スプレッドシートと沈黙
事務所の六畳一間に、キーボードを叩く音だけが響いていた。
五月最後の日曜日。午後二時。配信のない日の事務所は静かだった。エアコンの送風音と、窓の外から聞こえる鳥の声。パイプ机の上にはコーヒーの缶が一本、結露の水滴がテーブルに丸い染みを作っている。
桐谷凛は一人でノートPCに向かっていた。画面にはスプレッドシートが開いている。セルの中に数字が並んでいる。横軸に月、縦軸に項目。事務所口座の残高、家賃、光熱費、回線費用、機材費、交通費、花よみへの追加発注の余地、雑費。凛の指がスクロールするたびに、数字が上に流れていった。
四月の開始残高は百二十万円だった。機材費十五万円を引いて百五万円。そこから一ヶ月の固定費六万円が引かれて、今月末には——。凛は電卓のアプリを開いて、もう一度計算し直した。事務所口座とは別に、凛個人の貯金がある。事務所に投入しなかった六十万円。そこから自分の家賃、食費、光熱費、車の維持費。毎月の生活費が約十二万円。五ヶ月で底が見えてくる計算だった。
ため息が一つ、部屋に落ちた。凛はコーヒー缶を持ち上げたが、空だった。軽い音を立ててテーブルに戻す。
スプレッドシートの「収入」の列には、まだ何も書かれていなかった。観光協会からの返事は来ていない。湊の外注仕事もまだ入っていない。収入ゼロの状態が続くなら、事務所口座と個人の貯金、両方が同時に減っていく。
凛はもう一度画面を睨んだ。唇を噛む癖が出ていた。人前ではやらない仕草だった。セルの色分けをしている。黒字の月は緑にするつもりだったが、緑はひとつもなかった。全部赤だった。
事務所のドアが開いた。
瀬川湊がノートPCのバッグを肩にかけて入ってきた。配信のない日は自宅で作業するのが最近のパターンだったが、今日は自室のネット回線が不安定だった。
「あ、凛さん——」
凛がノートPCの蓋を閉じた。パタンと音がして、画面の光が消えた。凛が湊のほうを向いたのと、蓋が閉まったのがほぼ同時だった。
「おう、湊。配信ないのに珍しいね」
「自宅の回線が調子悪くて。事務所のほうが安定するんで、使わせてもらっていいですか」
「いいよ、どうぞ」
凛の声はいつも通りだった。飄々として、力の抜けた調子。でも湊は、凛がノートPCの蓋を閉じた動作を見ていた。あれは見せたくないものを隠すときの動きだった。画面に何が表示されていたのか。一瞬だけ見えた数字の列。赤いセル。スプレッドシートの構造。
湊は自分のパイプ机にノートPCを広げた。みやびのLive2Dモデルの表情パラメータを見直す作業に入る。歌枠で起きた現象について、もう一度データを洗い直すつもりだった。
しばらく二人とも無言で作業していた。キーボードを叩く音が二つ重なる。机が二つ向かい合わせに並んでいて、二人の間には一メートル半ほどの距離しかない。
凛がノートPCを開き直したのが視界の隅に見えた。スプレッドシートの画面だった。数字が並んでいる。湊の位置からはセルの中身までは読めないが、赤い色が多いことだけはわかった。
湊は視線をそらした。覗き見るつもりはなかった。
凛がまた画面を閉じた。今度はゆっくりだった。ノートPCの蓋に手を置いたまま、窓の外を見ている。アパートの駐車場と、その向こうにフェニックスの木。葉先が風に揺れて、影が地面を這っていた。
「凛さん」
「ん?」
「何か手伝えることあります?」
凛は一瞬だけ湊を見て、それからいつもの笑顔を浮かべた。
「大丈夫。ちょっと数字の整理してただけ。——それより湊、歌枠のデータどう?」
話題を変えた。凛がこういう切り替え方をするとき、追求しないほうがいいと湊は経験的に知っていた。大学のサークル時代からそうだった。凛は困っていても顔に出さない。出しかけても、すぐに蓋をする。
「まだ解析中です。パラメータの推移グラフとアーカイブの表情を突き合わせてるんですけど、やっぱり数値と見た目にズレがあって」
「前回と同じ結論になりそう?」
「正直、そうなりそうです」
凛は頷いた。スマートフォンを取り出して、メールを確認し始めた。受信トレイをスクロールする指の動きが速い。何通か読んで、何も返信せずにスマートフォンをテーブルに置いた。営業先への返事待ちかもしれなかった。
湊は自分の作業に戻った。モニターにはみやびの表情パラメータのグラフが表示されている。数値の曲線を追いながら、さっきの凛の横顔が頭の隅に残っていた。
ノートPCを閉じた瞬間の速さ。唇を噛んでいた仕草。赤いセルの多いスプレッドシート。空のコーヒー缶。——些細なことばかりだった。凛が「大丈夫」と言ったのだから、大丈夫なのだろう。
でも湊は技術者だった。些細なデータの異常を見逃さないことが仕事だ。みやびの表情パラメータに0.3のズレがあれば追い込む。カメラの校正が0.02でもずれていれば調整し直す。小さな変化を拾って原因を探る。それが湊のやり方だった。
凛の表情に、些細な変化があった。それは技術の話ではないから、湊の管轄ではない。でも変化があったことだけは、記憶に残った。
「湊」
「はい」
「お昼、何食べた?」
「コンビニのおにぎりです」
「あたしもまだ食べてない。ちょっと買い出し行ってくる。何かいる?」
「お茶を一本お願いします」
「了解」
凛は財布だけ持って事務所を出ていった。ドアが閉まると、六畳一間にまた静けさが戻った。エアコンの送風音と、窓の外の鳥の声だけが残る。
湊はふと、凛の机に目をやった。閉じたままのノートPC。その横に置かれた空のコーヒー缶。机の端には凛の手帳が開いたまま放置されていて、今月のカレンダーのページに何か書き込みがあった。湊の位置からはぎりぎり読めない距離だった。読むつもりもなかった。
凛がいない事務所で、湊はみやびのパラメータを一つずつ検証した。数字を追うことなら得意だ。人の感情を読み取ることは苦手でも、データの異常値を見つけることならできる。
十五分ほどして凛が戻ってきた。コンビニの袋からお茶のペットボトルを取り出して、湊の机に置いた。
「はい、お茶」
「ありがとうございます」
凛はサンドイッチの包装を開けながら、何でもない顔で口を開いた。
「ねえ湊、来月の配信スケジュール、ちょっと調整したいんだけど」
「いいですよ。何か変更あるんですか」
「歌枠の頻度を増やそうかなって。月二回から三回に。リスナーの反応を見ると歌枠の日は同接が伸びるから」
「音声ミキサーの設定だけ確認しておきます。機材的には問題ないです」
「ありがと。——あと、観光協会の件、来週もう一回連絡入れてみる。返事がないのは忘れてる可能性もあるし」
「営業って、追いかけるものなんですね」
「一回で決まるなんて思ってたら営業はできないよ。何回も顔出して、覚えてもらって、信頼してもらう。泥臭いでしょ」
凛がサンドイッチを齧りながら笑った。口角が上がって、目が細くなる。いつもの凛だった。
でも湊は、さっき一人でスプレッドシートを睨んでいた凛の横顔を覚えていた。数字と向き合っていたときの、唇を噛む仕草を。
凛は「大丈夫」と言った。凛が大丈夫だと言うなら、今は大丈夫なのだろう。
午後の陽射しが窓から斜めに差し込んで、凛のノートPCの蓋を白く照らしていた。閉じたままの画面の向こうに、どんな数字が並んでいるのか。湊は知らなかった。聞くこともしなかった。
事務所の中は静かだった。キーボードの音が二つ。サンドイッチの包装をたたむ音。ペットボトルのキャップを開ける音。五月の午後の、何でもない日曜日だった。




