⑦カーテン
「いつまで続ける気だよ……」
痺れる喉から声を絞り出し、シロは左腕を正面に叩き出す。石のように重く硬い唾を呑むと、青ざめた手がカーテンに伸びていく。
大したことない、大したことない、私が変に意識してるだけなんだ――。
高く激しく乱れ打つ心臓に、マーシャが教えてくれたおまじないを掛ける。すると半鐘のようだった鼓動が少し落ち着いて、腰の引けていた左手がカーテンを掴んだ。
関節がバカになったように指が身震いし、カーテン全体に地割れ状のシワが広がっていく。加えてカーテンレールが慌ただしく揺れだし、突風が吹き付けたように窓ががたつく。
「いつまで自分がかわいそうごっこを続ける気だよ」
絶叫するように自分を怒鳴り付け、シロは一息にカーテンを薙ぎ払う。
窓が露わになると共に現れたのは、丸顔のお月さま。
そして、ちっぽけな瞳には独り占め出来ない数の星々。
それだけだった。
「……バカみたい」
失笑した拍子に、小じわだらけのカーテンから脱力した手が滑り落ちる。すかさず緩み気味だった目尻を引き締めると、シロは一直線にドアへ走った。
タッチダウンの要領で床に転がっていた卒塔婆を回収し、部屋の外へ飛び出す。開け放ったままのドアを背に階段を降りると、どたどたとがさつな足音が家中を揺らした。普段なら間違いなく、マーシャの怒号が飛んでいただろう。
先ほどまで〈ロプノール〉の面々でごった返していた食堂には、洗いかけの食器だけが取り残されていた。耳鳴りを誘う無音の中、蛇口からシンクに垂れる水滴だけが、チェンバロのような音を響かせている。恐らく皆はタニアの捜索に向かったのだろう。
町内の面々同様、シロにもタニアの居場所は判らない。だがこの手には卒塔婆がある。〈ブツメット〉の全機能を駆使すれば、〈砂盗〉の根城などガキ大将の秘密基地と一緒だ。
必ずここにいつも通りの賑わいを取り戻してみせる……!
固く誓うと共に無人の食堂を駆け抜け、シロは家の外に飛び出す。
下ろすのを忘れた暖簾を潜った瞬間、臑の下に出現するもこもこ。
バレーボール大のそれを踏みそうになったシロは、慌てて急ブレーキを掛ける。軒先を砂煙が覆い、愛用のサンダルからぶちぶち! と不穏が音が鳴る。視界が晴れるのを待ち、足下を確かめてみると、見慣れた毛玉が蹲っていた。
「メーちゃん!」
シロは驚きと喜びに声を裏返し、ヘッドスライディングせんばかりにメーちゃんを掬い上げる。毛糸玉のような抱き心地を実感した瞬間、ようやく乾きつつあった瞳がまたぞろ涙をこぼしだす。
「ごめん、ごめんね、独りきりで寒かったよね」
めぇ……! めぇ……!
謝罪を繰り返すシロを余所に、メーちゃんは身体を捩り、捩り、緩いベアハッグから抜け出していく。何とか翼を脱出させると、メーちゃんは地平線に向けた「手羽先」を強調するように上下させ始めた。
「何……? 何なの? 何か伝えたいことがあるの?」
浅い深呼吸で気持ちを落ち着かせながら、シロはメーちゃんを観察してみる。
なぜだろう、ウール一〇〇㌫の毛並みが、温かさを約束されているはずの毛並みが、スチールタワシのように冷えている。それに所々ざらざらしたこの感じ――試しに毛先を掃いてみると、濃い砂煙が目の前を覆った。
「メーちゃん、もしかして〈ロプノール〉の外にいたの?」
めぇ……。
力なく返事を漏らし、メーちゃんは浅く顎を沈める。
身体の冷たさと言い、毛に付いた砂の量と言い、〈ロプノール〉の近くを彷徨っていただけとは到底思えない。頷くのもやっとの衰弱ぶりも踏まえるなら、一頻り砂漠を旅してきたようだ。
一頻り砂漠を旅してきた……!?
何気なく抱いた感想が、懸命に地平線を指すメーちゃんと重なる。瞬間、シロの頭の中に閃光が走り、目の前を明るく照らした。
きっと間違いない。
黒い翼の示す地平線は、超空間の出口でもあるのだ。
「タニアさんの居場所、知ってるの!?」
シロはメーちゃんを顔の前まで抱え上げ、恫喝するように唾をぶつける。
めぇ……。
か弱い返事が聞こえてくると同時に、シロの現在地から目には見えない道が伸びる。遥か地平線の先へと続く一本道は、タニアの笑顔に繋がっていた。
彼女が怖い思いをしている時に不謹慎だ――自分を諫め、自粛を促してももう遅い。慎みに欠けるシロの口からは、とっくの昔に弾むような笑みがこぼれ落ちている。
超空間の出口へ走れ!
降って湧いた希望に逸る心は、猪武者のように叫いている。だが弱ったメーちゃんを放っておくことは出来ない。タニアのいる場所まで案内してもらうにしても、先に応急処置を行う必要がある。
「すぐあったかいもの持って来るからね!」
急いで踵を返し、シロはミューラー家に目を向ける。だが家に運び込まれそうになった途端、メーちゃんは先ほどまでの弱々しさが嘘のように翼を振り回し始めた。
めぇ! めぇ!
放せ! 放せ! と叫き立て、メーちゃんは両手両足でシロの胸を突っぱねる。ついにシロの懐から飛び出すと、蹄で進むと言うより肘で這うように地平線へと向かいだした。一度として振り返らないところから見て、付いて来ないなら一人でも行ってしまう気だ。
歩くのも精一杯のメーちゃんを、そのままにしておくのは気が引ける。しかし今ここで大人しく治療を受けさせようとしても、家に入る入らないの堂々《どうどう》巡りを繰り返すばかりだろう。
いたずらに時間を掛ければ、タニアの救出は勿論、メーちゃんの手当ても遠のいていく。納得は出来なくても、今は先を急ぐのが最善の手だ。
胸につかえる選択を無理矢理飲み下し、シロは道路の端でふらついていたメーちゃんを拾い上げた。冷え切ったメーちゃんをぎゅっと抱き締め、せめて自らの体温で温める。
「……途中で温かい飲み物買うからね」
めぇ……。
後回しにされることを告げられたはずのメーちゃんは、ようやく険しかった表情を和らげていく。力を振り絞って覗かせた歯は、実に満足そうだった。
自分の苦しささえ問わない心意気に答えるべく、シロは全力で地面を蹴り飛ばす。タニアに続く道へ駆け出すと、鋭く風を切る音がシロの耳を包み込んだ。
足下を砂煙が包み込み、目で捉えきる前に追い抜かれる景色が、走り書きの横線と化す。眩い輝きに誘われて天の川を見上げると、二〇〇〇億個の恒星が紙テープのように尾を引いていた。きっとシロの船出を見送っているのだろう。
「……きれいだね」
久しくまともに見ていなかったイルミネーションに目を奪われたシロは、陶然と素直な感想を漏らす。三〇光年近い距離をものともせずに賞賛を聞き付けたのか、織姫の名で知られるベガが得意げに瞬いた。




