⑥夜歩く
〈砂盗〉に立ち向かう直前、アルハンブラは言った。
行動して負った傷は時間が癒してくれる。だが見過ごしたことで背負ってしまったしこりは、選択した瞬間に戻れでもしない限り永遠に消せない――。
無難な夢を語っていれば、タニアが教室から追い立てられることはなかった。その代わり〈姫〉と言う単語が頭を過ぎる度に、本音を押し殺す自分が垣間見えるようになっただろう。
傷付きたくない一心で皆に媚びへつらうその姿は、確実にアルハンブラの言う「しこり」になった。
それは〈姫〉と言う単語と向かい合う度に、自己嫌悪を惨めさを味わわせただろう。〈姫〉を見ることがしこりに苛まれることになった彼女は、やがて消せない痛みに堪えかねて、夢から目を背けてしまったかも知れない。
だが現実には、タニアが夢に背中を向けることはなかった。
〈姫〉になりたいとはっきり宣言したから。
そう、行動した彼女がしこりを負うはずがない。タニア自身に何ら恥じることのない彼女なら、まっすぐに自分の目指す道を見られて当然だ。
〈姫〉に至る道がどんなに困難でも、タニアが二の足を踏むことはない。
なぜなら彼女は、未来に味わう羽目になるだろう激痛をちらつかされても、偽りを吐かなかった口を知っている。明日に頂上の見えない山が立ち塞がっていても、世界中に木霊する声で言い切れるだろう。自分は絶対に膝を折らない、と。
ランドセルや教科書の傷は、昨日流した涙の痕。
そしてそれ以上に、勲章だ。
何があっても〈姫〉から目を逸らさなかったことを、言葉よりも雄弁に物語っている。
一方、彼女と同じように痛みか安寧か選択を迫られた〈荊姫〉は、クリスチャンに手を伸ばさなかった。結果、まんまとクリスチャンの身代わりになることを免れた。だが行動しなかった代償として、目先の痛みに向けた背中に、決して消えることのないしこりを負った。
いもようかんを巡るケンカ、
コンビニのシュークリームにロウソクを立てた誕生日、
〈姫〉の試験に合格した時の抱擁――。
どの記憶をスタート地点にしても、結末は一緒だ。クリスチャンと共有した時間を振り返れば、最後には手を伸ばさなかった人でなしが待ち構えている。
遺体を傍観する〈荊姫〉を眺めていると、見る間に負い目や羞恥、怒りと言った黒い感情がこみ上げてくる。胸の中心からじくじくとした疼痛が広がって、兄と永別するその日まで安らぎをくれていた思い出を直視していられなくなる。
確かにこのままタニアの部屋に引きこもっていれば、星の罵倒を受けずに済む。殺してしまった〈砂盗〉に手を伸ばすどころか、一目散に走り去る自分に直面する心配もない。
だが鍵を掛けた部屋で必死に息を潜めていようと、〈荊姫〉自身の目は誤魔化せない。痛みを避けたい一心で座り込む姿は、また新たなしこりを生む。
独りきりではない食卓、
故郷と同じく、木造の平屋ばかりの町並み、
六年間、自分を信じ続けてくれた少女――。
宝物としか言いようのない無数の光景を、まっすぐ見られなくなる。
愕然とする結論に至った瞬間、前歯を突き立てた唇が目鼻もろとも震えだす。荒い呼吸に合わせて顎が痙攣すると、瓢箪のように膨らんだ口角から切れ切れの嗚咽が漏れた。
視界が歪んだ拍子に手の感覚が揮発し、ぎゅっと握り締めていたはずのカッターがこぼれ落ちる。途端、雪解け水のように冷たい感触が頬を伝い、机上のノートに記された文字を滲ませていく。
一体、何に期待していた?
タニアを攫ったのは〈砂盗〉だ。自分の中の善悪に従って首を掻き切ったところで、彼女は戻って来ない。この世界を司るのは因果応報を信条とする神仏ではなく、計算機の〈黄金律〉なのだから。
今ここで命を絶ったとしても、タニアを助けてから星の正論に従ったとしても、墓場に入る時期くらいしか変わらない。命を捨てる覚悟があるなら、皆に笑顔が戻るほうを選ぶべきだ。
この女にまだ手を伸ばす資格はあるのか?
机の上に放置されていた手鏡と見つめ合い、〈荊姫〉は自分に質問を投げ掛けてみる。
実の兄に伸ばさなかった手は、ヘドロのように黒ずんでいる。
だが今、タニアの手を掴めるのはこれ以外ない。ないのだ。
薄汚れた人でなしに命を救われたタニアは、過去を振り返る度に苦悩することになる。だがただ一人彼女の手を掴める〈荊姫〉が行動しなければ、確実にタニアの明日は閉ざされる。汚点を回顧し、思い悩むことすら出来なくなるのだ。
タニアを苦しませたくないなら、手を握られた彼女が胸を張れる生き方をすればいい。幸い〈荊姫〉は永遠の命を賜っている。彼女に助けられなければよかったと思わせないようにする時間なら、持て余すほどあるではないか。
シロは大きく頷き、導きだしたもののまだ納得しきれていない結論を嚥下する。それから女々しく濡れた瞳を拭い、手鏡の鏡像を今まで以上に鋭く睨み付けた。
いつまでいい子ちゃんぶっている?
罪だ罰だ償いだと気取ったところで、もうネタは割れているのだ。
資格云々にこだわるのは、〈荊姫〉を戒めるためではない。戒めていると自分にアピールし、安心を得るためだ。本心では自分を責めることを償いにすげ替えて、クリスチャンを見捨てた後ろめたさを和らげていたのだろう。
命を絶とうとしたのも、タニアが戻って来ると信仰したからではない。喧しく選択するように強要してくるこの世から、閑静な死に〈荊姫〉を逃がそうとしただけだ。
そう、〈荊姫〉の行動は全部、自分に嫌な思いをさせないことが狙いだ。
ことあるごとに誰かを気遣っているように思えても、それは全部フリ。実際は保身に凝り固まった姿勢を、他人は勿論、自分自身に責められたくない一心で、周囲を口上にしているに過ぎない。
弁舌の限りを尽くし、他人をダシにしてきた〈荊姫〉だ。今回もまた、ただ自分が死にたくないから、カッターを手放すのかも知れない。
だが喉を裂いて死に逃げ込もうが、のうのうと生き長らえてタニアの元に向かおうが、〈荊姫〉を守ろうとしていることに違いはない。
だとするなら、あらゆる選択肢の根底に〈荊姫〉への偏愛が潜んでいるとするなら、タニアの笑顔に繋がる道以上に最善の針路はない。〈荊姫〉ごときが首を落としたところで、ネズミ一匹戻っては来ないのだ。
願いや祈りの無能さは、駄目元でやらせるまでもなく明らかだ――。
未来を切り開くのは、実体を持つ手以外にあり得ない――。
時間に後戻りを懇願させる体験に、嫌と言うほど叩き込まれた教訓を反芻しながら、シロは机上のノートに手を当てた。
タニアの字を一つずつ撫でていくと、指先から胸にほんのりした温かさが広がる。自然と〈荊姫〉の膝枕で眠る彼女が脳裏に甦り、星への恐怖に凍り付いていた足がそろそろと歩み始めた。
ちらちらとカーテンの隙間を窺い、星の機嫌を探りつつ、シロは窓辺に忍び寄っていく。未練たらしく嗚咽を漏らす口をへの字に結び、細く差し込む月光に足を踏み入れる。
冷たく冴えた線分を踏んだ瞬間、熱湯に浸かったような激痛。
堪らず背筋を震わせ、シロは糸を引く鼻水を、粘っこい涎を飛び散らす。涙でぼやけた瞳を拭うと、厳めしく睨み付ける明星が視界に入った。
ぜぇはぁ……と喘息を患ったように息が乱れだし、視界を霞ませていく。「吸う」と「吐く」をどうやって反復するのか、赤ん坊の頃から難なくこなしてきた呼吸の仕方が、記憶を漁らなければ出て来ない。
自分自身に目配り出来ない時間を作れば、また部屋の隅へ逃げ出すのではないか? 確信に近い疑念がまばたきを封じている内に、充血した瞳が背後を窺い始める。
正面の窓、背後の暗闇と忙しく往復する視線とは裏腹、極度の緊張に晒された身体は氷像のように硬直していた。止めどなく流れる冷たい汗は、それこそ熱せられた氷のようだ。




