歌と翳り
五月の終わりの夜は、蒸し暑さの一歩手前にあった。どこかの家から夕飯の匂いが風に乗ってくる。事務所の窓は閉まっているのに、空気の重さだけが忍び込んでいた。
瀬川湊はふたつのモニターに向かっていた。左にOBSの配信管理画面、右にDiscordとトラッキングパラメータのリアルタイムグラフ。白石楓は自宅から配信する。湊は事務所からリモートで裏方を支える。この体制も二週間が経っていた。
Discordのマイクテストが入った。楓の声がスピーカーから流れてくる。
「湊くん、聞こえる?」
「聞こえてます。レベル問題なし。前回の歌枠からリバーブを少しだけ深くしてます。違和感あったら言ってください」
「ありがとう。——ねえ、今日歌枠二回目なんだけどさ」
「はい」
「前回歌ってるとき、ちょっと不思議な感じがしたの。うまく言えないんだけど——歌に入り込んでるのに、自分じゃない誰かも歌ってるみたいな」
湊はトラッキングパラメータの画面を見た。数値はまだ入力待ちのゼロが並んでいる。
「歌ってるとき、カメラの前で特別な表情とかしてないですよね」
「してないよ。歌に集中してるから、顔のことなんて考えてない」
「わかりました。今日もこっちでパラメータ見ておきます」
「うん。——よし」
楓の「よし」の声は、いつもより力が入っていた。緊張が混じっている。湊はOBSの配信設定を最終確認して、カウントダウンを告げた。
『みなさん、こんばんは。みやびです。今日は歌をお届けしようかと思って。——二回目の歌枠よ。前回来てくれた方も、はじめましての方も、ゆっくり聴いていってね』
>きた!
>歌枠まってた
>前回泣いたやつ
>楽しみにしてたんよ
同時視聴者数は開始五分で十二人。普段の雑談より多い。前回の歌枠が好評だったことがリスナーの期待に繋がっている。桐谷凛は事務所のパイプ椅子でスマートフォンを操作していた。Xのタイムラインを監視して、リアルタイムの反応を追っている。
一曲目はテンポのいいポップスだった。楓の歌声は舞台で鍛えた声量がマイクを通しても厚みを保っていて、コメント欄が盛り上がる。トラッキングパラメータは安定していた。笑顔の数値が0.7前後で推移する。正常だ。
一曲目が終わり、拍手のコメントが並ぶ。二曲目はバラードだった。ピアノの旋律が静かに流れ出す。楓がゆっくりと歌い始めた。声のトーンが変わった。ポップスとは別人のように、低く、一音一音を置いていく歌い方だった。
湊はパラメータのグラフを注視していた。バラードに合わせて、みやびの表情も穏やかに移ろう。ここまではトラッキングの正常な動作だ。
サビに差しかかったとき——。
みやびの目元に翳りが差した。
歌声は安定している。楓はプロとして完璧に歌い上げている。口元は穏やかな微笑みを保ったまま、目だけが——泣きそうな顔をしていた。
湊の指がキーボードの上で止まった。パラメータを確認する。笑顔の数値は0.6。眉の角度は通常値の範囲内。口角の位置に異常なし。数値上は何も起きていない。でも画面の中のみやびは、明らかに切ない顔をしている。
>え
>みやびちゃん……
>今の表情やばくない
>泣いてる?
>前もこんなことなかった?
コメントが加速した。「前もこんなことなかった?」の一行が目に留まる。リスナーは覚えている。数件のコメントだが、以前の雑談配信での「表情バグ」と結びつけている人がいた。
楓はモニターを見たはずだ。でも歌は止まらなかった。バラードのサビを最後まで歌い切り、静かに息を吐いた。
『——ふう。ちょっと感情が入りすぎちゃったかしら。この曲、好きなの』
みやびの口調で流した。声に乱れはない。表情も元に戻っている。数秒間の出来事だった。
>みやびちゃんの表情エモすぎ
>この子の歌枠は神
リスナーはポジティブに受け止めていた。「表現力」として評価している。凛がスマートフォンの画面を湊に見せた。Xで数人のリスナーが歌枠の感想をポストしている。「みやびちゃんの表情やばい」「歌ってるときの切ない顔たまらん」。フォロワーの少ないアカウントが感想を書いている程度で、大きな拡散にはなっていない。
凛が声を落とした。
「また出たね。パラメータは?」
「異常なし。前回と同じです」
配信は残りの曲を何事もなく終えた。エンディングの挨拶をして、配信が終了する。
湊はOBSの配信停止ボタンを押して、Discordに切り替えた。
「おつかれさまです」
「おつかれ。——ねえ湊くん」
楓の声が低くなっていた。配信中のみやびの声ではなく、素の楓の声。
「また同じことが起きた?」
「はい」
「歌ってるとき、自分では普通に歌えてたと思う。カメラの前で泣きそうな顔なんてしてない。でもさっき配信画面をちらっと見たら——みやびが」
楓が言葉を切った。Discordのスピーカーから、かすかに呼吸の音が聞こえる。
「パラメータは全部正常でした。前回の表情バグのときと同じで、技術的に説明がつかないです」
「楓さんの顔が見えていれば比較できるんですけど、自宅配信だとそれができない。カメラのトラッキングデータしか手元にないんで」
事務所配信の頃なら、楓の横顔を見ればよかった。でも自宅配信に切り替えたことで、その手段がなくなっている。
「じゃあどうしようもないの?」
「次に同じことが起きたとき、楓さんに自分の表情を確認してもらうくらいしか——すみません、今のところ手がないです」
凛がDiscordのマイクをオンにした。
「楓ちゃん、リスナーの反応はよかったよ。Xでも何人かポストしてくれてる。歌枠の表情が切なくて最高って」
「……そっか」
「怖い?」
凛が真っ直ぐに聞いた。楓がしばらく黙った。
「怖いっていうか——不思議なの。私は楽しく歌ってたのに、みやびが勝手に切ない顔してる。自分が笑ってるのに鏡に映った顔が泣いてたら、変な感じでしょ」
「うん。変な感じだろうね」
「前回もそうだった。笑ってたのに、みやびは笑わなかった。今回は歌ってたのに、泣きそうな顔をしてた。——二回目なの。次もまた起きるのかな」
楓の声に、不安とも好奇心ともつかない色が混じっていた。苛立ちではなく、自分の手に負えないものに触れたときの困惑だった。
「次の配信までにデータを見直します。何か見落としてるかもしれないから」
「ありがとう、湊くん。——ごめんね、愚痴っぽくなっちゃって」
「愚痴じゃないですよ。起きていることを共有してもらわないと、こっちも対処できないんで」
「そうだね。——よし、今日はもう寝る。おやすみなさい」
楓のDiscordが切断された。「よし」の声は打ち上げの夜と同じ明るさだったが、最後に一瞬だけ息を溜めてから出した「よし」だった。
凛はスマートフォンをポケットにしまって、椅子の背もたれにもたれた。
「湊。正直なとこ、原因の目星は?」
「ないです。二週間かけて全部見直して、テスト環境で再現しようとしたんですけど、できなかった。配信中にだけ起きて、しかも毎回じゃない」
「つまり、楓ちゃんが演じてるときにだけ起きる」
「そういうことになりますけど——トラッキングは正常に動いてるんです。数値は何も変わっていないのに、見た目だけが変わる。ライブ配信の最中に、一瞬だけ」
凛は窓の外を見た。街灯の光が駐車場を薄く照らしている。
「説明しなくていいよ。ただ見てればいい。次に同じことが起きたとき、何が違うのか。それだけ」
凛はそう言って立ち上がった。帰り支度をしながら振り返る。
「みやびの歌は良かったね。技術抜きに」
「はい。良かったです」
凛が出ていった後、湊は一人で配信のアーカイブを再生した。問題の場面を繰り返し見る。すべてを並べても、数値と見た目のズレの原因はわからなかった。
湊はグラフにメモを書き込んだ。「歌枠中、サビ付近。笑顔パラメータの数値変動なし。視覚上の表情変化あり。再現条件不明。二回目」
楓の声はDiscordの回線を通じて事務所に届く。でも楓がそのとき本当はどんな顔をしていたのか、湊にはわからなかった。同じ六畳にいた頃なら、隣を見ればよかった。
それが何を意味するのか、湊はまだ考えていなかった。




