②後悔と決意
眩く輝く月光が、目尻に溜まった水滴を青白く染める。寒風が吹き、ポニーテールが気怠げに棚引くと、半袖一枚の上半身に低く鳥肌が立った。
シロから離れるため、そして所在不明のメーちゃんに追い付くため、タニアは大きく腕を振り、夜の街を駆け抜けていく。
鼻水を拭いながら足を振り下ろすと、必要以上に力の入った靴底が地面を強打する。その度、八百屋も魚屋もシャッターを下ろし、庭木だけがざわめいていた商店街に、けたたましい足音が鳴り渡った。
メーちゃん、無事かな?
言い過ぎたかな?
何で星から逃げようとするんだろう?
ここ二ヶ月分の記憶を目まぐるしくリピート再生させながら、前後脈絡のない自問が不規則に頭の中を飛び交う。どう対処すればいいのか? 吟味するには入れ替わりが激しすぎて、解決策が見えて来た頃には、別の問題に思考を割くことを余儀なくされている。
誰にだって触れられたくない話はある――。
マーシャの警告をきっかけにして、タニアの頭の中から空っぽの物置がフェードアウトしていく。交代に浮かび上がってきたのは、痛々しく体育座りするシロだった。
なぜ星に追い立てられるのか、タニアには見当も付かない。
だがあの恐ろしいモグラに組み付いたシロが、始めて留守番を任された子供のように膝を抱えるのだ。苦手とか嫌いで済ませられるような話ではない。シロにとってカーテンを開け放たれると言う行為は、タニアに両親を呑み込んだ泥流を突き付けるのと同じだったはずだ。
どうしてシロの気持ちを考えなかった――。
マーシャの忠告を忘れ、向こう見ずで残酷な感情に従ってしまったことが、悔やんでも悔やみきれない。そしてそれ以上に、自分自身のガス抜きしか考えなかった身勝手さに激しい怒りが沸き立つ。
メーちゃんを捜しに行かなかったからと言って、タニアにシロを罵る資格はない。窓の向こうに広がるのが荒れ狂う濁流だったなら、タニアのほうが二の足を踏んでいたはずだ。
シロはきっと、他人の気持ちを考えられないタニアを軽蔑している。メーちゃんを見付けて家に帰っても、もう部屋にシロの姿はないかも知れない。
シロは頬に付いたご飯粒を取ってくれた。
日曜朝八時を迎える度に、テレビの前で正座していた。貧しい胸に話題を向けると、静かな笑みを浮かべながら生爪を剥ぎそうな目をした。
始めて言ってくれた。
絶対〈姫〉になれると言ってくれた。
二ヶ月の間にシロの見せてくれた喜怒哀楽が、走馬燈のようにタニアの目の前を過ぎっていく。日常に乱入してから一五〇〇時間ほどしか経っていないはずの顔は、当然のようにタニアを囲む風景に馴染んでいる。むしろ一年前に設置された自販機のほうが、違和感は強い。
時に目を吊り上げ、時に笑わされた表情を眺めていると、大きく掻くばかりだった腕が正面に吸い寄せられていく。無謀にも過ぎ去った時間を引き戻そうとしたそれは、案の定、派手に空を切った。体勢を崩したタニアは大きくつんのめり、口の中に溜まっていた唾を吹き散らす。
なぜ触れてはいけない場所に踏み込んだ。ド田舎の小娘にシロの抱えている何かを解決する力はない――伯父夫妻や博識の新聞に教えられるまでもなく、自分自身が一番理解していたはずだ。
シロの見解もタニアと同じ。だから面と向かって星に対する恐怖心を指摘されても、何でもないフリを続けた。本音を明かしたところで、無力なタニアからは居心地の悪い無言しか返って来ない。傷をほじくり返して説明するだけ損だ。
今になって何も知らない演技をやめる理由がどこにあった?
下手に詮索しなくても、〈ロプノール〉に迷い込んだだけのシロは、近い将来、タニアの元から去ってしまったかも知れない。
だが口を噤んでいれば、そう、ただ口を噤んでさえいれば、シロが旅立つその日まで変わらない関係を保てた。優しいシロはミューラー家を去る直前まで完璧に演技を続け、太陽のような笑みでタニアの世界を照らしてくれたはずだ。
もう戻れない――。
自業自得で耐えがたい結論が出ると共に、昨夜の部屋がタニアの胸に甦る。
ペンを回しながら参考書と睨み合う劣等生を、背後からシロが見守っている――。
数分前までは日課だった光景が、涙の溜まった瞳には虹のように遠く輝いて見える。
もう少し冷静になれば、結論が変わるのではないか?
絶望的な答えを正視出来ないタニアに、心の声が甘く囁く。現実的に考える限りシロを失うしかないタニアは、一も二もなく無責任な期待に縋り付いた。
頭を切り換えるため、メーちゃんの捜索に専念する。
路地裏、町工場の密集地、住宅街――と思い当たる節を巡回しても、抜け落ちた羽根一枚見付からない。帰宅した時、シロが家にいるかどうかに付いても、真新しい結論は現れなかった。植え込みに首を突っ込もうと、自販機の下を覗き込もうと、無人の部屋が見えることに変わりはない。
無難な可能性を使い切ったタニアは、自然と地平線に視線を押し出していく。無限に広がる外界なら天球の裾野でしかないが、ドーム型の超空間においては出口となる場所だ。
夜の砂漠に通じるそこが垣間見えると、邪悪に微笑むモグラがタニアの脳裏を占拠する。途端、反射に任せておくだけで回転していた足が、棒切れのように立ち竦んだ。
力走と涙のせいで紅潮していた顔から、そそくさと血の気が失せていく。脳裏のモグラに見付からないようにするためか、呼吸音が萎み、女々しく漏らし続けていた嗚咽が途切れた。
〈NIMO〉がパトロールを強化しているとは言え、太陽の沈んだ砂漠は奴らの縄張りだ。
ぽつぽつと〈言灯〉が立つだけの世界には、特濃の闇が広がっている。ちんちくりんのタニアが連れ去られたところで、誰かの目に止まるはずがない。悲鳴を上げても、耳にするのはでくの坊のヤルダンだけだ。
女性は足が付かない場所に売られる――。
捕まったら二度と家には帰れない――。
臆病で小利口な理性の仕業か、タニアの頭の中に〈NIMO〉の隊員さんの声が響き渡る。どうやら地平線から目を背けさせようとしているらしい。
私以外の誰に独りじゃないって伝えられるんだ!
親切に忠告する隊員さんに言い返し、タニアは立ち竦む両足に力を込める。半ばやけっぱちに地面を蹴ると、静止していた身体が風を切る。
両親を亡くした頃のタニアも、警備船の中のメーちゃんのように座り込んでいた。涙さえ忘れた瞳で、誰もいない方向をじっと見つめていた。
でも今は、階段を上り下りする度にヌー的な大音量を轟かせている。お玉を装備したマーシャと追いかけっこする時は、両目が涙で一杯だ。積載量をオーバーしたそれが、クラッカーのように打ち合うことも多い。
一時は自分の輪郭すら見失っていたタニアに、何が光を色を呼び戻したのか?
他でもない〈荊姫〉さまだ。
泥で汚れるのも構わずに抱き締めてくれた腕が、あなたは独りではないと強く教えてくれた。密着した胸から分け与えられた体温が、凍り付いた心を優しく溶かしてくれた。
ド田舎の小娘と〈荊姫〉さまとの間には、ガラス玉とお星さま以上の開きがある。小汚く日焼けしたガラス玉に、皆の目を虜にする力はない。「てにをは」もあやふやな頭では、一〇〇点満点の慰めを捻り出すことも出来ない。
でもタニアだって、一丁前に心臓だけは動いている。〈荊姫〉さまと同じように、手足の隅々まで温かな血が通っている。そう、タニアの身体にも誰かに伝えられる温もりがある。
絶望の闇に塗り潰された瞳には、他人どころか自分自身の姿すら映らない。でも〈荊姫〉さまが実証してくれたように、体温でなら呼び掛けることが出来る。
衝動のまま抱き締め、独りぼっちでないと教える。嘘偽りなくメーちゃんが大切なことを伝える。そうすれば、もう二度と無人の砂漠に愛おしげな目を向けたりはしないはずだ。
必ず昨日までと同じように――いや、それ以上に笑える明日を迎えさせてみせる……!
決意を原動力にし、タニアは一足飛びに町を駆け抜ける。突風と砂煙を引き連れた身体は、ぐいぐい超空間の出口に近付いていった。




