第3話 二人で決めること
ロゼッタが発った翌日、ニコラはヴィリエ家を訪ねた。
案内された応接間では、アデルが小さな箱を開けていた。白い布の上に、銀の刺繍が入ったリボンが三本並んでいる。
「式の日につけるものですって。お母様が取り寄せてくださったの」
アデルは一本を指で持ち上げたが、ニコラの顔を見ると、箱の中へ戻した。
「そのお話ではなさそうね」
「うん。婚約のことで、君と話したい」
「ロゼッタ様は、もうお発ちになったの?」
旅に出ることは、ニコラから伝えてあった。
昨日の朝、隣家の門から馬車が出ていくのを、彼は自室の窓から見ていた。見送りに行くつもりはなかった。それでも窓辺には立ってしまった。
「昨日、出発した」
「引き止められなかったのね」
ニコラは返事に詰まった。
アデルは箱の蓋を閉めた。留め金が、思ったより大きな音を立てた。
「一昨日、お会いになったのでしょう。謝りに行くと仰っていたけれど、それだけだった?」
「……そばにいてほしいと、言った」
アデルの指が、留め金を押さえたまま止まった。
「私と婚約したままで?」
「そうだ」
「私には何も仰らずに?」
頷くことも、言葉を選ぶことも、ずいぶん遅くなった。アデルはその間、目を逸らさなかった。
「君とのことは父にも話すと、その場で言った。先に君に話すべきだった」
「では、ロゼッタ様がお頷きになっていたら、今日は私にお断りを言いにいらしたのね」
違う、と言えるところを探しかけて、やめた。
あのとき、ロゼッタが出発を取りやめてくれることばかり考えていた。アデルがどんな顔で自分を待っているかは、考えなかった。
「そうなっていたと思う」
「ずいぶん率直ですこと」
声が尖った。ニコラは膝の上で手を握った。
「ごめん」
「それで、断られたから、予定どおり私と結婚なさる?」
「そのつもりで来たんじゃない」
「でも、戻ってきてくださったら、とは思っていらっしゃるでしょう」
ロゼッタは次の約束をしないと言った。ニコラはわかったと答えた。
それで気持ちまで整ったわけではなかった。今朝も、港町へ着くまで何日かかるのかと考えた。無事に着いたと知りたくて、隣家を訪ねる理由を探しかけた。
「まだ、会いたいと思っている」
アデルは背もたれから身を起こした。
「それを聞かされる私の気持ちは、お考えにならないのね」
「考えていなかった。だから、今のままで結婚の話を進めてはいけないと思った」
扉の外で、茶器の触れる音がした。侍女が入ってきて、二人の前にカップを置いた。アデルは礼を言い、ニコラもそれにならった。
白い皿には、小さな焼き菓子が二つずつ載っていた。アデルは手を伸ばさなかった。
「私、あの夜会では楽しかったのよ」
侍女が扉を閉めてから、彼女は言った。
「踊りを一度間違えても、あなたは笑わなかった。次の曲も誘ってくださったでしょう。お父様たちのお話が早すぎるとは思ったけれど、あなたなら、と思ったの」
「僕も、君と話すのは楽しかった」
「それなのに、婚約したばかりの私を呼んで、別の女性がどれだけご自分をわかっているか、お聞かせになるのだもの」
ニコラには、あの席で二人を会わせるのがよいことに思えていた。大事な幼なじみと、これから家族になる人。親しくなってくれれば、それだけで安心できると。
「嫌だったのか」
「ええ。とても」
アデルはすぐに答えた。
「週に三度もお会いになって、お菓子の中身まで確かめてくださる方がいるなんて。私は、その方の隣で何をすればよかったの?」
ニコラはあの日の自分の声を思い出した。君といると、いちいち言わなくていいから助かる。そんな言い方を、アデルにも聞かせていた。
「君にも、何も聞かなかったね。あの習慣を続けたいかどうか」
「続けたくなかったわ」
アデルの目に涙が浮かんだ。彼女はハンカチを取り出し、目尻へ強く当てた。
「でも、嫌だと言えば、私が心の狭い女みたいでしょう。あなたはあんなに嬉しそうでしたし」
「僕に言ってよかったんだ」
「今なら、何とでも仰れるわ」
そのとおりだった。あの席で言われていたら、気にしなくていい、昔からそうだったのだからと答えたかもしれない。
ニコラは顔を伏せかけ、もう一度アデルを見た。
「言いにくくしたのは僕だ。君が嫌だったことを、気にしすぎだとは思わない」
「では、どうして私ばかり、意地の悪いことをしたようになるの」
「僕もした。ロゼッタには、そう言って謝った」
アデルが唇を結んだ。
「あなたが謝ったら、私は何なの」
ニコラはカップの取っ手から指を離した。
「君の代わりに謝ったわけじゃない。僕が彼女の気持ちを笑おうとしたことを、謝ったんだ」
「子供の約束を持ち出されても、困るでしょう」
「困ったよ。覚えてもいなかった。でも、本気だったと言った人に、そんなはずはないって言うことはなかった」
アデルは何か言いかけて、やめた。ハンカチを細く折り、また広げた。
「……お茶を頼んだとき、あの方が嫌がるのはわかっていたわ」
声は小さかったが、ニコラには聞こえた。
「私の席に座る方ではないと、わかってほしかったの。あなたに言うより、簡単だったから」
あのとき、空のカップを受け取ったロゼッタの顔を、ニコラはよく見ていなかった。自分の腕に添えられたアデルの手を、嬉しく思っていた。
「君が僕に腹を立てるのは当然だ。でも、それを彼女にしたことまで、よかったとは言えない」
「私だって、よかったとは言っていません」
アデルは顔を背けた。窓の外を庭師が通り、剪定した枝を荷車に積んでいった。
二人とも黙ったまま、その音を聞いていた。
「このまま、婚約は続けられないわ」
先に口を開いたのはアデルだった。
「あなたがあの方を諦めるのを待って、それから私を好きになるかどうか確かめるなんて、したくない」
「うん」
「簡単に頷かないで。私、お友達にも話したのよ。式の招待状を楽しみにしているって、昨日も手紙が来たわ」
ニコラは閉じられた箱を見た。ここへ来るまで、式を取りやめることを、自分の返事一つで終わる話のように考えていた。
「お父上には、僕から話す。僕が、君に黙ってロゼッタを引き止めようとしたことも」
「その話を、よそにまで広めないでくださいな」
アデルはきっぱりと言った。
「お父様にはお話しください。でも、お友達には私から伝えます。あなたから説明をされるのは嫌よ」
「わかった」
「それと、しばらく夜会でお会いしても、踊りに誘わないで」
ニコラは頷いた。仲直りをするような言葉を、ここで求めることはできなかった。
アデルが卓上の鈴を鳴らした。現れた侍女に、父親の都合を確かめてほしいと頼む。その声は、先ほどより少し低かった。
「取り寄せた品のことも、お父様を交えて決めましょう。私たちだけで済ませられないものがあるから」
「僕の父にも来てもらう」
アデルは箱を自分のほうへ引き寄せ、膝に載せた。
やがて侍女が戻り、伯爵が書斎で待っていると告げた。
アデルが立ち上がった。ニコラも席を立ち、冷めたお茶を残して、彼女と一緒に応接間を出た。
その日の夕方、両家の父親を交えた席で、婚約を解消することが決まった。
帰りの馬車で、父はニコラに、婚約を知らせた相手を明日までに書き出すように言った。アデルの家と文面を揃えて、取りやめになったことを伝えなければならない。
家に着くと、ニコラは上着を脱ぎ、机の前に座った。最初の一人の名を書いてから、手帳を開いた。
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