雨音と、画面の向こう
湊はモニターの前で、OBSの設定画面を見つめていた。
六月の半ば。窓の外では、もう何日目かわからない雨が降り続けている。事務所の六畳間にはエアコンの除湿が回っているが、それでも空気がどこか重い。
「ねえねえ、今日のサムネ見て」
楓がスマホをこちらに突き出してきた。画面には、みやびのアバターが和傘を持っているイラスト——先週、湊がLive2Dの差分として追加した小物だ。
「いいんじゃない」
凛がデスクの向こうから、視線を上げずに言った。手元では請求書のテンプレートを何度目かの修正にかけている。
「凛ちゃん、もうちょっとリアクションほしいな……」
「いいんじゃない、って言ったじゃん」
「それがリアクション薄いって話!」
湊は二人のやり取りを聞きながら、配信用のシーン設定を調整していた。今夜の配信は「雨の日まったり雑談」。楓が自分で企画を出してきたのは、これが初めてだった。
「あー、これか……」
雨音の素材をBGMレイヤーに載せる。フリー素材サイトから拾ってきたものだが、微妙にループの繋ぎ目が目立つ。湊は波形を開いて、クロスフェードの位置を数ミリ秒ずらした。
「湊、そこまでやるの?」
「雨音って意外とごまかしきかないんですよ。同じパターンが繰り返されると、人間の耳って気づくんで」
「へえ……」
楓が湊の画面を覗き込む。波形編集ソフトの画面は、楓にとっては意味不明な線の集まりだろう。でも、楓は最近こうやって覗き込む回数が増えた。以前は「よくわかんない」で終わっていたのが、「へえ」に変わった。
その変化を、湊は悪くないと思っている。
楓が荷物をまとめ始めたとき、凛がデスクの引き出しを開けた。
「あ、そうだ」
コンビニの袋を取り出した。プラスチックケースに入った小さなショートケーキ。
「誕生日だからって、大げさにするつもりはないんだけど」
楓が目を丸くした。
「……凛、覚えてたの」
「覚えてるよ。プロフィールに書いてあったから」
湊は手が止まった。誕生日。楓の。……今日が、そうなのか。
「湊くんは?」
楓がこちらを向いた。
「……知りませんでした」
「言わなきゃわからないでしょ」
「ごめんなさい」
「別にいいよ。来年は覚えておいて」
凛がフォークを二本取り出して、一本を楓に渡した。もう一本を湊の方向に置いた。三人で小さなケーキを分けた。梅雨の蒸し暑さの中で、冷えたクリームが思ったよりおいしかった。
楓は夕方に事務所を出て、自宅に戻った。
——午後九時。楓の自宅から、配信開始。湊は事務所のモニターでOBSの画面を見守っている。
『こんばんは。みやびよ。……今日は、雨の音を聞きながら、のんびりお話ししましょうか』
みやびの声はいつもより少しだけ低い。和風ミステリアスのキャラクターに、雨夜の雰囲気がよく合っていた。
>わーい!雨の日配信嬉しい
>仕事終わりに癒される
>雨音BGMいいね
コメントがぽつぽつと流れ始める。同接は十二人。最近の平均だ。
『ふふ、ありがとう。雨の日って、なんだか話しやすくない? 誰にも聞かれてないような気がして——って、配信で言うことじゃないかしら』
>いや聞いてるよw
>それがいいんだよ
>雨の日のラジオ感ある
湊はモニター越しにコメント欄を見ていた。リスナーの反応が、いつもより柔らかい。数字は変わらないのに、空気が違う。
「雨の日のラジオ感……」
湊は小声で呟いた。配信の裏で、メモ帳に書き加える。「雨音BGM=リスナーの心理的ハードルを下げる? 要検証」
配信は一時間。みやびが宮崎の梅雨について話し、リスナーが各地の雨事情を返す。途中、楓の素の口調がちらりと混じった。
『この前ね——あ、この前ね、って言い方、私っぽくないかしら。ふふ、まあいいわ。この前、事務所の窓を開けたら、雨の匂いがすごくて。東京にいた頃は気づかなかったの。雨に匂いがあるなんて』
>わかる!土の匂いするよね
>ペトリコールってやつ
>東京だとアスファルトの匂いになるもんな
『ペトリコール。素敵な名前ね。……うん、そう。ここに来て初めて、雨が嫌いじゃなくなったかもしれない』
湊の手が止まった。
モニターの中で、みやびの表情が——ほんの一瞬、設定にない柔らかさを見せた気がした。
目を凝らす。しかし、次の瞬間にはいつもの和風ミステリアスな微笑みに戻っていた。
……気のせいか。
湊はモニターから目を離し、技術ログの欄に視線を落とした。前回メモした「表情パラメータの異常現象」の項目がある。再現条件は、まだわからない。
配信が終わった後、Discordの音声に楓の声が入った。
「今日、なんかいつもよりコメント多くなかった?」
「多かったね。同接は変わらないけど、コメント率が高い」
湊がアナリティクスを確認しながら答えた。平均同接十二人に対して、コメント数が普段の一・五倍。
「雨の日配信、定期的にやったらいいんじゃない?」
凛が請求書テンプレートから顔を上げた。珍しく、最初から肯定的なリアクションだった。
「えっ、いいの?」
「いいんじゃない。楓の声、雨に合うし」
「それ褒めてる?」
「褒めてるよ」
凛がさらりと言って、また視線を手元に戻した。スピーカーの向こうで楓が「やった」と小さく声を上げた。
湊は配信データを保存しながら、思った。数字は劇的に変わらない。でも、こうやって「楓に合う配信の形」が少しずつ見つかっていく感覚がある。
窓の外では、まだ雨が降っていた。明日も、たぶん降る。
でも、画面の向こうには十二人がいて、雨の匂いの話で笑っていた。
それは——悪くない夜だった。




