③二銭銅貨
人間との争いを呼び込むかも知れない行いを、いつまでも〈詐連〉が看過しているはずがない。
彼等は再三の警告にも従わないクリスチャンに外患罪を適用し、お尋ね者の烙印を押した。ただでさえ昼過ぎまで寝床にいるのが普通だったクリスチャンは、法的にも日の高い内は外へ出られない立場になった。
人助けを咎めるなんて、〈詐連〉の連中は狭量だ?
間違っても〈荊姫〉には責められない。
誰も泣かせたくない――。
教室に飾ってもいいスローガンだが、突き詰めればクリスチャンの駄々に過ぎない。
世界には名も知らない場所の涙より、肉親の安全が最優先だと考える人々もいる。我が子や恋人の息災を願う気持ちを誰に罵れるだろう。
第一、今が快適なら守りたいと願うのは当然だ。誉められたことではないと言え、幸せを失いたくない一心で、敷地外の泣き声に気付かないフリをしたとしても仕方がない。
一自宅警備員のクリスチャンと違い、〈詐連〉には多くの命を預かる責任がある。見栄えがいいからと言って、いたずらに皆を危険に晒す行為を許容することは出来ない。
ただ根底にあったのがワガママだったとしても、クリスチャンの行動によって多くの涙が止まったのは事実だ。〈詐術師〉たちの平穏な日常を揺るがしたとは言え、一方的にクリスチャンを糾弾することには抵抗がある。
あくまで〈荊姫〉の見解として語るなら、クリスチャンと〈詐連〉との一件は、誰が悪で誰が善だったと裁定される話ではない。兄には兄の正しさがあり、〈詐連〉には〈詐連〉の義務があった――それだけだ。
臭い飯を食いたくなかったクリスチャンは、〈詐連〉を出て行く決断を下した。そしてその話を聞いた〈荊姫〉は、彼に同行する道を選んだ。
肉親と離れたくなかったのは否定しない。出来ない。お世話になった人たちに恩を仇で返すと、応援してくれているみんなを失望させると承知の上で、〈荊姫〉は肉親の情を優先させた。
唾を吐かれようが石を投げ付けられようが、〈荊姫〉に言い返す資格はない。無責任な振る舞いを罰せられる日が来たなら、人々の気が晴れるまで黙っているつもりだ。
他方、別の理由がなかったと言えば嘘になる。兄と離れ離れになりたくなかったのは確かだが、それだけなら人々を裏切ろうとは思わなかっただろう。
〈荊姫〉はクリスチャンの決断を聞く前から、自分の現状に居心地の悪さ、もどかしさを感じていた。
そもそも〈荊姫〉は、〈姫〉と呼ばれたくて〈姫〉になったわけではない。個人の「力」では届かない人々に手を伸ばす方法として、〈姫〉を選んだだけだ。
これでもっと多くの人に手を伸ばせる……!
まんまと〈荊姫〉の名を賜った時、世間知らずの田舎娘は薄っぺらい胸を弾ませた。
だが現実には作り笑いを浮かべ、講習通りに手を振り、「頑張って下さい」を連呼するだけ。そう、おめでたい〈荊姫〉以外なら、考えるまでもなく予想出来る話だ。三〇〇年に一人しか出ない合格者に、危険な作業をさせるはずがない。
〈荊姫〉が力を貸せばすぐに救い出せる人たちが、瓦礫の下で無駄に呻いた。立場ごときに阻まれている間に、取り返しの付かない命が幾つも消えていった。泣き声を聞いてしまった回数は、本名でクリスチャンにくっついていた頃より遥かに多い。
確かに〈姫〉と言う肩書きは、時に想定以上の働きを見せた。反面、最大級の力と疑わなかったそれは、知識と鍛錬を積み重ねたはずの五体に、耐えがたい無力感を広げていくものでもあった。
勿論、悲嘆する人々の手を取ることに意味がないわけではない。
密着した指から伝わる血潮は、独りで震える人々に温もりを分け与える。そして手を握る強さ以上に、気持ちを代弁してくれる言葉はない。
やたらめったら繰り返す「頑張って下さい」にしろ、田舎娘の口から出たなら紋切り型のエールに過ぎない。だが〈姫〉の告げるそれには、偉大なる先輩方の築き上げた歴史が宿っている。励ましを受けた人々は大いに感動し、幸福な昨日を振り返るばかりだった眼差しを、険しい明日に向けてくれた。
〈姫〉には〈姫〉の役割がある――。
直接、手を伸ばすことだけが笑顔を咲かせる方法ではない――。
いつまでもうじうじと思い悩む〈荊姫〉を、聡明な先輩たちは根気よく宥めた。
いくら浅はかな〈荊姫〉でも、〈姫〉になったからと言って全てが思い通りに行くとは思っていなかった。公的な立場になれば、大勢の笑顔と引き替えに目先の涙を捨て置かなければいけない日が来ると覚悟していた。そう、涙する人々を見過ごせる気でいたのだ。想像の中ですすり泣きや悲鳴を聞いていた間は。
だが現実に苦しむ人々を目の当たりにすると、緋色の血は、眉間のシワに溜まった影はあまりに濃すぎた。妥協と言う選択肢を簡単に塗り潰してしまうほどに。
クリスチャンに付いていくか迷った時、決定打となったのがある少女との顛末だ。
中東の被災地を訪れた際、〈荊姫〉は事故で両親を失った少女と出逢った。そして孤独感に震える彼女を抱き締め、ずっと一緒にいると約束を交わした。なのに、一ヶ月も断たない内に約束を反故にし、そそくさと彼女の前から去った。
なぜ立場を捨てる覚悟もないくせに、期待させるセリフを吐いた!?
ただスケジュール帳を開くだけで、果たせる約束かどうか判断出来たはずだ!
背中を見送る少女を思い返す度、〈荊姫〉の胸は叱責で溢れる。お付きの人に押されるフリをし、さっさと避難所からバッくれていく自分を殴り飛ばしてやりたい。家族を失ったばかりの少女をもう一度独りぼっちにするなんて、最初から見て見ぬフリをするほうがまだ情け深い。
手酷く裏切られたはずの少女は、最後まで「行かないで」も「嘘吐き」も口に出さなかった。その優しさに応えるためにも、〈荊姫〉の不義理な行為を見逃してはならない――。
義憤にも似た使命感に突き動かされた〈荊姫〉は、〈詐連〉の首都に戻ると共に少女を引き取る準備を進めた。避難所に毎日送っていた手紙が手元に戻って来たのは、手続きが終わった直後のことだ。
「あて先人不明」の付箋を見た〈荊姫〉は、関係各所に依頼し、少女の行方を追ってもらう。結果、少女が親類の家に身を寄せたことを知ると、それ以降、彼女に干渉するのをやめた。
留守にしがちで満足に食卓を囲むことも出来ない〈荊姫〉では、少女に寂しい思いをさせるのは明白だ。それ以上に血の繋がった相手がいるなら、赤の他人と暮らすよりいいに決まっている。
幸い少女の世話を買って出たのは、地元でも評判のいい夫婦だった。なら尚更、思わせぶりな態度を取り続けるのは好ましくない。明日にでも迎えに来るかも知れない〈荊姫〉を夢見るばかりで、新しい環境に馴染もうとしなくなってしまう。
義父母が評判通りの人々か、不安がなかったと言えば嘘になる。
だが今は迷うことなくお墨付きを与えられる。
あの時の判断は正しかった。
誰かが道端で震えていれば手を伸ばし、自分以外が傷付けられた時にも本気で怒れる――。
肉親の手すら掴めない〈荊姫〉に、教えられたとは思えない。先輩の功績に乗っかってデカいツラをしていただけの〈荊姫〉より、アルハンブラやマーシャのほうがずっと偉大だ。
〈姫〉に囚われていたら、子供でも守れるような約束すら守れない。〈姫〉でなければ力を貸すことの出来ない場合があるように、〈姫〉である限り歩み寄れない人々もいる――。
〈詐連〉を去るか選択を迫られた時、〈荊姫〉に決断を下させたのは、肉親の情よりむしろ前々から感じていた歯痒さだったのかも知れない。
事実、兄と一緒に外界へ出た時、〈荊姫〉が真っ先にしたのは、安堵の息を吐くことではなかった。心から肉親と離れたくなかったなら、感極まり、兄に縋り付いてもよかったはずだ。
何ら垣根のない外界を前にした時、〈荊姫〉が抱いたのは監獄から釈放されたような解放感だった。記憶の中の〈荊姫〉は、ナビを凝視する兄を捨て置き、思い切り手足を伸ばしている。




