②密室の行者
「……っ」
堪らず短い悲鳴を上げ、シロは膝を内側に崩していく。無様に丸まった背中がドアを滑り落ち、感覚の麻痺した腰が床に着く。
来るな! 来るな!
腰砕けのブリッジと言った体勢を取り、シロは窓から一番遠い部屋の隅まで後ずさる。星を追い払うために足を振り回すと、履いたままだったサンダルが宙を舞った。
窓辺に落ちる放物線を尻目に、シロは壁際の影に身を潜める。それからタニアにカーテンを開け放たれた時と同じく体育座りになり、膝の間に顔を沈めた。星に白眼視される面積を、最小限に抑えられる体勢だ。
四肢を自由にさせておいたら、何かの間違いで部屋を飛び出してしまうかも知れない――。
不安でいてもたってもいられなくなったシロは、両膝を抱え込み、右手で左手を、左手で右手を押さえ付ける。
つま先で絨毯の毛を握ろうとあたふたしている内に、ずけずけと視界に入り込む北極星。
こと鋭さにおいて天球でも屈指の輝きは、研ぎ澄まされた刃のようにシロを突き刺す。そしてそれ以上に、モールス信号を思わせる規則的な瞬きは、シロに訴え掛けている。〈砂盗〉? モグラ? お前なら楽勝だろう?
身体が竦み、目を離せないのをいいことに、お仕着せがましい北極星は次々と発言の根拠を指し示していく。
見境なく知識を詰め込んだ頭、
他人を叩きのめす方法に溢れた腕、
卒塔婆の先っぽをこぼすポケット――。
成る程、長年人々に正確な方位を教えてきただけのことはある。
そう、北極星の指摘は怒りがこみ上げてくるほど正しい。頭からつま先まで隈無く見回しても、「助けられない」の入り込む余地はどこにもない。
正当性を認められた北極星は一層輝きを強め、シロを突き上げる。光と共に襲い来る圧迫感は、間違いなくシロを部屋の外に追い立てようとしていた。
嫌だ、行きたくない……!
その一心でシロはポケットを漁り、卒塔婆を引きずり出す。
知恵や腕っ節は簡単に切り離すことができない。だがこれだけは容易に引き離すことが出来る。自分の持つ「力」が多少なり減れば、北極星もモグラと戦えとは言わなくなるかも知れない。
淡い希望を抱き、シロは卒塔婆を投げ捨てた。
安っぽい光が闇を切り裂き、壁のポスターにぶつかる。か細く衝突音が鳴り、ひし形に尖った先端が媚びた笑みだけは一人前の〈荊姫〉を突いた。
壁に跳ね返された卒塔婆が床に落ち、ルーレットのように回りだす。矢印に相当する先端が指したのは、夜の砂漠への入口となるドアだった。
世界の全てが自分に行動を求めている……!
恐ろしい確信が鳥肌を呼び、全身からべとついた汗が噴き出す。ひぃっ……と掠れた悲鳴が漏れると、両膝が打ち合うように震え始めた。
奉仕を強要されることへの嫌悪か拒絶か、突発性の吐き気がシロを襲い、胃の中身が喉元に迫り上がる。堪らずシロは近くにあった本を取り、元凶の卒塔婆に投げ付けた。
目覚まし時計、リモコン、参考書――。
暗闇に溶け込み、手触りでしか正体の判らない物体を、片っ端から卒塔婆に叩き付ける。髑髏の装飾がカチャカチャ泣き喚くにつれて、矢印である先端が星に包囲されないだけの方向に回っていく。途端に吐き気が和らぎ、荒く乱れた息に含み笑いが混じった。
結局、保身か。天の川が目撃者になった夜と同じだな――。
醜悪な笑い声を掻き消したのは、軽蔑すら感じさせない声。
〈荊姫〉の声だ。
肉親だろうが、世界一信じてくれている相手だろうが躊躇わない――。
天秤の片方に乗っているのが自分の命になった時点で、お前は簡単に他人を見限る――。
「うるさいうるさいうるさい」
シロは両耳を塞ぎ、語尾で語尾を掻き消すように連呼する。
だが躍起になって黙らそうとしても、〈荊姫〉の正論は止まらない。
それどころか徐々にタニアやマーシャ、アルハンブラに商店街の面々の声まで仲間に引き入れて、弾劾の包囲網を築き上げていく。
「……そうだよ、私は人でなしだよ。もう判ってるよ」
〈荊姫〉だけならまだしも、皆の口までは塞げない……。
世界中に糾弾されたシロは、渋々降伏し、固く目を閉じる。
瞼の裏に映るのは、紺碧の夜空。
人でなしと自覚して以来、片時も消えたことのない光景だ。
星。
星が観ている。
天の川から氾濫せんばかりの星々が、四方八方で目を光らせている。
〈荊姫〉の兄クリスチャンは、夢も職も定収入もない人だった。
社長さん直々にスカウトしてくれた会社を一日でドロップアウトしてからは、日の出と共に眠り、夕日に「おはよう」を告げ、妹の日記を盗み読むのが日課。妹が有名人になった後は、タンスから無断で発掘したぱんつを遊興費に変えていた。
年端もいかない妹に食わせてもらう姿は、絵に描いたような社会の底辺。でもクリスチャンは人間と〈詐術師〉の垣根を越えて、困っている誰かに手を伸ばす人だった。
東にハチの巣があれば、「すぐやる課」に先んじて駆除を買って出る。西に被災地があれば、おはぎ好きの軍団より速やかに炊き出しを行う。園児の送迎バスをジャックしたりする組織を、フルボッコしたことも一度や二度ではない。
途方に暮れる人々の前に颯爽と現れる姿は、誰が呼んだか「便利屋クリスちゃん」。彼と愉快な仲間たちを指すもっとファンタジーな呼び名もあるにはあるのだが、そっちには「どこの厨二だ」と吐き捨てていた。
〈詐術師〉を統括する〈詐連〉は、人間との接触を許していない。
空一つ飛べない人間にしてみれば、超空間をも創造する〈詐術師〉は魔物に等しい存在だ。
悲しいことだが、有史以前からあらゆる「力」には、力を持たない側の恐怖が付きまとう。丸腰では剣を持つ相手には敵わない。抜きん出た知恵はいつか自分を陥れるのではないかと、凡人にありもしない策略を疑わせる。
この世のものとは思えない力が、自分たちを害する用途に使われるのではないか――。
〈詐術〉と言う「力」を持たない人間が、〈詐術師〉に猜疑心を抱くのは間違いない。
段階を踏まずに人間と接触すれば、確実に不幸な結末に繋がる。無用な悲劇を避けるためには、関わり合わないのが最善だ――と言うのが、〈詐連〉上層部の見解だ。
逡巡もなく賛同するには断定的過ぎるが、「人類皆兄弟」よりは現実的だ。
〈詐術師〉も人間も、決して善意だけの生き物ではない。何より〈詐術〉をもってしても時間を巻き戻す方法がない以上、慎重に接触を重ねる必要がある。争いが起きてから間違いに気付いても、やり直す方法はどこにもないのだ。
一方で〈詐術師〉にしろ人間にしろ、悪意だけの生き物でないのも事実だ。
迷子を見て見ぬフリする人だって、道を訊けばおおよそ答えてくれる。遠くの不幸に冷笑する人が、身内の幸せに拍手を送れないとは限らない。
日常の描きだす表情には、〈詐術師〉も人間もない。
家族を蔑ろにされれば目を吊り上げるし、皆で囲む食卓には屈託のない笑みを盛り付ける。大切な人を失った時に涙を流すのは、〈詐術師〉も人間も一緒だ。
チャキチャキのブロッケンっ子だったクリスチャンは、湿っぽいのが大嫌いだった。
とは言っても、我が身のように他人を思い遣れたわけではない。優しい心も誰かに気を配る余裕もなかった彼は、単純に自分が不快な思いをしたくなかっただけだ。
誰かの泣き声を聞けば、クリスチャン自身も嫌な気分になる。そして人間に〈詐術師〉と種族は違っても、目を腫らした時の声に変わりはない。
嘆き悲しむ誰かに手を伸ばそうにも、空も飛べない人間では届く範囲が限られている。非情なほど常識的な〈黄金律〉の采配に従うだけでは、悲劇を避けられる可能性も低い。
他方、超空間を渡り歩く〈詐術師〉なら、地球の裏側にも軽々手を伸ばせる。常識を覆す〈詐術〉なら、正攻法では消えてしまう笑顔も繋ぎ止められるだろう。
自分たちが助太刀すれば、耳障りな泣き声を聞く回数を少なく出来るかも知れない――。
人間と〈詐術師〉を比較する内に確信したクリスチャンは、顔馴染みの面々を引っ張り込んで悲しみを巡る旅を始めた。
お節介によって繋ぎ止められた笑顔もあれば、降らせてしまった涙もある。「奇跡」を起こした一行をカミサマともてなす人間もいたし、妖術を使う悪魔として刀や銃に追い掛け回されたことも少なくない。




