③第二の天の川
超空間の果てには、膜状の内壁が聳え立っている。ドーム型のそれは半透明で、一見するとごく薄く水面が張っているように感じられるだろう。
住民には「果て」と呼ばれているが、実のところ、内壁の先にも超空間は続いている。ただし、延々と砂漠が広がっているだけで、普通は立ち入ることが出来ない。五㌔ほど手前の内壁を潜った瞬間、超空間とタクラマカン砂漠を結ぶ通路に飛ばされてしまう。
見えにくい上、その先にも超空間があるように誤認させやすい内壁は、底の部分を光線で縁取られている。鬼火のように幽玄な光は、生きていると訴える声〈発言力〉の賜物だ。具体的には〈発言力〉に反応し、発光するパイプを敷設している。
紛らわしいのを承知の上で無駄なスペースを作っているのは、超空間で暮らしている人々に閉塞感を与えないためだ。今でこそ慣れてしまったが、当初は密閉された超空間での生活に体調を崩す人が続出したらしい。
そこで必要以上に超空間を広げ、外界と同じように地平線を見られる造りに変えたそうだ。天井に関しては、いつかマーシャが言ったようにロプ湖の湖面に映った空を投影している。
「えいっ!」
ホームランボールを追う野手のように踏み切り、タニアは超空間の内壁に突っ込む。ぽちゃん……と小石を池に落としたような音が鳴り、強烈な体当たりを受けた内壁に波紋が走る。同時にサランラップを貫いたような抵抗が、か弱く肌を押し返した。
超空間と外界を結ぶ通路に突入すると、三六〇度はおろか足下までもが青く染まる。両親に連れられ、始めて外界に出た時は、海中に通されたトンネルを歩いている気分になった。
一分ほど何もない空間を進むと、また弱々しい抵抗が肌を圧す。次いで小さな水音を聞き流すと、目の前を砂に覆われた湖岸が覆い尽くした。
ガラスのように透き通ったロプ湖は、一面に星を写し取り、第二の天の河と化していた。
ネイビーブルーの湖面が果てしなく広がる様子は、湖と言うよりまるで大海。そこかしこに存在する小島は、星々と張り合うように鈍く瞬いている。塩に覆われ、錆色になった地面が月灯りを反射しているのだ。
目敏くタニアの姿を発見したのだろうか、遠くから水鳥の鳴き声が響く。すぐさま豆粒大の影が水面を離れ、波を切るように飛び去っていった。
二〇〇〇平方㌔とも言われる雄大さとは裏腹、ロプ湖の水深は浅い。湖岸付近は深いところでも、膝が浸かる程度だ。一㍍ほどもある魚が窮屈そうに水中を進むと、波打って上下した水面から背ビレや尾ビレがはみ出してしまう。
一見すると泳ぐより歩いたほうが楽そうだが、それは大いなる間違いだ。
ロプ湖の湖底は水を吸い、粘土状になった堆積物で覆われていて、泥濘のように進みにくい。砂浜で遊ぶような気分で湖に入った観光客が、足を取られて転ぶことも珍しくない。
また堆積物の下には固い塩の層があり、裸足で歩こうものなら岩礁のように肌を傷付ける。しかも最悪なことにロプ湖は塩湖で、出来たばかりの傷口に間髪入れず塩を塗り込んでくる。〈ロプノール〉に越してきたばかりの頃、タニアは取り放題の巻き貝を潮干狩りしようとして酷い目に遭った。
満月を浮かべた湖面は、手招きするように波を行き来させている。対照的に今まで数度しか相対したことがない夜の砂漠は、どこか排他的な雰囲気を漂わせていた。
最果てまで闇を詰め込んだ姿は酷く威圧的で、湖畔にもかかわらず空気には潤いがない。「生きては出られない」と言うあだ名通り、命あるものを拒絶しているのだろうか。
すすり泣くように寒風が吹き抜けると、白くきめ細かな砂塵が地表を撫でていく。過去数回は「雪煙」と形容していた光景だが、なぜだろう、今日のタニアには「遺灰」と言う単語しか思い浮かばない。
道路を挟みながら夜の懐に向かっていく〈言灯〉は、さしずめ鬼火の行列。入念に火葬され、肉体を失った亡者どもが、人間の信じる「あの世」とやらを目指しているのだろう。
恐る恐る朧気な灯りを伝い、タニアは先の見えない道を進んでいく。
五分ほど忍び足を続けると、真ん丸い影が月を仰いでいるのが見えた。
念願の黒い毛並みを、小さく畳まれた翼を確認した瞬間、汗しか握っていないはずの手にウール一〇〇㌫の温もりが甦る。栓のようなつかえが胸から抜けると、安堵の息が目の前を白く塗った。
世界中に名前を響かせるために大きく息を吸い、タニアは背後からメーちゃんに歩み寄っていく。だがいざ呼び掛けようとすると、考えもしなかった危惧が頭を過ぎる。不用意に声を掛けたら、走り去ってしまうのではないか?
タニアは勿論、シロや伯父夫妻もメーちゃんの悪口を言ったりはしない。余った野菜では物足りなかったかも知れないが、朝昼晩欠かすことなくご飯もあげていた。
冷え込む夜のために、寝床の物置には毛布が常備されている。さすがに全ての欲求を満たしてあげたとは言えないが、少なくともミューラー家で生活する間、メーちゃんが耐えがたい苦痛を味わうことはなかったはずだ。
なのに、メーちゃんはミューラー家を出て行った。
世界の全てが信じられなくなって、世界の全てが自分を傷付けるように思えている証拠だ。
無神経に声など掛ければ、また痛い思いをさせられると怯えて逃げ出してしまうかも知れない。そして一度大砂漠に消えてしまったなら、鞠のように小さいメーちゃんをもう一度見付けられる保証はどこにもない。
最悪の可能性が頭に浮かぶと、メーちゃんの名を呼ぶはずだった喉が冷たく痺れる。すっかり腰の引けた身体は、メーちゃんに気付かれないように足音を殺しながら後ずさっていく。
しっかりしろ……! 今、メーちゃんに温もりを伝えられるのは私しかいない、私独りしかいないんだ……!
本心に抗うために歯を食いしばり、タニアは自分を叱咤する。同時に固く拳を握り締め、後退するにつれて砂の下に隠れていくかかとを睨み付けた。
確かに不用意に歩み寄れば、メーちゃんは広大な砂漠に走り去ってしまうかも知れない。家を飛び出す直前に見た物置が、無音の暗闇が永遠に続く? 少し考えただけで、夜の寒さにも耐えてきた膝が震えだす。
ただ夜の砂漠に消えていくその姿は、あくまでも可能性の一つに過ぎない。
対して、ここで踏み出さなければ、確実に独りぼっちで帰宅することになる。そう、掛け替えのない日常を永遠に失う可能性があったとしても、望む未来を勝ち取るためには行動するしかない。行動するしかないのだ。




