①そして誰もいなくなった
ミューラー商店の食堂は、息を吸うのも憚られるような空気に包まれていた。
連絡を受け、集まった〈ロプノール〉の人々は、険しい表情でテーブルを囲んでいる。
一身に視線を集めるのは、右側だけになったスニーカー。
タニアの愛用品だ。
「〈砂盗〉だ……、タニアは〈砂盗〉に攫われたんだ!」
銭湯のカシムさんが口走ったのは、皆が言葉にするのを躊躇っていた結論だった。
最悪の答えを聞いたマーシャが、額を押さえながらよろめく。慌ててマツさんとトメさんが支えようとするが、年老いた二人ではゆっくり尻餅を着かせるのが精一杯だ。
「どうすんだよ!」
「どうするって、〈NIMO〉に通報するしかあるめぇ!」
「けど〈NIMO〉の連中、〈砂盗〉の塒も掴んでないって言うじゃねぇか!」
タニアを想うあまり、魚屋のハチさんと八百屋のクマさんが唾をぶつけ合う。皆の目が二人に集中した矢先、頑なに黙り込んでいたアルハンブラが、ふらっと厨房に向かった。
無造作に出刃包丁を取り、アルハンブラは入口へ向かう。かつかつと松葉杖を付く音が鳴り渡り、言い争っていた二人が泡を食ったように息を呑む。
「お、おい!? 何考えてんだ!」
どたどたとテーブルを押し退け、ハチさんとクマさんはアルハンブラに駆け寄る。
「どけえ……!」
野犬のように低い声を出し、アルハンブラは行く手を塞ぐ二人を睨み付けた。邪魔したなら刺し殺して行きそうな剣幕に、ハチさんとクマさんは一歩後ずさる。
「無茶だ! 居場所も判らないんだぞ!? タクラマカン砂漠中を捜す気か!?」
「それでターニャが戻るんならなあ……!」
「見付けたところでどうすんだ! 相手は化け物になるってぇじゃねぇか!」
業を煮やしたクマさんはハチさんと協力し、アルハンブラを羽交い締めにしようとする。
何としてでも拘束されまいと、アルハンブラは駄々っ子のように手足を振り回す。闇雲に宙を裂く包丁は、何度となく二人の顔を掠めていった。例え顔馴染みの鼻を削ぎ落とすことになったとしても、タニアを助けに行けるなら安いものなのだろう。
暴れている内に松葉杖が倒れ、足に怪我を負っているアルハンブラが大きくふらつく。だがテーブルに肘を、床に膝を着いても、アルハンブラは止まらない。憤怒を宿し、血走る瞳を玄関に――いやその遥か先の〈砂盗〉に向け、半ば這うように腫れた足を引きずっていく。
「……あんたなら、どうにか出来るんじゃないかい?」
呻くように絞り出し、マーシャはカウンターに目を向ける。
縋り付くような眼差しを向けられた瞬間、シロは心臓の凍り付く音を聞いた。
悪寒が全身を駆け巡り、アルミ製のトレーに映る鏡像が血色を失う。たちまち青白い唇から歯の鳴る音が漏れだし、脂汗が背中を濡らしていく。
「た、頼むよ、あの子を、ターニャを助けておくれよ」
自分の命を差し出さんばかりに訴え掛け、マーシャが跪く。そのまま土下座するように床を這い、マーシャはシロにしがみついた。
「しっかりおしよ、マーシャ! ジェロちゃんに何が出来るってんだい!」
見かねたトメさんが引き離そうとするが、マーシャはシロのカーディガンを放さない。どれほどトメさんが息を切らせても、深く食い込んだマーシャの指が編み目を広げるばかりだ。まっすぐシロを見つめる瞳は、そこに救いの手があると確信している。
「頼むよ、ねえ、ねえったら……」
「わ、私は、私は……」
請け負うことも断ることも出来ずに、シロはただぶつ切りの一人称を垂れ流す。すると見るに堪えなくなったのか、道徳心とか倫理観とか呼ばれる何者かが、胸の内側からシロに説き始めた。
砂漠に消えた少女は、約束を破った〈荊姫〉を六年間も信じ続けてくれた。無責任に約束を破った〈荊姫〉を嘘吐きにしたくない一心で、〈姫〉を目指してくれた。
ただ「なりたい」と宣言しているだけではない。再会してからの二ヶ月間、彼女は一日も欠かさずに汗を流し続けていた。〈姫〉になった〈荊姫〉から見ても、不足がない量の汗を。
早朝の台所でお豆腐を切っていると、目を擦りながら外へ駆け出して行く。洗濯物を畳み終え、夕焼けの見守る部屋に戻れば、眉を絡ませそうな顔で参考書と睨み合っていた。
誉められるのが苦手な彼女は、自分のことを典型的な三日坊主と嗤っていた。 確かに飽きっぽいところはあるが、苦手な分野を途中で放り出すようなことはない。本当の三日坊主は、華道も茶道も半日で投げ出してしまった〈荊姫〉のほうだ。
また六年前のように屁理屈を捏ねて、あの子を裏切るのか?
いいや、今度こそ見捨てさせない。
そもそも誰のせいで彼女が誘拐される羽目になったのか、責任の所在は明らかだ。誰かが一緒にメーちゃんを捜しに行っていれば、彼女が夜の砂漠に独りで向かうことはなかった。モグラの〈筆鬼〉に襲われたとしても、彼女独り逃がすことくらいは出来たはずだ。
みすみす危険な目に遭わせたことを償う意味でも、〈荊姫〉は彼女を救わなければならない。
助けを待っているのは、〈荊姫〉ごときの名誉を守るために靴底を磨り減らしてくれた少女だ。助けに行った結果、モグラに殺されることになったとしても、人でなしの命一つで彼女が戻って来るならお買い得ではないか。
――と、弁の立つ倫理観は、口を噤む他ない論理でシロを捲し立てる。
だが耳から入る音が聞こえなくなるほど叱咤されようと、針路を見定めるシロの目は、現実に踏み出すシロの足は、玄関には向かない。
サッシの先には夜が広がっている。
残酷なまでに澄んだ砂漠の夜には、数多の星々が待ち構えている。
タニアが飛び出す直前、シロは窓枠に切り取られた空に見下ろされただけで、声を聞いた。ガラスの向こうから聞こえるそれは、独りだった頃と何ら変わらずに――いやあの頃よりも辛辣にシロを罵倒していた。二ヶ月間も布団の上で寝ていたのだ。怒りを買うのも当然だろう。
天球の東西南北から際限なく星に追い掛け回される? 無制限に清廉な光を浴びることを考えただけで、メッタ刺しにされたような痛みが走る。
始まりから終わりまでシロの所行を目撃していた星々は、きっとまた果てしなく糾弾を降り注がせる。二ヶ月も逃げ回っている間に憤懣を募らせた彼等は、砂漠を徘徊していた頃が生易しく、そして恋しくなるほどの剣幕でシロを責め立てるだろう。
何しろ血を分けた肉親を切り捨て、のうのうと生きていられるシロだ。厚かましさには自信がある。だが今度と言う今度は、星々の正論を聞き流せる気がしない。平然と生きていることが分不相応だと思い知らされて、きっと喉に刃を突き立ててしまう。
「私には……っ!」
明確に拒否することも出来ないまま、シロはマーシャを突き飛ばす。すぐさま店の奥へ走り、サンダルを脱ぐこともなく階段を駆け上がる。
「シロ!」
「シロちゃん!」
男女混声の呼び掛けを引き離し、一目散にタニアの部屋へ駆け込む。力任せに開けたドアを叩き付けるように閉じると、闇に浮かぶ〈言灯〉が落下せんばかりに戦慄いた。
鍵を掛け、外の世界を遮断すると、思い付きの偽名を連呼する声が萎んでいく。きっと皆、返事一つ出来ないシロに呆れ果てたのだろう。
息を殺し、階下の様子を探っていたシロは、思うさま呼気を吐き出し、薄く笑う。続いて硬く握っていたノブを手放し、ドアに押し付けていた身体を室内に向けた。
次の瞬間、目に飛び込んできたのは、細く床を照らす光。
「あ……ああ……」
今にも抜けそうな腰をドアで支えながら、シロは窓に目を向ける。物々しくカーテンの隙間に結集した星々が、ドアに寄り掛かる臆病者を睨み付けていた。




