営業と観光協会
凛がワイシャツのボタンを一つ直してくれた。
「ここ、ずれてるよ」
瀬川湊は襟元を押さえたまま固まった。ワイシャツを最後に着たのは大学の卒業式だった。普段はパーカーとジーンズしか着ないから、襟のある服は肩が凝る。五月下旬の朝、事務所のアパートの小さな鏡に映る自分は、就活に遅刻した学生のようだった。
「なんか、場違い感がすごいんですけど」
「清潔感があれば十分。あたしが喋るから、湊はデモだけよろしく」
凛のほうはジャケットにスラックスで、ショートカットにボーイッシュな出で立ちが妙に似合っていた。手にはクリアファイルが三つ。企画書とみやびの配信データをまとめた資料が入っている。
「みやびの配信アーカイブ、再生できるようにしてある?」
「はい。ノートPCでモデルも動かせます」
「いいね。実物見せたほうが話が早いから」
事務所を出ると、五月の宮崎の陽射しが首筋に刺さった。凛の車——十年落ちの白い軽自動車のドアを開けると、車内は蒸し風呂のようだった。エアコンが効くまで窓を全開にして待つ。
「この企画書、いつ作ったんですか」
湊はクリアファイルの中身を眺めながら聞いた。
「先週。楓ちゃんが自宅配信に切り替えてから、事務所で一人の時間が増えたからね。新富町のVTuberプロジェクトとか、先行事例もネットで調べて入れた」
凛がギアを入れて車を出した。窓の外にフェニックスの並木が流れていく。
宮崎市観光協会のオフィスは、市役所近くのビルの三階にあった。受付で名刺を渡して応接室に通される。長テーブルとパイプ椅子の簡素な部屋に、コーヒーの匂いが漂っていた。凛が資料を三部並べた。
五分ほど待つと、担当者が入ってきた。五十代くらいの男性で、名刺には「企画課 主任 黒木」とあった。
「はじめまして、ヨリミチの桐谷と申します。本日はお時間いただきありがとうございます」
凛の声が変わっていた。普段の飄々とした口調ではなく、背筋の伸びた営業の声だった。湊は隣で少し驚いていた。凛にこんな顔があるのか。三年間の事務職で鍛えられたのは、こういう切り替えだったのかもしれない。
黒木は名刺を受け取って眺めた。
「VTuber事務所。——すみません、ぶいちゅーばー、というのは」
凛は一拍も詰まらなかった。
「インターネット上で活動するキャラクターのことです。アニメのようなアバターを使って、リアルタイムで視聴者とやりとりをする。若い世代の間では動画サイトの人気ジャンルの一つになっています」
「動画の配信をしている方、ということですかね」
「はい。ただ、録画した動画を流すのとは少し違って——湊、見せてもらえる?」
湊はノートPCを開いた。みやびの配信アーカイブを再生する。画面にみやびが映った。和風のミステリアスな佇まい。狐モチーフの衣装。声に合わせて口が動き、目が細くなり、表情がなめらかに変わっていく。
『今日はね、宮崎の美味しいものの話をしようかと思って。——チキン南蛮って、お店によって全然味が違うの。タルタルソースが甘いお店もあれば、酸味が強いお店もあるのよ』
黒木が少し身を乗り出した。画面の中でみやびが手を動かしながら話し続ける。宮崎の食の話題で楓の素が漏れて盛り上がった雑談配信の一部分を、湊は選んでいた。
「こういう形で、宮崎の特産品や観光地を紹介できます。動画の制作もできますし、リアルタイムの配信で視聴者とコミュニケーションを取りながら発信するのが強みです」
凛がクリアファイルから企画書を出した。A4用紙に数ページ。配信の仕組み、想定される視聴者層、過去の他地域での事例。新富町でVTuberを起用したふるさと納税プロジェクトの情報も載せてある。
黒木は企画書を一ページずつめくった。眼鏡をかけ直して、何度か頷いている。
「なるほど。若い方には馴染みがあるんでしょうね、こういうのは。——ただ、うちは予算の組み方が四半期ごとでして」
「はい」
「この手の新しい取り組みは上に通す必要がありまして。課長に話を上げてみないと」
「もちろんです。まずは知っていただければ十分ですので、資料はお渡しします」
黒木がもう一度ノートPCの画面を見た。みやびがリスナーのコメントに答えているシーンが流れていた。
「よく動きますね、このキャラクターは」
「Live2Dという技術でイラストをリアルタイムに動かしています。うちの技術スタッフが調整しているんですが——」
凛がさりげなく湊を示した。黒木が視線を向けてきたので、湊は軽く頭を下げた。
「パラメータを手動で追い込むことで、まぶたの開き具合や口角の動きを自然に見せてまして、既存のプリセットだと表情が硬くなるんですけど——」
「湊、技術の話はそのくらいで」
凛が笑いながら止めた。黒木も目尻に皺を寄せている。湊は口を閉じた。また早口になっていた。
「ともかく、視聴者が最後まで見てくれる配信を作る技術があります。実績としてはまだ小さいですが、配信の視聴維持率は九十パーセントを超えていまして」
「視聴維持率というのは?」
「見始めた人のうち、最後まで見てくれた人の割合です。九十パーセントは、かなり高い数字になります」
黒木はペンでメモを取りながら頷いた。名刺の裏にも何か書いている。
「わかりました。課長に話を上げてみます。——ただ、お返事はすぐには難しいかもしれません」
「全く問題ありません。お忙しいところありがとうございました」
凛が深く頭を下げた。湊もそれに倣う。
ビルを出ると、五月の日差しが一段と強くなっていた。凛がジャケットを脱いで腕にかけた。
「お疲れ。——どうだった」
「メモ取ってましたし、感触よかったんじゃないですか」
「メモは取ってた。でも即決はしない。あの手のポジションの人は、まず課長に通す。課長が興味を持つかどうかが勝負だね」
車に乗り込んでエアコンを全開にした。凛はハンドルに両手を置いたまま、しばらくエンジンをかけなかった。フロントガラスの向こうで、駐車場のアスファルトが揺らいでいる。
「まあ、最初はこんなもんだよ」
凛の声にはいつもの飄々とした調子が戻っていた。
「即決しないのは想定内。でも断られたわけでもない。資料も渡した。次に繋がる最初の一歩」
「凛さん、営業うまいですね」
言ってから、おかしな褒め方をしたと思った。凛はバックミラーを直しながら口の端を上げた。
「三年間事務職やってたからね。人と話すのだけは鍛えられた。——電話の受け方、名刺の渡し方、資料の作り方。全部あの三年で覚えたの。使えるもんだね」
エンジンをかけて車を出した。帰りの道も窓の外にフェニックスの並木が流れていく。カーステレオの音量は絞ってあって、エアコンの送風音だけが車内を満たしていた。
「黒木さんが身を乗り出したの、覚えてる?」
「はい」
「あそこが一番の手応え。口で説明するより、みやびを見せたほうが早い。次もそうしよう」
「次があるんですか」
「当たり前でしょ。観光協会だけじゃない。道の駅、物産館、地元の食品メーカー。回れるところは全部回る。一件ずつ、顔を売っていく」
凛がウインカーを出して左折した。事務所のあるアパートが見えてくる。
「あたしが営業して、湊がデモを見せて、楓ちゃんが配信で結果を出す。三人で一つの仕事だよ」
事務所に戻ると、楓からメッセージが届いていた。「営業どうだった? 気になって配信の準備に集中できない(笑)」
凛が返信する。「手応えあり。即決はしない。営業ってそういうもん」
楓からガッツポーズの猫のスタンプが返ってきた。
湊はパーカーに着替えて椅子に座り、ノートPCを開いた。今夜は楓の配信がある。OBSの設定を確認しながら、黒木がみやびの映像に身を乗り出した瞬間を思い返していた。
あの反応は技術の正しさへの評価ではなかった。みやびの表情に、何かを感じた人間の反応だった。凛はそれを見ていた。営業先の相手の目線の先を読んでいた。三年間の事務職で鍛えられたのは、話し方だけではない。
「まあ、なんとかなりますよ」
独り言を呟いて、湊は配信の準備に取りかかった。画面の中で、みやびが静かに微笑んでいた。




