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返信と準備

「来た」


凛の声に、湊と楓が同時に顔を上げた。


六月半ば、月曜日の午前十一時。凛はノートPCの画面を見つめたまま、右手の人差し指でトラックパッドの上をゆっくりなぞっていた。


「観光協会?」


湊が訊く。凛は小さく頷いた。


「『ご提案いただいた件、前向きに検討させていただきたく、一度お打ち合わせの場を設けさせていただけないでしょうか』——だって」


「前向きに検討!」


楓が椅子から立ち上がった。凛が「まだ決定じゃないから」と釘を刺すが、楓の目はもう輝いている。


「でも、返事来たんだよね? ずっと待ってたやつだよね?」


「まあ、そうだけど」


凛の口調は落ち着いている。でも、湊は見ていた。メールを開いた直後、凛の肩がほんの少し下がったのを。力が抜けた瞬間。あれは安堵だ。


「打ち合わせ、いつです?」


「来週の水曜。市役所の隣の——えっと、観光協会の事務所」


「凛が行くの?」


「あたしが行く。営業はあたしの仕事だから」


凛がノートPCを閉じて、立ち上がった。キッチンに向かい、冷蔵庫からペットボトルのお茶を出す。


「打ち合わせの資料、作らないとね」


「資料って?」


「みやびチャンネルの実績と、宮崎の観光コンテンツをどう発信できるかの提案書。あと料金表」


「料金表……」


楓が不安そうな顔をした。湊もその感覚はわかる。登録者六十人ちょっとのチャンネルに、値段をつけるということ。


「いくらにするんですか?」


「まだ決めてない。相場を調べてから」


凛がお茶を飲みながら言った。「でも、安くしすぎないようにする。最初に安くすると、ずっとそれが基準になるから」


「凛ちゃん、そういうとこしっかりしてるよね」


「事務やってたからね。見積もりの恐ろしさは知ってる」


凛がデスクに戻り、ブラウザを開いた。企業案件の相場、地方自治体のPR予算、インフルエンサーマーケティングの料金表。検索タブが次々に増えていく。


湊は自分の作業に戻りながら、凛の横顔をちらりと見た。


観光協会に企画書を持って行ったのは、五月の終わり。あれから三週間。凛は一度も「まだ返事来ない」と弱音を吐かなかった。毎朝メールを確認して、何もなければ「まだだね」とだけ言って、次の作業に移っていた。


あの三週間を、湊は覚えておこうと思った。


——翌日。


凛がA4用紙に印刷した提案書のドラフトを、テーブルの上に広げた。


「見て。これでどうかな」


表紙に「宮崎の魅力を届ける VTuber×地域コンテンツ ご提案書」とある。中身は六ページ。チャンネル概要、視聴者層の分析(といっても六十人分のアナリティクスだが)、配信企画案、スケジュール、料金表。


「すごい、ちゃんとしてる……」


楓が感心したように見ている。湊は料金のページを確認した。


「動画一本あたりの企画・制作費が……三万円。安くないですか?」


「安いよ。でも、実績がないからね。最初の一本は実績づくり。次から上げる」


「したたかだね、凛」


「したたかって言うな。戦略って言って」


凛が楓を軽くにらんだが、口元は笑っている。


「湊、技術面でなにか補足ある?」


「えっと……配信のアーカイブを観光協会のサイトに埋め込めるようにしておくといいかもしれません。YouTube埋め込みのiframeで。あと、サムネイルは観光協会のロゴを入れる想定にしておけば、先方も使いやすいかと」


「なるほど。追記する」


凛がボールペンでドラフトに書き込んでいく。


楓が提案書をめくりながら、ぽつりと言った。


「ねえ。これ、お仕事なんだよね」


「そうだよ」


「私、お仕事するんだ。VTuberとして」


楓の声が震えたのか弾んだのか、湊には判別がつかなかった。たぶん、両方だ。


「まだ『試しに一本』だからね。気楽にやりな」


凛がそう言って、提案書をまとめた。


六月の雨は、まだ止まない。でも、事務所の中では、少しずつ「仕事」の形が見え始めていた。


湊はデスクに戻り、配信用のテンプレートを新しく作り始めた。企業案件用のオーバーレイ。ロゴの配置スペース、テロップの表示位置、BGMのフェードイン・アウトのタイミング。


まだ受注が確定したわけじゃない。でも、準備はしておく。


それが、技術屋にできる唯一の営業活動だと、湊は思っていた。

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