主演の国
外の風は冷たい。
煉瓦で組み立てられたアパートの三階に、木材の香りが残る窮屈な一室がある。
薄暗い室内の隅に雑に置かれた布団の上で、汚れのないトランクが大きく口を開けたまま洋服を間抜けに吐き出している。
煙のような雲から染みでた月明かりが、窓辺にある机に突っ伏して微睡む栗色の長い髪の女をほのかに照らした。
半端に閉じた窓の隙間から音もなく風が忍び込み、女の髪を悪戯にもてあそぶ。
女は微かに夢を見ていた。
料理を美味しそうに平らげて、理想を嬉しそうにこぼす賑やかな飯屋の最奥、そこに設けられた特別な舞台に立つ夢を。
その舞台に女が立つと、客は手を止め、ドリンクを一口喉に流し込んでから口を結んだ。
それを待っていたように、一音の雑音を経てようやく、スピーカーから軽快に飛び出したメロディーが陽気に歩きだす。
女の歌声は、親の後をゆく子のように楽しげにメロディーについて歩いた。
時々、女が挨拶してみたり手を振ってみたりすると、客は快く笑顔を返した。
そうして歌い終え、舞台へと戻った女の目に、狭苦しい店に押し込められた愉快な客の姿が見えた。
いつもそう、歌い終えて再認する。
女は、世界の大舞台に立ちたいと常に思っていた。
それでも最近、女はこうも思うのだ。
僕の舞台がここで良かったと。
にわかにスポットライトの光が強まった。
また目を閉じ、歓声に身を委ねて余韻に浸る。
その声が段々と遠くなってしばらく、女は現実を見るのだった。
眼前にある風景は飯屋ではなく、汚れた街並み。
くすんだ窓ガラスの向こうには今にも落っこちそうな看板がずらっと並んでいる。
それを曙光が照らし始めると、ほんの僅かだが綺麗と思える景色が望めた。
女は夢も現実も変わりないなと、それが少しおかしく思えてクスリと笑った。
女が見る夢もまた現実だから。
まだ慣れない生活に疲れていた女は、改めて眠ることを決めた。
四つん這いで移動すると、トランクを軽く蹴飛ばして、雑に置かれたままの布団へ仰向けに倒れこんだ。
寝心地がいまいちだったので横になってみる。
するとそこには、蹴られたトランクが流した涙らしい、一枚の写真が落ちていた。
手に取るそれは。
とても恋しい写真。
愛のままにわがままに冒険していた幼い頃の写真だ。
左の子は口煩い子だった。
それが彼女の思いやりだった。
右の子は元気な子だった。
それが彼女らしさだった。
真ん中の子は夢見る僕。
甘えん坊で勝手なところもあったけれど、純粋で真っ直ぐな自分が女はやっぱり好きだった。
そして。
後ろのむくれた子が現在の女にとっての夢。
一番のアイドルを目指していた、女とは逆に素直じゃない子。
「まだ死んでなっちや!」
そう叫んで、前ぶれなく部屋の中心に現れたのは会いたくて仕方なかったその友人の姿だった。
「もこちゃん!」
女が驚くと、彼女も同じく驚いた顔をした。
「あれ?おまたん、なんで大人に……」
「なに言ってるの?僕たちはもう大人になったんだよ」
そう冷静に返すと、彼女は不思議そうな顔をした。
こうして今、女が冷静にいられるのは、これが夢の続きだと心のどこかで思っているからだろうか。
「天国からわざわざ会いに来てくれたんだね」
まだ夢半ばの女は続けて冷静に言った。
「もしかして……ううん。落ち着いて、あれから十三年経ったんだよ」
女はここで、今の状況が現実とやっと理解した。
感覚を取り戻した体が朝の気温に小さく震える。
「あなたさんが」
呼吸を整えて、慎重に過去を振り返る。
「あなたさんが、なのりちゃんを助けようとしてワームホールに吸い込まれてからね」
「そう……。あれは夢やなかったっちわけね」
「もこちゃん!」
たまらなくなった女は彼女に飛びついた。
強く抱き締めると、そこには温もりがあった。
「ずっと会いたかった!」
さらにたまらなくなった女は、掠れた声で想いを伝える。
頬を冷たいものがゆっくりと流れ過ぎた。
「あのね!僕は今アイドルを目指しているんだ!」
「なんで?」
「あなたさんが残した夢を叶えるために」
「一番のアイドル?」
「うん。でもね、一番って言っても世界じゃないし、まだなってもいないんですけど……あーごめんね」
ほんのり申し訳なくなった女がうつ向くと、その顔に手を添えて、真っ直ぐに目を合わせて、彼女は柔らかな笑顔で答えた。
「ううん。それでも嬉しい」
それに女が笑みを浮かべると、彼女はすっかり安心した顔で礼を言った。
「ありがとう!」
「これからも頑張るから、みんな頑張って生きてるから安心してね」
「うん」
ここで、女の視界端に転げた時計が入った。
その時刻は大げさに馬鹿げていた。
「ああ!」
「?」
「今日休みじゃなかった!やばいやばい!」
「大人になったんでしょう。しっかりしいよ」
「昨日ぼっーと考え事してたら、いつの間にか寝ちゃって」
「なに考えてたん?」
「空想も妄想も理想も、どれも人の想いでしょう」
「うん」
「それはエナジーで、言動力となって運命を築く!だよね?」
「えーと、哲学?」
「そうそう。それを考えてたの」
「おまたんも、難しいこと考えるようになったんやね」
「どういう意味かしら!」
女がムッとすると、対して彼女はからかうように笑った。
「ほら遅刻すんよ」
「もう間に合いません!」
「ちょっち……」
困った顔の彼女が朝日に重なり溶けてゆく。
とても寂しいけれど、それでもめいいっぱい元気に別れの挨拶を叫んだ。
「また会いに来てね!必ず夢を叶えるから!」
「うん!またね!」
それから、慌ただしく支度を終えた女は心というエナジー全快で勢いよく外に飛び出すと、夢を叶えに駆け出した。
「おなかすいたなぁ……」
道の途中、きっとお腹が空いていたせいだ。
女は不注意から通行人とぶつかりそうになった。
「おっと」
「あ!ごめんなさい!急いでて!」
「……ぽん太?」
「ぽんちゃんです!」
「やっぱり!」
「は?」
とまどう女を前に、深紅のコートで身を包んだ黒髪の女性は、おもむろにサングラスを外して素顔を見せた。
「これでわかるだろう」
「ぴょんちゃん!久しぶりー!」
女にはたまらなくなると、つい飛びついてしまう癖があるらしい。
彼女はそれを親切にしっかりと受け止めてくれた。
「久しぶり。ずいぶんと急いでいる様子だけれど」
「ああそうそうそうなの!でもでも!」
「一緒に職場へ行くよ。その近くでオレは待ってるから」
「それじゃあ、れりごー!」
と急いで職場である小さな飲食店に到着するも、大変なことに、石造りの店の壁には大きな穴が空いていた。
「なにこれー!」
仰天する女のところへ、テンションのりしおな女性が頭を下げて現れる。
女性が頭を下げると、つられて愛らしくポニーテールが揺れた。
「ごめんなさい」
女は彼女の声を聞いてすぐにわかった。
彼女は間違いなく、どこの誰より可愛くて仕方ない友人だ。
「きゃー!なのりちゃーん!」
「ぽんさん、お久しぶりです」
当然のように飛びついた女の体は、やっぱり親切に受け止められた。
「どうしたの?」
「朝の散歩に寄ってみようと来たんですけど、ノリ余ってお店にトラクターが突っ込んでしまったんです」
「だいじょぶだいじょぶー。僕が謝って直しますから」
「本当にごめんなさい!」
女は改まって下がった彼女の頭を、いとおしそうに撫でてやる。
そして、慰めの言葉をかけた。
「気にしなさんな」
調子良く修理を終えると、時刻はもうお昼を過ぎていた。
女は店長の計らいもあって、店内で友人達と仲良く昼食をとることにした。
「店長さん優しいですね」
「でしょう!」
「こんなに美味しい料理をご馳走にもなって」
「いつものことだよ」
「え!いつも誰か事故するんですか!」
「そういう意味じゃなくて。あ!それよりも!」
大事で大切なことを思い出して、女はグッと真面目な顔になった。
それを見た黒髪の女性が何かあったのではと表情を曇らせる。
「どうした?」
「今朝ね、もこちゃんが僕のとこに来たの!」
「え!え!」
ポニーテールの女性は興奮して、落ち着きなく手をパタパタさせた。
黒髪の女性はその傍ら、カップを満たしていたミントティーをぐいっと飲み干して、一息ついてから事の真相を尋ねた。
「それは本当か」
「うん。きっと僕達がこうして集まったように、もこちゃんも何かの縁に導かれて来たんだよ」
「そうか。オレも会いたかったな」
「また会いに来てねって言っといたから、そのうちまた会えるよ」
「あの」
「ん?」
「先輩、怒ってなかったですか?」
ポニーテールの女性が不安な面持ちで、恐る恐る問う。
「特に何も言ってなかったけど」
「そっか」
女は、ほっとした様子の彼女の肩に手を置くと慈しみの言葉を紡いで、さらに安心させた。
「大好きなあなたさんのこと、恨むはずなんかないよ。あの時、もこちゃんずっと笑ってたでしょう」
「でもね」
「もこちゃんは何があっても、誰かを恨むような人じゃありません」
「うん。そうですね」
ほんの一呼吸の間を置いて、ポニーテールの女性は言葉を続けた。
「……ねえ。あの時に何があったんでしょうか」
「え?」
「なぜだか、どうしても思い出せないんです」
「んーと、たしかね。宇宙にいた」
「それで、オレ達はどこへ向かっていただろう」
「わかりません」
「そこが大事なところだろうな。どうして思い出せないんだ。そもそも、どうしてこの違和感に今まで気が付かなかった」
「それは……思い出したくなかったからじゃないかな」
その言葉を聞いて、とっさに黒髪の女性は謝った。
「ごめん、二人とも」
「わたしは忘れたくないです!忘れていたのが悔しいです!」
「なのりちゃん……」
「なら思い出そう!」
黒髪の女性がそう叫ぶも、女は頭を押さえて言う。
「あの、僕。思い出そうとすると頭が痛いんですけど」
言われて、彼女も同じだと頷いた。
「確かに変な頭痛がする。まるで、茨を無理に進もうとしているみたいだ」
「何かが邪魔をしている、ということでしょうか?」
「なにかって?」
「うーん……」
ここで、ふいに胸がぎゅっと痛んで、黒髪の女性は胸元を強く握りしめた。
「胸も痛くなってきた」
そこで突然。
「今日はここまでにしましょう!」
ポニーテールの女性が、一度手を叩いて緊張した空気を晴らすと、大きな声で提案した。
「でも」
「少しずつ思い出しましょう。それだけ辛いことだったと思いますから。わたし、二人に無理してほしくないんです」
「無理だなんて」
「ぴょんちゃん」
「ぽん太だってそうだろう」
女は彼女へ声を潜めて耳打ちする。
「僕らよりも苦しいのは、なのりちゃんでしょう」
「……そうだな」
「?」
「ゆっくり思い出していこうね。三人で」
「はい!」
「ごめん。なのりちゃん」
「もう謝らないでください!ぴょんさんの気持ち、ちゃんとわかってますよ!」
「ありがとう。君は変わらずいい子だな」
黒髪の女性が彼女の頭を撫でてやると、彼女は嬉しそうにはにかんだ。
「さて、僕はそろそろお仕事するね」
「メイドにアイドル。本当に素晴らしい組み合わせだな」
「それ馬鹿にしてる?」
女が頬を膨らませて不機嫌を表す。
黒髪の女性はその頬を突いて答えた。
「いや、素晴らしいなって思っているだけだよ。心からね」
「ならいいけど」
「それじゃあ。わたしたち、夜にまた来ますね」
「そうだ!せっかくだから一緒に歌わない?」
「えーでも。アイドルなんて昔のことですし」
その誘いに、ポニーテールの女性は恥ずかしそうに体をよじらせた。
「店長が歌ってほしそうにこちらを見ている!」
「えー!」
「さ、どうする?」
「わかりました!歌いましょう!」
「なら、あれを歌ってくれないか」
黒髪の女性が手を上げてリクエストする。
「あれってあれ?」
「そう」
ここでポニーテールの女性が、閃いて、ぴょこんと跳ねた。
「みみももめむま!」
「おっけー!二人でもこちゃんに届けよう!」
「なのり!」
「懐かしいなそのノリ」
「あ、つい……」
黒髪の女性が、照れて目を伏せるポニーテールの女性の腕をとり、自身へと強引に寄せる。
「なのりちゃん。そろそろデートに行こう」
「えー!」
さらにぐいぐいと引かれ、ポニーテールの女性は今にも倒れそうだ。
「また夜に」
「ぽんさん!お仕事がんばってくださーい!」
「はーい。いってらっしゃーい」
その、ふっくらほっぺ。
焼きもちを妬いているのですか。
「今から焼くのはピザですよ」
届くといいですね。
「配達はしてないよ」
歌のことです。
「それなら届くよ。届かせて響かせる、どこへだっていつだってね」
...FIN




