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バスルームからシャワーの音が聞こえ始めると、光汰はキッチンで一人、冷たい水に手を潜らせながら深く息を吐き出した。
(翔さんが変なこと言うから、変なことばっかり考える……)
夕食を共にしている時の記憶が蘇り、濡れたままの手で口元を覆う。その顔は、耳の先まで真っ赤に染まっていた。
(口、小っちゃかった……)
よく喋り、チャーハンを頬張る唇を思い出しては、自己嫌悪に頭を抱える。
「それに嫉妬とか、格好悪……」
それどころか、星が口にした見知らぬ大学生に苛立ちまで覚える始末。そんな醜い感情を振り払うように、光汰はゴシゴシと手を拭いてバッグを手に取り、次の撮影に向けて台本を読もうとした。
「……あれ?」
しかし、鞄を開いても目的の本が見当たらない。全身からサァと血の気が引く。
(失くした?! どこだ、現場?!)
光汰は己の失態に顔面蒼白となり、勢いよくバッグをひっくり返した。血眼になって漁っていると、ポケットの中でスマホがけたたましく鳴り響いて着信を告げる。画面には「一ノ瀬翔」の文字が浮かんでいた。光汰は、彼が何か知っているかもしれないと一抹の希望を賭けて通話を繋ぐ。
『もしもーし、オタク君に会いたくて浮かれて大事な台本を忘れた光汰くーん? 間違えて俺のバッグに入ってたんですけどー』
スピーカー越しに、いつも通りの調子の一ノ瀬の声が届いた。台本の在処が分かり、光汰は安堵で思わず床に座り込む。
「浮かれてはいないですけど……すいません、どこにいますか?」
『マネの朝野さんに連絡して、君のマンションの前まで来てまーす』
「はっ?!」
その突飛な言動に、光汰は思わず素っ頓狂な声を上げてインターフォンのモニターに飛びついた。エントランスのカメラをONにすれば、変装用のサングラスを額に引っ掛けた一ノ瀬がニコニコと笑いながら手を振っているではないか。
『オートロック開けてー』
光汰は大慌てでロックを解除して玄関ドアを勢いよく開け放った。数十秒後、エレベーターを降りた一ノ瀬が姿を現し、台本を持った手をひょいと上げる。
「ありがとうございました。では」
「ちょっ冷たい! わざわざ届けてあげたのに!」
台本を受け取った光汰は、軽く頭を下げて最低限の礼儀を果たすと、即座にドアを閉めようとした。一ノ瀬は目を見開き、大慌てで閉まりゆくドアを鷲掴む。
「光汰くーん、オタク君いるんでしょ? 一目見させてよ!」
「ちょっ、まさかそれが目的で?」
「それは違うでしょ、台本ないと困るし? 忘れたのは光汰クンだし!」
「それはすいません。感謝しています」
ドアを隔ててすったもんだを繰り広げること数十秒。玄関から部屋へ入る廊下の途中、遂に脱衣所のドアがカチャリと音を立てて開いた。風呂上がりの星が恐る恐るといった具合で顔を出す。濡れたままの黒髪から水滴がぽたりと垂れた。
「光汰くん、誰か来たの……?」
「あっ」
光汰がしまったと言わんばかりに声を上げる。しかし時は既に遅く、星の視線は光汰を飛び越し、ドアを無理矢理こじ開ける男、『フェニクスブルー/千早蒼』を演じる一ノ瀬翔の姿を捉えた。
「あ、あ、あ、ふぇ、フェニクスブルーだぁ!」
星の手から髪を拭いていたタオルがポロリと床に落ちる。星は、まるでいつかの水族館で出会った子どものようにキラキラと目を輝かせた。その太陽のような眩しさに、二人は思わず目を細める。
「やっほー! 初めましてだけど、君のことは光汰から聞いてるよー!」
そして一ノ瀬は面白がるように背伸びをし、星に向かってパタパタと気さくに手を振った。
「え、認知されてる……?」
辛うじて同級生という共通点があって知り合った星と光汰とは違い、一ノ瀬は星にとって完全な芸能人である。都合のいい夢と言っても過言ではない状況に星は口を覆い、何とか足を踏ん張って気が遠のくのを堪えた。
「呆気にとられちゃって、面白いし可愛いねー! サインあげようか?」
「い、いいんですか……?」
ニコニコと笑って一ノ瀬が手招きをすれば、星は壁を支えにヨロヨロと歩みを進める。その様子を眺め、光汰は額に手を当てて深々と溜め息をついた。




