雨と窓際
雨が窓を叩いていた。
六月に入って三日目の朝、宮崎は梅雨入りした。事務所のガラスに雨粒が当たって、不規則なリズムを刻んでいる。いつもは陽射しが差し込む窓が、今日は灰色の光を通すだけだった。フェニックスの並木が濡れて、葉先から雫が落ちている。駐車場のアスファルトが黒く光っていた。空気が湿っていて、事務所のエアコンが除湿モードで低く唸っている。
瀬川湊はパイプ机でノートPCに向かっていた。画面にはスプレッドシートが開いている。桐谷凛のものではない。湊が自分で作った配信環境の改善ログだった。
デビューから一ヶ月半。湊はこの間に手を入れた項目をリスト化していた。OBSの最適化、バッファサイズの変更、トラッキング精度の向上、自宅配信への移行、リモート操作体制の構築、音声ミキサーの調整、歌枠用リバーブの設定。積み重ねると二十項目を超えていた。
リストの末尾に「今後の課題」というセクションを追加する。「Shorts制作の定型化」「配信用デスクトップPCの確保(ノートPCのCPU使用率が配信中に80%超。限界が近い)」。書いてから、もう一行。「表情パラメータの異常現象。再現条件不明。継続観察」。
窓ガラスを雨が叩く音とキーボードのタイプ音が重なって、六畳一間を満たしていた。
ドアが開いて、凛が入ってきた。折りたたみ傘を畳みながら、肩についた雨粒を手で払っている。
「降ってきたね。——天気予報だと一週間はこのまま」
「梅雨ですね。宮崎の梅雨って、こんなに降るんですか」
「降る。六月の降水量、全国でもトップクラスだよ。七月の中旬まで続く」
凛はパイプ椅子に座って、ノートPCを開いた。画面を見る前にスマートフォンでメールを確認している。何通か読んでから、小さくため息をついた。
「観光協会、まだ返事来ないね」
「営業から二週間近いですよね」
「先週もう一本メール入れたから、あとは待つしかない。——焦っても仕方ないし」
凛はそう言いながらスマートフォンをテーブルに置いた。声は軽かったが、ため息は隠せていなかった。
十一時過ぎに白石楓が事務所に来た。傘を差していたのに肩が濡れている。
「おはよう。——雨すごいね」
「宮崎の梅雨、初めてでしょ」
「うん。東京の梅雨とは量が違う。洗濯物が全然乾かなくて困ってる」
凛がフェイスタオルを投げた。事務所の備品棚にあった使い古しのやつだ。楓はそれで髪の毛先を拭きながら、凛の隣に座った。
三人が揃うと、自然と話が始まった。五十人記念配信の準備が中心だったが、合間に他の話題も混じっていく。配信スケジュールの確認、来週の歌枠の曲目、質問募集ポストの文案。楓がスマートフォンの画面を見せて、凛が一箇所修正を入れる。湊はOBSのオーバーレイ素材の進捗を報告した。
ひと通り打ち合わせが終わって、三人がそれぞれの作業に戻った。キーボードの音が三つ重なる。雨の音が少し強くなった。窓ガラスを流れる水滴が、外の景色を歪めている。
「一ヶ月半、けっこうやってきたよね」
楓がスマートフォンのスケジュールアプリを眺めながら言った。
「初配信のときは何を話していいかわからなくて。ゲーム実況も初めてだったし、歌枠もめちゃくちゃ緊張した」
「今は?」
凛が聞いた。
「今も緊張するよ。でも——配信が始まるとコメントが来て、常連さんの名前が見えて。ああ、今日も来てくれたんだって思うと、肩の力が抜けるの」
楓は窓の外を見た。雨が流れるガラスの向こうに、灰色の空が広がっている。
「表情バグのこと——まだ気になってるけどさ。前は怖いだけだった。自分の顔じゃない表情をされるのが、ほんとに怖かった。でも最近は、ちょっと違うの」
「どう違う?」
湊が手を止めて聞いた。
「うまく言えないけど——みやびが、私の知らない私を見せてるのかもしれないって。怖いだけじゃなくなった。怖いけど、気になる」
楓はそれだけ言って、話題を変えた。「来週の歌枠、新しい曲入れたいんだけど、許諾の確認お願いできる?」。湊は頷いて、フリー音源の配信許諾リストを確認し始めた。
凛はコーヒーの缶を開けながら言った。
「あたしはさ、営業のほうで少しだけ手応えを感じてる。観光協会の返事はまだだけど——VTuberって何ですかって聞かれて、実際にみやびを見せて、少しずつ理解してもらえてる感覚がある。泥臭いけど、それが営業の基本なんだなって」
「凛さん、あの企画書すごかったですもんね。営業先で黒木さんが身を乗り出したとき、手応え感じました」
「見よう見まねだよ。でも形にして見せると伝わるんだよね」
凛はコーヒーを一口飲んで、窓の外を見た。少しだけ間があった。
「正直、不安はあるよ。五十人って、まだスタートラインにも立ってない」
そこで口を閉じた。不安を口にしたことに自分で気づいたような顔だった。すぐにいつもの調子に戻す。
「でもまあ、面白いよね。ゼロから何か作るのって。三人で始めて、一ヶ月半で五十人ついて、外から仕事の話が来るかもしれない。悪くないでしょ」
「悪くないです」
湊は素直にそう言った。
「俺も——この一ヶ月半で、やれることが増えた気がします。配信環境の構築なんて大学じゃやったことなかったし、Live2Dのトラッキング精度をここまで追い込んだのも初めてだし。リモート配信の体制づくりも、Shortsの制作も、全部現場で覚えた」
「湊くんの技術がなかったら、みやびはあんなに動かないよ」
楓が言った。
「技術は——道具みたいなもんですよ。使う人がいないと意味がない。楓さんが歌って、演じて、リスナーと話してくれるから、みやびが生きてるんです」
「道具って言うな」
凛が突っ込んだ。
「あんたが作ったものは、楓ちゃんの表現を何倍にもしてるんだよ。まぶたの0.02まで追い込む技術者、そうそういないから」
湊は何か返そうとして、やめた。凛にそう言われると、照れくさいのと、どう返していいかわからないのが同時に来る。
雨が窓を叩く音が、三人の沈黙を埋めた。エアコンの除湿モードの低い唸り。コーヒー缶をテーブルに置く音。椅子がきしむ音。六畳一間の事務所に三人が座っていて、それぞれの手元にはノートPCとスマートフォンがある。
四月にこの部屋に来たときは、パイプ机一つとノートPC一台だけだった。今は机が二つ、パイプ椅子が三つ、機材棚、吸音材、マイクアーム、配信用ケーブル。六畳一間の狭さは変わらないが、中身が変わった。雑然としているのに、どこに何があるか三人とも把握している。それだけの時間を、ここで過ごしたということだった。
「さて」
凛が立ち上がった。
「五十人記念配信の準備、詰めよう。湊はオーバーレイの仕上げ、楓ちゃんは質問募集ポストの投稿。あたしは当日の進行台本作るから」
「了解」
「はーい」
三人がそれぞれの作業に向かった。キーボードの音が三つ重なる。窓の外の雨は止む気配がなかった。梅雨は長い。七月の中旬まで続くと凛が言っていた。
でも雨が降っている間も、やることは止まらない。五十人の次を目指して、三人は手を動かし続ける。
窓ガラスを伝う雨粒が、ゆっくりと下に向かって流れていった。事務所の中はエアコンの唸りと三つのキーボードの音に満たされていて、外の雨音がそれを柔らかく包んでいた。六月の宮崎。梅雨の始まり。大きな事件は起きない。三人がこの場所にいて、それぞれの手を動かしている。それだけの日曜日だった。




