④私だけの笑顔
力を貸して……!
絞り出すように懇願し、タニアは〈荊姫〉さまを思い描く。自分自身の力だけでは、下がることしか出来ない背中を押してもらうために。
徐々に安らかな笑みが見えて来ると、冷え切っていた身体にぽかぽかした温もりが広がっていく。凍ったように動かなくなっていた喉が、少しずつほぐれていく。すかさずタニアは腹に力を込め、まだ少し強張っている喉から精一杯の声をこそぎ出す。
「メーちゃん!」
前触れもなく静寂を打ち砕いた大声が、メーちゃんの背中をビクッ! と震わせる。恐らくは反射的に振り返り、メーちゃんはほんの一瞬、背後のタニアを垣間見た。
〈荊姫〉さまの声も聞こえなかった自分とは違う――。
メーちゃんにはまだ誰かの声を聞く気持ちが残っている!
淡い光明を目にした瞬間、タニアはいてもたってもいられずにスタートを切った。全力で蹴った道路から炸裂音が轟き、薄く積もっていた砂埃が月の間際まで噴き上がる。
めぇ……!
来ないでと拒んでいるのか、悲痛に鳴いたメーちゃんは砂しか待たない方向に駆け出していく。瞬間、タニアはビーチフラッグスのようにダイブし、フラッグ代わりの毛玉をかっ攫う。
勢い余って転がり、転がり、転がると、月、砂漠、月……と視界の上下にある光景が激しく入れ替わる。比例して平衡感覚を司る三半規管が攪拌され、乗り物酔いに似た吐き気が強まっていく。大回転が止まる頃には、口中に酸っぱい胃液が充満していた。
タニアは真っ白になった頭を振り、ぺっ、ぺっとザラザラする口から唾を吐き出す。続けざまより強くメーちゃんを抱き締め、深く懐にしまい込んだ。
めぇ! めぇ!
まさか顔を忘れてしまったのか、メーちゃんは滅茶苦茶に暴れ狂い、黒光りする蹄でタニアの顔を連打する。前肢を押さえようとした拍子に噛み付かれると、ベジタリアンにしては鋭い歯が親指の付け根に食い込んだ。
「だいじょぶだよ、だいじょぶだよ、もう誰もひどいこと言わないから」
タニアは痛みに顔を歪めながら、何度も何度もメーちゃんの背中を撫でる。
強く抱き締めることも、鼓動で呼び掛けることも、〈荊姫〉さまの受け売りで猿真似に過ぎない。でもこれ以上、誠実に想いを伝える手段をタニアは知らない。
不出来な頭が「大丈夫」以外の言葉をひねり出せなくても、再会の喜びに打ち震える心臓が嘘偽りのない気持ちを伝えてくれるはずだ。メーちゃんは大切な家族だ、と。
めぇ……。
大きく鼻を啜ったのを皮切りに、暴れ狂っていたメーちゃんが落ち着きを取り戻していく。胸を叩かれる回数が減るにつれて、蹄が肋骨に当たる時の衝撃が、ノック程度、デコピン程度と弱まっていった。
繰り返し背中を撫でていると、暴風雨のようにけたたましかった泣き声が鳴り止む。途端、夜の砂漠に静けさが戻り、砂と風の擦れ合う音が耳に届くようになった。
変に刺激しないように注意しながら、タニアはそ~っと懐を覗き込んでみる。
泣き疲れて大人しくなったメーちゃんが、鼻水でぐっしょり濡れた服にしがみついていた。
「……帰ろう」
静かにしかし強く呼び掛け、タニアは心の赴くままに微笑む。
ロプ湖の水面に映った鏡像は、お世辞にも整っているとは言えない。同じ笑顔だと言うのに、記憶の中の〈荊姫〉さまとは天地ほども開きがある。でも同時に、タニア・ミューラーだけが浮かべられる表情だった。
めぇ……。
小さく頷いた途端、メーちゃんの顔がしわくちゃに歪む。丸い鼻が痛々しく震えると、渇きかけていた瞳から大粒の涙がこぼれ始めた。
再び泣き声がロプ湖を震い、静かだった湖面を込み入った波が往来する。タニアは湖面が穏やかさを取り戻すまで、メーちゃんの背中を撫で続けた。
めぇ……?
前触れもなく首を傾げ、メーちゃんは目を見開く。
きょとんするあまり涙も忘れたそれは、一心にタニアの顔を見つめていた。
めめ……。
不意にメーちゃんの肩が震えだし、嗚咽を漏らしていた口が一転して曲線を描いていく。直後、野菜臭い歯と一緒に溢れ出たのは、無邪気な笑い声だった。
一体、何が涙を降り止ませたのか?
さっぱり判らないタニアは、しげしげと見つめられた顔を湖面に映してみる。
砂漠にダイブした時にくっついたのか、赤く擦れた鼻にこんもりと砂の山が乗っかっていた。
「メーちゃんだって」
鼻を拭いながらやり返し、タニアは水面を指す。
得意げに笑うメーちゃんだが、そういう自分も鼻に泥団子を詰めている。きっと鼻水と混じり合った砂だろう。
めぇ……。
頬を赤らめたメーちゃんは、短い手足の代わりに翼を使い、泥団子をほじくり出す。決まり悪そうな様子がおかしくて、タニアは堪らず吹き出してしまった。
つられたのか照れ隠しか、メーちゃんの口からも大輪の笑みが咲く。二つの笑みがハモると、ロプ湖の水面を大股の波が練り歩き始めた。ぱっと見、泣き声に震えていた時と大差ないように思えるが、湖岸に打ち付ける波頭は随分と景気よく飛沫を散らしている。
元気……と言うか元気すぎる笑い声は、静寂に包まれた砂漠に響き渡ったことだろう。
それを裏付けるように、一人と一匹が口を開けてすぐ、空っぽだった地平線が丸い光を浮かべる。二つ並んでいるところから考えても、陸上船のヘッドライトに間違いない。
程なく夜の闇に流線型の船影が浮かび上がり、船尾から圧縮空気が噴き上がる。白く染まった噴流が地表を薙ぎ払うと、大量に舞い上がった砂煙が月にヴェールを掛けた。
重く騒々しい噴出音は、明らかに無改造のノズルではない。市販の陸上船――いや〈NIMO〉の警備船でも、世界中に目覚めを強制するような音色は奏でないはずだ。
だとするなら、これは、これは……。
硬直する身体を余所に目が見開き、T字型の船首を克明に捉える。もう一度、圧縮空気が船尾を突き飛ばすと、ド紫の船体がタニアの前に立ちはだかった。




