なの。宮崎の観光協会さんと一緒に、宮崎が誇るマンゴーの魅力をお届けするわ』
>おおー!お仕事配信!
>マンゴー大好き
>みやびちゃん緊張してる?
『緊張してないわよ。……ふふ、嘘。少しだけ、ね』
湊はモニター越しに、みやびの表情を確認していた。Live2Dのパラメータは正常。楓の声にわずかな硬さがあるが、配信が進むにつれて解けていくだろう。
スライドを切り替える。宮崎マンゴーの写真が画面に映し出された。
『宮崎のマンゴーは「太陽のタマゴ」というブランドが有名ね。糖度十五度以上、重さ三百五十グラム以上のものだけが名乗れるの。……って、私が言うと台本読んでるみたいかしら』
>台本あるんだw
>いいじゃんちゃんとしてて
>プロっぽい
『あるわよ、台本。だってお仕事だもの。でもね、台本にないことを一つ言ってもいい?』
楓の声が、少しだけ変わった。台本の「みやび」から、素の楓に近づいた音。
『私、東京にいた頃はマンゴーって高級フルーツのイメージだったの。デパートの地下でしか見ないような。でもね、宮崎に来たら——スーパーに普通に並んでるの。しかも、東京で見てたのと全然違う色をしてて。もっと、赤くて、まるくて、なんていうか……生きてる感じ?』
>わかる!現地のは色が違う
>スーパーで買えるのいいな
>生きてる感じw
湊は手を止めた。
今の楓の言葉は、台本にない。リハーサルでも出なかった。でも、嘘じゃない。楓が宮崎に来て感じたことを、そのまま言葉にしている。
——これだ、と湊は思った。
台本を読むみやびは七十点かもしれない。でも、台本を超えた瞬間のみやびは、百二十点になる。
配信は四十五分で終了。同接は十四人。数字としては普段と大差ない。でも、コメントの質が違った。マンゴーの話から宮崎の食文化の話に広がり、リスナー同士が「地元の名物」で盛り上がる場面もあった。
配信後、凛が観光協会の担当者にメールを送った。アーカイブのURLと、簡単なレポート。
「あとは先方の反応待ちだね」
「ドキドキする……」
「楓、もう終わったのにドキドキしてるの?」
「だって! 変なこと言ってなかったかなって! 台本にないこと言っちゃったし……」
「あれが一番よかったよ」
湊が言った。楓と凛が同時にこちらを見た。
「台本を超えたところが、一番リスナーに刺さってました。コメントの反応速度が明らかに上がってた」
「……そうなの?」
「データ見ますか?」
「見せて見せて!」
楓がモニターに寄ってくる。湊はアナリティクスのリアルタイムデータを開いた。コメント頻度のグラフ。マンゴーの話で台本を外れた十八分あたりから、明確にコメント数が増えている。
「ほんとだ……」
「企業案件でも、みやびらしさを出していいんだと思います。むしろ、出したほうがいい」
楓は画面を見つめたまま、小さく頷いた。
凛がデスクに戻り、キーボードを叩き始めた。何を書いているのか、湊には見えなかった。たぶん、次の営業メールの下書き。あるいは、今日の収支の記録。
三万円。
事務所にとっての、最初の三万円。
その重さを、三人はまだうまく測れない。でも、確かに——何かが始まった手触りがある。
窓の外の雨は、いつの間にか小降りになっていた。




