青島とチキン南蛮
潮の匂いが、開けた窓から車内に流れ込んできた。五月下旬の日曜日、桐谷凛の軽自動車は国道二二〇号を南に走っていた。道路の両脇にワシントニアパームの並木が続いている。南国の陽射しが葉の隙間を抜けて、フロントガラスにまだら模様の光を落としていた。
後部座席の白石楓が窓に顔を寄せた。
「すごい、ヤシの木がずっと続いてる。東京じゃ絶対に見ない景色だよ」
瀬川湊が助手席から振り返った。子供の頃に何度も通った道だが、東京で四年過ごしてから見ると、この並木が特別なものだと改めて気づく。
三人でオフの日を過ごすのは初めてだった。自宅配信に移行してから事務所で顔を合わせる時間が減り、仕事の話以外をする余裕がなかった。凛が「たまには外に出よう」と言い出して、日曜の青島散策が決まった。
青島の駐車場に車を停めて、三人は弥生橋を渡り始めた。橋の下には干潮で露出した岩場が広がっている。波に削られた砂岩が同心円状に並び、洗濯板のような縞模様を描いていた。
楓が欄干から身を乗り出した。
「これ、全部自然にできたの?」
「鬼の洗濯板って言います。子供の頃に遠足で来た記憶があります」
潮の引いた岩の表面が五月の日差しに乾いて白く光っている。足元から磯の匂いが立ち上ってきた。
凛がスマートフォンで海岸を撮影していた。
「みやびの配信で使えるかも。観光スポット紹介、いつかやりたいんだよね」
「凛ちゃん、今日はオフだよ?」
「オフでも目は休まないの」
橋を渡って青島に上陸すると、亜熱帯植物の群落が頭上を覆った。ビロウヤシの扇のような葉が日差しを遮り、木漏れ日が地面に揺れる模様を落としている。湿った土の匂いと、緑の葉が擦れる音。
楓がビロウヤシの幹に手を触れた。
「宮崎って、こういうところがあるんだね」
「あたしも大学の友達に宮崎で起業するって言ったら、全員に止められたよ」
凛が木漏れ日の中を歩きながら言った。
「でも来たんでしょ」
「来ちゃった。——東京にいると最短距離で走らされてる感じがしたの。あたしはもうちょっと、寄り道したかったんだよね」
楓が凛の横顔をしばらく見つめてから、別のことを口にした。
「お腹すいた」
三人が笑って、車に戻った。
凛の案内で、青島から車で十分ほどの食堂に入った。地元の常連が通う小さな店。入口を開けると油の匂いが出迎えた。手書きメニューの筆頭にチキン南蛮定食、その下にチキン南蛮うどん、チキン南蛮カレーが並んでいる。
「チキン南蛮しかないの?」
「チキン南蛮が三種類あるの。全部味違うから」
凛は迷いなくチキン南蛮定食を注文した。楓も同じもの、湊はチキン南蛮うどんを選んだ。
料理が運ばれてきた。揚げたての鶏肉に甘酢だれがたっぷりかかり、こんもりとタルタルソースが載っている。衣の香ばしさと酢の酸味が混ざった湯気が立ち上る。
「大きい。東京で食べたのと全然違う」
「宮崎のチキン南蛮、タルタルの量が違うんですよ」
楓が一口食べた。衣のサクサクした食感、甘酢の酸味、タルタルソースのまろやかさが順番に舌の上で広がっていく。楓は箸を止めて、ゆっくり噛んだ。
「……おいしい」
「でしょ」
凛が得意げに笑った。楓はもう一口食べて、また「おいしい」と言った。三口目で「ここに住んでよかった」と言った。
「私ね、バイト先でもチキン南蛮の作り方教えてもらったの。でもこのタルタルの配合はちょっと違う。酢の効かせ方がお店によって全然違うんだよね」
「楓ちゃん、バイト先のメニューもう覚えたの?」
「ランチのメニューは大体。チキン南蛮と冷や汁と日替わり定食。あとは常連のおばちゃんたちが注文する前に何頼むかわかるようになった」
楓が箸でタルタルソースを掬いながら笑った。飲食店のバイトは配信のない昼間のシフトで、宮崎の生活に馴染むための窓口にもなっていた。
湊はチキン南蛮うどんをすすりながら、楓が夢中で食べる様子を見ていた。この一ヶ月半、配信に追われて宮崎という土地を味わう余裕はなかったはずだ。
「宮崎どう? 慣れた?」
凛が聞いた。
「最初は何もないところだなって思ったけど——何もないんじゃなくて、ゆっくりしてるだけなんだよね。東京はいつも急いでたから、この速度に慣れるのに時間がかかった」
「あたしもそうだった。東京から帰ってきたとき、バスの来ない時間が長く感じたもん」
「わかる。あと、空が広い。私の部屋の窓から見える空が、東京の三倍くらいある」
楓がチキン南蛮を頬張りながら言った。タルタルソースが口の端についている。凛がティッシュを差し出した。
食後、三人は海沿いの道を歩いた。五月下旬の宮崎はもう夏の入り口で、アスファルトから熱気が立ち上っていた。楓が汗を拭きながら歩いている。
「ねえ、あそこ行っていい?」
楓が指さした先に、小さなジェラート屋があった。ショーケースに日向夏とマンゴーのジェラートが並んでいる。
「日向夏って何?」
「柑橘系のフルーツです。宮崎の特産品で、酸味が強くてさっぱりしてます」
「それにする!」
楓は日向夏のジェラートを選んだ。一口食べて、目を細めた。酸味と甘みが冷たさと一緒に舌の上で弾ける。
「おいしい。——宮崎って食べ物おいしいね」
「地鶏の炭火焼きも冷や汁も、まだまだあるよ」
楓がジェラートを舐めながら海を見ている。風が髪を揺らした。潮の匂いとジェラートの甘い香りが混じっている。湊はマンゴーのジェラートを食べながら、ただの三人の日曜日を眺めていた。
「さっきの観光スポット紹介の配信、いいと思う。みやびが案内したら映えるよ」
「でしょ? 観光協会に営業する材料にもなるし。——まあ、それは来月以降ね。今日はオフ」
三人はまた歩き始めた。
青島に戻る道で、楓が弥生橋の上で立ち止まった。欄干に手をついて、海を見下ろしている。さっきまで露出していた鬼の洗濯板の岩に、潮が満ち始めていた。岩の表面を薄く水が覆い、午後の光を反射して銀色に光っている。
「きれいだね」
楓がそう言った。視線は海に向いていたが、その声は海だけに向けたものではないように聞こえた。
「楓さん、宮崎に来てよかったですか?」
湊が聞いた。自分でも意外な質問だった。普段なら聞かない類の問いだ。
楓は振り向いた。風で髪が顔にかかって、手で押さえながら笑った。
「うん。——来てよかったよ。こんなところがあるなんて、知らなかった。東京にいたら、一生知らないままだったかも」
凛が橋の反対側からスマートフォンを向けた。
「はい、いい顔。——保存しとくね」
「ちょっと、撮らないでよ! タルタルソースまだついてたらどうするの」
「もうついてないよ。さっき拭いたじゃん」
三人の笑い声が、潮風に混ざって青島の上空に散った。
帰りの車の中で、楓は後部座席の窓を開けていた。フェニックスの並木、広い空、オレンジ色に染まり始めた雲。
「来月もどこか行きたいな」
「高千穂とか行く?」
「行きたい! ——湊くんも行くでしょ?」
「まあ、誘われたら断れないんで」
凛がバックミラー越しに笑った。窓から入る風が、潮の匂いからいつの間にか街の匂いに変わっている。
楓が窓の外を見たまま、ぽつりと言った。
「東京にはね、こんな景色なかったよ」
その声は誰に向けたものでもなく、風に混ざって消えていった。凛はバックミラーに映る楓の横顔を見て、何も言わなかった。湊も何も言わなかった。言葉にしなくても、この日曜日が三人にとって同じ温度だったことは、わかっていた。




