歌声とマイク
配信スケジュールを組み直してから一週間が経っていた。五月中旬の水曜日、みやびの歌枠二回目。白石楓の自宅は準備が整っている。デスクの上にマイク、正面にウェブカメラ、両脇に吸音パネル。窓のカーテンは閉めてある。瀬川湊が色温度を昼白色に合わせたデスクライトの光が、楓の顔を柔らかく照らしていた。
ヘッドセットの左耳から、湊の声。
「音声チェック、OKです。今日は歌枠なんで、マイクの入力レベルを通常より少し上げてあります。歌うとき声量が上がると思うんで、ピーク超えたらこっちでコンプレッサーのスレッショルドを調整します」
「ありがとう、湊くん。——ねえ、曲目リスト、大丈夫だよね?」
「全曲確認しました。YouTubeはJASRACと包括契約してるんで、管理楽曲のカバーは問題ないです。ただし原曲の音源は使えない。原盤権が別なんで。今日用意したのは配信向けのカラオケ音源サービスのトラックです」
「アカペラでやるのもあり? 舞台では伴奏なしで歌うこともあったし」
「全然ありです。アカペラなら権利処理の心配もないですし」
楓は深呼吸をした。歌枠は二回目だが、前回はデビュー直後の探り探りだった。今回は違う。自宅配信にも慣れてきたし、リスナーの顔ぶれも見えている。何より——歌うことが好きだという気持ちが、前回よりもはっきり胸の中にあった。
配信が始まった。
『みなさん、こんばんは。みやびです。今日は歌枠よ。——前にもやったわよね。あのときは緊張して、声があんまり出なかったの。でも今日は、ちょっと本気出すわ』
>きた歌枠!
>前回よかったよ
>本気みやび期待
>まってたんよ 歌枠楽しみにしてたんよ
同時視聴者は九人。配信開始三分で、常連の名前が揃った。
一曲目はバラード。カラオケトラックが流れ始めると、楓は目を閉じた。七年間の舞台で叩き込まれた息の入れ方、声の当て方、フレーズの間合い。マイクの前で歌うのはまだ慣れないが、声を出す技術は体に染みついている。
みやびの声で歌い始めた。少し低めの、落ち着いたトーン。でも歌が進むにつれて、演技の殻を超えた何かが声に乗り始めた。
コメント欄が止まった。
十数秒間、誰もコメントを打たなかった。みやびの歌声だけが、配信の画面を満たしていた。
曲が終わると、コメントが一斉に流れた。
>えっうま
>鳥肌立った
>プロ??
>すごすぎるんよ……
>今日も配信ありがとうございます。歌声に聴き入ってしまいました
>モデルの表情の動きすごくない? 歌ってるときの目の表情がリアルすぎる
『あら……そんなに反応してくれるの? ふふ、嬉しいわ』
みやびの口調で返したが、楓の声は少し揺れていた。七年間、舞台で歌っても客席の反応が薄いことがあった。技巧的に完璧だが何かが足りない、と言われ続けた日々。でも今、画面の向こう側の人たちが、テキストで感動を伝えてくれている。
二曲目は少しテンポのいいポップス。みやびの和風キャラクターとのギャップを狙った選曲だった。楓は歌いながら手拍子のジェスチャーをして、リスナーにも参加を促した。
>手拍子やるの?w
>パチパチ
>和風キャラがポップス歌うの好き
>ギャップ最高
三曲目はアカペラに挑戦した。声だけ。湊がイヤモニ越しに「入力レベル上げます」と伝えた。
楓が息を吸い、歌い始めた。伴奏の支えなしに、声だけが部屋の空気を震わせる。七年間で培った発声がコンデンサーマイクの振動板を繊細に揺らし、倍音が豊かに響いた。
>……
>アカペラでこれは反則
>声だけで空気変わった
>泣きそうなんよ
>今日も配信ありがとうございます。鳥肌が止まりません
事務所の湊は、OBSの音声レベルメーターを見つめていた。楓の声量は曲によって大きく変わる。ダイナミックレンジが広い。コンプレッサーを微調整しながら、ピークが割れないように、でも声のニュアンスを潰さないように気を配る。
「いい声だな」
独り言が漏れた。技術者としての感想だった。声の倍音が豊かで、マイクの特性との相性がいい。もう少しリバーブをかけたら歌枠の雰囲気が深まるかもしれない。次回は音響の設定を詰めたい。
凛からメッセージが来た。「同接12。歌枠の新記録だね。いいんじゃない?」
湊は既読をつけて、モニターに視線を戻した。
楓は五曲目に入っていた。声にほんの少しだけ揺れが混じっている。舞台では技巧的に完璧だが感情が届かないと言われた歌が、今はマイクの前で変わり始めていた。客席は見えない。拍手も聞こえない。でもテキストの向こうに人がいることを、楓は知っている。
>うまいだけじゃないんだよな
>みやびちゃんの歌、胸にくる
>表現力やばい
>この歌声を聴けて幸せなんよ
『ありがとう。——ねえ、みやびね、歌うのが好きなの。昔からずっと。人の前で歌えるのが、嬉しいのよ』
みやびの口調だったが、言葉は楓自身のものだった。七年間、舞台で歌い続けて、認めてもらえなくて、それでも歌うことをやめなかった人間の言葉。
ラスト一曲。楓が選んだのはアカペラの子守唄だった。
『最後の一曲ね。今日来てくれたみなさんに、おやすみの歌を贈るわ』
歌い始めた瞬間、コメント欄がまた静まった。みやびの声が、回線を通って画面の向こう側に染み渡っていく。楓は目を閉じて歌っていた。トラッキングカメラが瞼の動きを検出して、画面のみやびも静かに目を閉じる。
曲が終わった。
>……
>泣いた
>おつみやび
>最高の歌枠でした
>何度も聴き返したいんよ
>今日も配信ありがとうございます。もっとたくさんの人に聴いてほしい
>モデルの表情の動きすごくない? 歌い終わったあとの表情が切なかった
『ふふ、みんな優しいわね。みやびもね、今日はすごく楽しかった。歌うの、やっぱり好きだわ。また歌枠やるから、聴きに来てね。おやすみなさい』
配信が終わった。楓はヘッドセットを外して、椅子の背もたれに体を預けた。天井を見上げる。自分の部屋の、白い天井。何でもない天井なのに、視界がぼやけた。
胸の奥に、じわりと熱いものが広がっていた。指先はさっきまでの冷たさを忘れている。
舞台では、客席の反応が見えた。退屈そうな顔、期待する目、スマートフォンの画面を眺める無関心な横顔。その中で歌うのは七年間ずっと——。楓は首を横に振った。今は違う。コメント欄のテキストは時間差で届くけれど、一つ一つの言葉がフィルターなしで胸に入ってくる。顔が見えないからこそ、言葉だけが残る。
イヤモニから湊の声がした。
「おつかれさまです。——歌、すごくよかったですよ」
楓は少し間を置いてから答えた。
「ありがとう。ねえ湊くん、歌ってるとき、みやびの表情はどうだった?」
湊はトラッキングログを確認した。
「正常でした。楓さんの表情とみやびの表情、ちゃんと一致してました」
「そっか。——よかった」
楓の声がほんの少し柔らかくなった。表情バグの不安がまだ消えていないことが、その一言から伝わってきた。でも今日は大丈夫だった。歌っている間、楓は嘘をついていなかったから。
「次の歌枠、音響の設定を変えたいんです。リバーブを足して、楓さんの声の響きをもう少し活かす方向で」
「そんなこともできるの?」
「OBSのオーディオフィルタで処理できます。配信に合わせた音作りも、裏方の仕事なんで」
楓が笑った。Discordの回線越しに届いた笑い声は、歌っていたときと同じ温度をしていた。
「舞台のときは音響さんが響きを作ってくれてた。同じだね。——ありがとう、湊くん。私の声を聴いてくれて」
湊は返事に詰まった。技術者として音声データを見ていただけだ。——でも「聴いてくれて」と言われると、データ解析とは違う何かが混ざっている気がした。
「……まあ、仕事ですから」
短く答えて、トラッキングログを保存した。事務所の窓の外は暗くなっていた。楓の歌声はもう聞こえないのに、倍音の余韻が耳の奥にまだ残っていた。




