第4話 お茶に来てくれる?
港町へ来て、ひと月が経った。
朝の窓から見える船の数を、まだ数えている。昨日まで二本の帆柱が見えていた場所が空いていて、ミナに言うと、夜明けに出ていったのだと教えてくれた。
「お嬢様がお休みの間ですよ」
「見たかったわ」
「次はお起こししましょうか」
少し考えてから、頼んだ。寝ぼけたまま窓まで歩く自分が目に浮かび、ミナと笑った。
朝食のあとには、書店へ行く約束があった。
店は市場の先にあり、軒先に青い布が張ってある。初めて連れていってもらった日は、その布を目印にすれば帰り道を覚えられると、叔母が教えてくれた。
ルイーズと知り合ったのも、その日だった。
私が棚の上の本を見ていると、奥から踏み台を運んできてくれた。店主の娘で、年は私と同じだった。
『それ、海に出たくなくなりますよ』
彼女は私が手に取った本を見て、真面目な顔で言った。航海の紀行文だと思っていたけれど、帰れなくなった船の話が三つも入っているらしい。
『船が沈まない本はないかしら』
『沈むけど帰ってくる本なら、あります』
隣で聞いていた叔母が笑った。
結局、私は二冊とも借りた。こちらでは、代金を払えば本を借りることもできるのだという。
それからも散歩の帰りに何度か店へ寄り、本の話をした。名前で呼んでもいいかしらと聞いてくれたのは、ルイーズのほうだった。
今日は、その二冊を返す日だった。
ルイーズは帳場で紐を結んでいたが、私を見ると手を止めた。
「どちらから読んだ?」
「帰ってくるほう。もう一冊は、昼間に少しずつ」
「最後の話がいちばん怖いわよ」
「もう読んだわ。昨日、ミナが部屋にいる間に」
背後でミナが小さく咳をした。私が、あと少しだけ片づけをしていて、と頼んだことを思い出したらしい。
ルイーズは本の表紙を撫で、角に折れがないか確かめた。
「どちらが好きだった?」
「怖いほう、かもしれない」
「ええ、怖がっていたのに?」
「だって、料理番だけが最後まで嘘をつかなかったでしょう。あの人がどうなるか、気になって」
ルイーズが頷いた。私もそこが好きなの、と言って、話の途中で一度だけ扉を見た。
年配の男性が入ってきた。彼女はすぐに立ち上がり、私にちょっと待ってねと言って、注文の本を取りにいった。
私は端へよけ、棚に並ぶ背表紙を眺めた。次に借りたい本が二冊見つかり、帰るまでに一冊に絞らなければと思った。
「ごめんなさい。お待たせして」
「大丈夫。こちらと、こちらで迷っていたの」
「それなら、右を先に。左は続きがあるんだけれど、今、貸し出しているから」
そう言う彼女の目の下に、薄く影があった。
「忙しい?」
「船が入ったから。注文していた本が届いたの。嬉しいけれど、宛名を書くだけで肩がこってしまうわ」
帳場の下には包みが積まれていた。私が来たとき結んでいたのも、その一つだったらしい。
手伝おうかと言いかけて、包みの札を見た。知らない店の名と、人の名ばかりだった。勝手に触れたら、かえって困らせそうだった。
「終わったら、うちへお茶に来てくれる?」
口にしてから、叔母にまだ聞いていなかったと思い出した。
「叔母様にも伺ってみるわ。明日の午後か、明後日はどう?」
「明日は無理なの。母と仕入れに行くから。明後日なら、三時くらいに」
すぐに返事をしてもらえて、嬉しかった。三時なら、窓辺の席に日が差している。
「では、明後日。叔母様に聞いたら、お知らせするわ」
「お菓子を持っていってもいい?」
「もちろん」
「市場の丸い焼き菓子。あれ、好きなの」
私はまだ食べたことがなかった。そう言うと、ルイーズは急に楽しそうになり、二種類あるのよ、と教えてくれた。
* * *
二日後の午後、叔母は窓辺の小卓を少しだけ動かした。
「こちらのほうが、海が見えるでしょう」
「叔母様も一緒に召し上がらない?」
「最初の一杯だけ。あとは出かけるわ。仕立屋さんとの約束があるの」
私は三つのカップを並べた。ミナが運んできた菓子皿には、橙の皮の砂糖菓子と、小さなビスケットが載っていた。
「お茶は、私が淹れてもいい?」
ミナに聞くと、もちろんです、とポットを置いてくれた。
誰かを招いてお茶を用意するのは、こちらへ来てから初めてだった。茶葉の缶を開けると、馴染みの香りがした。
濃さを考えて匙を持ったまま、ルイーズの好みをまだ聞いていなかったことに気づいた。湯だけを用意して、彼女が来るのを待った。
三時を少し過ぎて、玄関の呼び鈴が鳴った。
ルイーズは紙包みを両手で抱えていた。叔母に挨拶をしてから、私のほうを見て、眉を下げた。
「ごめんなさい。形が少し崩れてしまったの」
包みには菓子が四つ入っていた。そのうち一つだけが、半分に割れていた。
「途中で、よその買い物籠とぶつかってしまって。替えてもらいに戻ろうかと思ったんだけれど」
「割れているほうを、今食べましょう。中がよく見えるわ」
薄い生地の間から、煮た林檎がのぞいていた。私が皿を近づけると、ルイーズはほっとしたように笑った。
「林檎と胡桃を二つずつにしたの。どちらにする?」
「半分ずつは、だめ?」
「私もそうしたかった」
ミナが小さなナイフを持ってきてくれた。林檎と胡桃を半分ずつ叔母の皿へ置き、私たちも同じように分けた。残りは大皿に載せたままにした。
ルイーズに濃さを尋ねると、お茶は薄めで、ミルクを少し入れたいという。
「私は濃いほうが好きだから、先にあなたの分を注ぐわね」
「ありがとう。ミルクは自分で入れてもいい?」
私は小さなミルク入れを、彼女の手の届くところへ置いた。
林檎の菓子は思ったより甘く、温かいお茶がよく合った。ルイーズは私の感想を聞く前に、自分の分を一口食べた。
「ああ、やっぱり林檎ばかりでもよかったかしら」
「でも、胡桃もおいしいわ」
「そうなの。だからいつも決められないのよ」
叔母が笑い、今度は自分でも買いにいくと言った。
やがて仕立屋へ行く時刻になり、叔母は帽子をかぶって出かけた。窓から手を振ると、道の向こうで帽子の縁を持ち上げてくれた。
「セシル様って、歩くのが速いのね」
「私、最初はついていくのに一生懸命だったわ」
椅子へ戻ると、ルイーズが、私の借りた本の話を始めた。私が次に選んだ一冊を、彼女は途中までしか読んでいないのだという。
「返ってくるたびに、続きを読もうと思うの。でも、先に借りられてしまって」
「だったら、先に読んで。まだ開いていないの」
「いいの?」
「私は前の二冊のおかげで、夜はしばらく船の話を読みたくないから」
そう言うと、二人で声を出して笑った。
笑った拍子に、胸の奥が少しだけ痛んだ。こんなふうに本の話をしたい相手が、前にもいた。
私はお茶を一口飲んだ。ルイーズは橙の菓子を初めて食べるらしく、匂いを確かめていた。
「これ、皮なのね」
「少し苦いわよ」
彼女は小さくかじった。それから、これはお茶よりミルクが欲しくなるわ、と言った。
私は笑ってミルク入れを寄せ、橙の菓子をもう一つ自分の皿へ取った。
「読み終えたら、私にも感想を聞かせてね」
「ええ。今度は店の奥へ来て。昼過ぎなら父が帳場にいるから、落ち着いて話せると思う」
「本を返す日でなくても?」
「もちろん。お茶もあるわ。濃さは、自分で見てもらっていい?」
いいわよ、と答え、私は彼女の空いたカップを見た。
「もう一杯、飲む?」
「飲むわ。今度は少し濃くても大丈夫。ミルクがまだあるもの」
ポットを持ち上げたところで、ルイーズが残っていた胡桃の菓子を二つに割った。
「ロゼッタ、そちらのお皿を貸して」
私は片手で皿を差し出した。少し大きいほうが載ったので、指で示すと、彼女は笑って、自分の口へ小さいほうを放り込んだ。
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