①Dead or alive
廃墟と化した倉庫は、ヒリヒリした空気に包まれていた。
大穴の空いた天井から吹き込んだのか、床には分厚く砂が積もり、足下を薄く霞ませている。薄ら寒い風が忍び込む度、割れた窓が不気味にがたつき、曇った裸電球が手招きするように揺れた。
「こんな一イェンにもならないガキを連れて来て、どうする気だい!?」
裏返った怒声が轟き、ドラム缶を使った焚き火を震わせる。決まり悪そうに目を逸らし、正座中の〈砂盗〉たちは部屋の隅に視線を向けた。
注目の的になったのは、打ち捨てられた一斗缶でも、崩れ落ちたパレットでもない。縄で両手を縛られ、床に転がされたタニアだ。
揃いも揃って恨めしげな眼差しは、怒りを買う原因となったタニアにそこはかとなく殺意を向けている。不意に目が合うと、ただでさえきつく縛られた手が更に青白く、更に冷たく麻痺していく。
「おまけに一匹取り逃したそうじゃないか!」
ミカン箱製のお立ち台から鞭を振り下ろし、おかっぱ頭の女性は〈砂盗〉たちを睨む。
年齢は三〇前後と言ったところか。
ピンと突き出た鼻と逆三角形の輪郭は、過剰な攻撃性と押し付けがましい色気を感じさせる。ワドガール風のボディコンに網タイツと言う装いは、まさに「女王様」。吊り上がった目尻には、けばけばしく青いアイラインを引いている。
「し、しかし、ギモンの姉貴……」
「しかしもけむしもあるかい! ただでさえ〈NIMO〉の奴らが嗅ぎ回ってるってのに、下手打ちやがって!」
青い顔で近寄るモヒカンを一喝し、ギモンと呼ばれた女性は再び鞭を振るう。甲高い音に威圧された〈砂盗〉たちは、示し合わせたように唇を結んだ。
「あ、あの、姉御……」
そろ~っと手を上げたのは、黄色いヘルメットを被った男だった。
「お前もアタイに意見するのかい!?」
「い、いえ、この間ちぃと小耳に挟んだんですが、最近はなまじ歳を取った女より、こういう出るトコも出てないガキのほうが高値で取り引きされてるらしいんですよ」
「何だいそりゃ、病んだ時代だねえ」
気味悪そうに吐き捨て、ギモンは薄い眉を寄せる。
「まあ、売り物になるなら何でもいいさ」
折り合いを付けると同時にほくそ笑み、ギモンはタニアに歩み寄る。愛用の鞭を小脇に挟むと、彼女はタニアの顎を摘み上げた。咽び泣くような風音と共に焚き火が揺らめき、ギモンのえくぼに真っ黒い影を落とす。
「見ようによっちゃ見られなくない顔だ。ガキが好きな金持ちなら、大枚叩くかも知れないねえ。せいぜい綺麗なおべべを着せてもらえるように祈っておきな」
品定めを終えたギモンは、顎を投げ捨て、タニアに背中を向ける。同時に高笑いが響き渡り、トタン貼りの屋根を揺さ振った。
彼女の肩が激しく揺れるのに連動し、うなじの刺青が激しく上下する。胴体より長い腕を掲げるコガネムシは、まるで勝ち名乗りを上げているかのようだ。
縄抜けの技術は? ない。
〈砂盗〉のボスは? 同姓の子供を売り払おうとする人格者。
〈NIMO〉は? 〈砂盗〉のアジトを掴んでいない。
放心しようとする意識に鞭を打つだけ、タニアの目の前は真っ暗になっていく。
本当に本当に自分は売られてしまうのだろうか?
タニア・ミューラーは六年間も、平和なシャッター通りで暮らしてきた。人が焼ける臭いも砲火の熱さも、テレビの中の出来事。ここ何週間かを振り返っても、茶碗が割れたり、クロネコに前を横切られたりした記憶はない。
少なくとも〈砂盗〉のような連中が幅を利かせる無法地帯とは、地球の裏側以上の開きがあるはずだ。そんな縁も縁もなく遠い世界に引き込まれるなんて信じられない。
ドラマ顔負けの転落劇を否定するその声は、最悪の可能性を訴えるそれより遥かに大きい。だが「希望的観測」と言う単語を思い出してから耳を貸してみれば、根拠など何もない。
歴史上、いつか殺されると悟りながら死んでいった人が、どれほどいるだろう? 突発的に命を失った人のほぼ全員が、自らの死など考えてもいなかったに違いない。
古人の仰る通り、溺れるものはワラをも掴む。好き好んで川底を覗き込む人はいない。恐らく〈砂盗〉に誘拐された被害者全員が、金持ちの閨など目の前に突き付けられるまで直視しなかったはずだ。
そう、絶望的な未来を予感した頭は、考えられる限り最悪の事態を想定して、現実になった時のショックを和らげようとする。だが考えただけで心が砕ける場合は別だ。その時が訪れる直前まで、希望の蜃気楼をちらつかせて、心身の平穏を守ろうとする。
きっともう助からない……。
現実的で絶望的な結論が出ると、辛うじて正面に向けていた顔が床と見つめ合う。分厚く積もった砂が目の前に来ると、視界を構築する線が蒸発するようにぼやけていく。破滅に至る顛末を、バカ正直に見物しているのに嫌気が差したのだろう。
酷い睡魔を思わせる景色が、瞼の筋肉を弛緩させていく。視界が狭くなるにつれて意識が溶け出し、頭の中が生白く染まっていった。
いっそもう、心を捨ててしまおうか……?
残りカスの意識を胸に向け、タニアは自分自身にお伺いを立てる。
今後待ち受ける運命を考えるなら、異論など聞こえるはずもない。そのはずなのに、心の奥底に残っていた光が、聞かせるのを躊躇うように呟く。
あいつがいる……。
誰のことだ? などと聞き返す必要はない。
「あいつ」と言われた時から、タニアには見えている。
凛々しく背筋を伸ばし、〈砂盗〉と睨み合うシロが。
この期に及んで希望的観測か? 現実を見ろ。あいつは〈砂盗〉の居場所を知らない。モグラの怪人には一方的にやられてた。何より、夜空には星が輝いている――。
タニアは手放しかけた意識を握り直し、矢継ぎ早にシロの登場を否定する論拠を捻り出していく。変に希望を抱いたところで、より深い絶望を味わうことになるだけだ。
シロが助けに来る?
無根拠どころか否定する要素しかないそれは、予感と形容するのもおこがましい山勘だ。本質的には、自分が売られるはずがないと言う主張と何も変わらない。
なのに、はっきり説き伏せてやろうとすると、筋の通った理屈のほうが押し黙っていく。どれほど自分自身に現実論を言い聞かせようが、タニアの目に映る光景は変わらない。蜃気楼に過ぎないはずのシロは、山脈のように揺るがない。むしろ否定しようとすればするほど、穴だらけの山勘が確信のような頼もしさを帯びていく。
あいつなら何とかしてくれる……。
心の声に唆され、タニアの両手は重なり合っていく。祈りを捧げるような形に触発されたのか、独りでに瞼が下りると、未来に暗雲を掛けるギモンの姿がこれっぽっちも見えなくなった。
視覚を捨てたことでより鮮明になったシロは、冷え切ったタニアを温かく包み込む。〈砂盗〉を思考の隅に追いやり、シロを見つめることに専念すると、不安定だった鼓動が落ち着きを取り戻していく。
そう、何も考える必要はない。頭のいいシロなら、思いも寄らない方法で〈砂盗〉のアジトを突き止めてくれるはずだ。正攻法では太刀打ち出来ないモグラも、奇策で打ち倒してくれる。
頼りになるシロに今後を丸投げし、タニアは四肢の力を抜く。直後、向かい風が頬を打ち、乾燥した肌に細かい痛みが走った。
緩み掛けていた口角から砂塵が潜り込み、口中にじゃりじゃりした食感を広げていく。顆粒の風邪薬に似た苦さ――以前〈砂盗〉に襲われた時にも、嫌と言うほど噛み締めた味だ。




